第十話 その転校生は完璧すぎる
篠崎が教室前へ現れ、御影や小鳥遊まで交えてひと騒ぎになった日から、数日が経ったころ。
その日の朝、教室は普段とは違うざわめきに包まれていた。
出所は分からないが、東条グループの御曹司がこの学校へ編入してくるという噂が、数日前からまことしやかに囁かれていた。
東条グループといえば、ホテルや不動産、流通を中心に、誰もが一度は名前を聞いたことのある大企業だ。その跡取り候補が、なぜわざわざこの学校へやってくるのか。国内有数の有名私学だろうと、本人が望めば好きなところへ通えるのではないかと思う。まあ、どこまでいっても余計なお世話でしかないのだが。
「御影さんだけでも不思議だったのに、今度は東条グループ?」
「この学校、実は金持ちにしか分からない何かがあるんじゃない?」
「ないだろ。校舎だって普通に古いし」
「でも、わざわざこんな中途半端な時期に編入してくるんだよね?」
教室のあちこちで同じような会話が交わされていた。
自分たちが普段通っている学校を一般高校と呼ぶのも妙な話だが、少なくとも経済界の大物の子供が続けて選ぶような場所ではない気がしている。御影に加えて東条家の御曹司まで通うかもという噂は、十分すぎるほどの話題だった。
当の御影はといえば、周囲の騒ぎなどどこ吹く風で、いつもと変わらず本を読んでいた。
「御影は何か知ってるのか?」
「何について?」
「ほら、そこら中で噂になってる東条家の御曹司が来るって話だよ」
「さあ。私は何も聞いていないわ」
「面識とかはないのか」
上流階級の人間関係など俺には知る由もないが、東条家と御影家ほどの名家であれば、以前から交流があっても不思議ではなかった。
「家同士にはあるのでしょうね。私はパーティーで名前を何度か見かけた程度よ」
そう言って、御影は何の興味もなさそうにページをめくる。
始業時刻が近づくにつれ、噂を確かめに来たらしい他のクラスの生徒まで、廊下を行き来し始めた。もっとも、誰も東条家の御曹司の顔など知らないため、見慣れない男子を見つけるたびに反応しては、勝手に落胆しているだけだったが。
俺がそんな様子を眺めていると、三浦がにやにやと薄笑いを浮かべて話しかけてきた。
「高槻」
「何だ」
三浦は声を潜め、いかにも秘密の情報を教えるように俺の耳元へ顔を寄せる。
「どうやら今日、本当に東条家のお坊ちゃんが来るらしいよ。しかもどうやら本人たっての希望で編入してくるらしい」
「……どうしてそんなことをお前が知ってる」
「さあ、風の噂で聞いただけだよ」
わざとらしく肩をすくめる。
噂の出所は、もしかしなくてもこいつなのではないだろうか。
問い詰めようとした、そのときだった。
教室の前方の扉が、ガラガラと音を立てて開いた。
担任の梶先生が入ってくる。
その後ろから、見慣れない男子生徒が姿を現した瞬間、教室中の話し声がぴたりと止まった。
誰も東条家の御曹司の顔は知らない。
それでも、全員が直感的に理解した。
噂の転校生は、この人だと。
背は百八十センチほどだろう。すらりとした体格に姿勢もよく、真新しい制服は細部まで綺麗に着こなされている。艶のある黒髪は清潔感を損なわない長さに整えられ、目鼻立ちは、同じ男から見ても反則だと思うほど端正だった。
単に整っているだけではない。
涼しげな目元には知性があり、口元に浮かべた穏やかな微笑には余裕がある。どの角度から見ても崩れるところがなく、教壇の横に立っただけで、教室全体がそいつのために用意された舞台のように見えた。
「……やば」
女子の誰かが、思わずといった様子で呟いた。
その声を皮切りに、教室内へざわめきが戻ってくる。
「ちょっと待って、本当に格好よくない?」
「芸能人じゃなくて?」
「あれで御曹司って、完全に王子様じゃん」
男子でさえ露骨に目を奪われていた。
廊下に集まっていた生徒たちも、扉や窓から一斉に教室内を覗き込んでいる。梶先生は彼らの姿に気づくと、眉間へ皺を寄せた。
「廊下にいる連中、自分の教室へ戻れ。見世物じゃないぞ」
注意されても、すぐに立ち去る者は少なかった。梶先生が教室の外まで睨みを利かせ、ようやく人影が散っていく。
「朝から騒がしいが、今日からこのクラスに編入することになった東条雅臣だ。お前たちの気持ちもわからんでもないが、本人も困るだろうから節度を持って接すること」
東条は梶先生からチョークを受け取ると、黒板へ流れるような字で自分の名前を書いた。
そして教室へ向き直り、ゆっくりと一礼する。
「東条雅臣です。急な編入となりましたが、一日でも早く皆さんと馴染めればと思っています。分からないことも多いので、ぜひ力を貸してください。これからよろしくお願いします」
