第十一話 御曹司と令嬢
『僕は玲奈さんと将来を見据えた、正式な恋人関係を結ぶために、この学校へ転校してきたんだ』
東条がそう宣言した直後、教室はひっくり返ったような騒ぎになった。
誰かが悲鳴を上げ、誰かが恋人関係とは具体的にどういう意味なのかと尋ね、別の誰かは御影へ本当に付き合っているのかと詰め寄った。
御影はそのすべてを「違うわ」の一言で切り捨てたが、もはや誰も聞いていなかった。
東条グループの御曹司が、御影玲奈との将来を見据えて転校してきた。
その話は一時間目が始まる前には隣のクラスへ伝わり、昼休みを迎える頃には、学年どころか学校中へ広がっていた。
尾ひれがつくのも早かった。
二人は幼い頃から婚約している。両家公認の仲である。御影を追って東条が前の学校を辞めた。卒業後には結婚が決まっている。
「おい高槻。御影さんと東条って、本当に婚約してるのか?」
「知らん」
「御影さんの隣の席なんだから、何か聞いてないの?」
「本人が違うと言ってる。それで十分だろ」
「でも東条は、将来を見据えてって――」
「それは東条が一方的に言ってるだけだ」
午前中だけで、似たような質問を何度されたか分からない。
なぜ俺が二人の関係について釈明しているのだろう。それも御影の隣に座っているというだけで、まるで事情を知る関係者のように扱われている。
当の御影は、休み時間になるたびに集まってくる生徒へ同じ返答を繰り返していた。
「婚約はしていないわ」
「では、両家公認のお付き合いというのは?」
「それも違う」
「東条君のこと、本当に何とも思ってないの?」
「何とも思っていないわ」
期待や遠慮を一切残さない返答だった。
それでも周囲は、御影が照れ隠しで否定しているように受け取っているらしい。あれだけ露骨に嫌そうな顔をしているのに、何をどう見ればそうなるのか理解できなかった。
一方の東条は、突然の騒ぎにも落ち着いて対応していた。
「僕が玲奈さんに好意を寄せていることは事実だよ。ただ、まだ交際しているわけではない。彼女が