簡潔で、非の打ち所のない挨拶だった。
家柄を鼻にかける様子もなく、過度にへりくだってもいない。教室全体へ視線を配りながら話す姿には、人前へ立つことに慣れている者の落ち着きがあった。
「東条の席は、廊下側の一番後ろだ。しばらく教科書が揃わないものもあるだろうから、近くの者は見せてやってくれ」
「ありがとうございます」
東条は梶先生へ一礼すると、指定された席へ向かった。御影と俺が座る窓側とは反対で、教室の端から端ほど離れている。
席へ着くまでのわずかな間にも、女子たちの視線がその姿を追い続けていた。東条が椅子を引いて腰を下ろすだけで周囲が小さくざわめき、梶先生が何度注意しても、教室の浮ついた空気は最後まで収まらなかった。
結局、朝の会は異様な熱気を残したまま終わった。
◇◆◇◆◇
一時間目が終わると同時に、東条の席は大勢の生徒に囲まれた。
前の学校はどこなのか。東条グループの御曹司という噂は本当なのか。部活動へ入る予定はあるのか。果ては恋人の有無まで、遠慮のない質問が次々に飛び交っている。
それでも東条は嫌な顔一つ見せなかった。
「以前は都内の学校に通っていたよ。こちらへ移った事情については、すぐに分かると思うよ」
「東条グループって、本当にあの東条グループ?」
「たぶん、皆が想像しているところで合っているよ。ただ、僕自身はまだ何も成し遂げていないから、家の名前で構えないでもらえると嬉しいな」
「彼女はいるんですか?」
「今はいないよ」
答えにくい質問は角が立たないようにかわし、相手が誰であっても目を見て丁寧に応じている。女子にだけ愛想を振りまくわけでもなく、男子から話しかけられれば同じように笑顔を返していた。
容姿も家柄も恵まれているのに、嫌味なところが見当たらない。転校初日にこれだけの人間に囲まれて、自然に振る舞えるだけでも大したものだった。
東条はひととおり質問に答えると、周囲へ申し訳なさそうに片手を上げた。
「ごめん。少しだけ待ってもらえるかな。先に挨拶しておきたい人がいるんだ」
その一言で人の輪が自然に開く。
東条は席を立つと、迷うことなく教室を横切り、俺たちのところまでやってきた。
「玲奈さん。久しぶりだね」
嬉しさを隠そうともしない声に、御影が読んでいた本から顔を上げる。
「その呼び方はやめてくださる?」
「以前からそう呼んでいたと思うけれど」
「以前から不快に思っていたわ。御影さんと呼んで」
普通なら気まずくなりそうな返答だったが、東条は気分を害した様子もなく、困ったように微笑んだ。
「相変わらず手厳しいね。けれど、また会えて嬉しいよ」
「私は別に嬉しくないわ」
「その率直なところも変わっていない」
御影の態度を拒絶とは受け取っていないらしい。東条は懐かしそうに目を細めたあと、俺へ視線を向けた。
「こちらは?」
「高槻よ。学校のことで分からないことがあるなら、私より彼に聞いた方がいいわ」
「勝手に案内役へ任命するな」
「あなたはこの学校にも、世間一般の常識にも、私より詳しいでしょう」
「比較対象がお前なら大抵の人間が当てはまる」
「失礼ね」
御影は不服そうに本を閉じた。
東条は俺たちのやり取りを興味深そうに眺めてから、改めてこちらへ向き直る。
「初めまして。東条雅臣です」
「高槻春人だ。よろしく」
差し出された手を握り返す。
東条は俺よりわずかに背が低いものの、近くで見ると立ち姿の綺麗さがよく分かった。握手する力も強すぎず弱すぎず、相手を威圧しない程度にしっかりしている。
「高槻君は背が高いね。それに、とても落ち着いている。先ほどから周囲へ自然に気を配っていたし、君には人を支える才があるように感じるよ」
初対面の相手をこれほど自然に褒められる人間は珍しい。お世辞だとしても不快さはなく、相手へ好印象を与える術が身についているのだろう。
「買いかぶりよ」
なぜか御影が横から口を挟んだ。
「高槻は人を支えることに長けているのではなく、困っている人間を放置できないだけだわ。おかげで自分の負担ばかり増やしているもの」
「お前は褒められている本人より先に否定するな」
「正確な情報へ訂正しただけよ」
「しかも、半分くらいお前が増やした負担だろうが」
「その点については否定しないわ」
悪びれもせず答える御影に、思わずため息が漏れる。
東条は俺たちを交互に見ると、どこか納得したように微笑んだ。
「本当に仲がいいんだね。聞いていたとおりだ」
「……聞いていた?」
誰から、何を聞いていたのか。
引っかかった俺が尋ねると、東条は「ああ」と何でもないことのように頷いた。
そのまま御影へ顔を向け、澄んだ声で告げる。
「僕は玲奈さんと将来を見据えた、正式な恋人関係を結ぶために、この学校へ転校してきたんだ」




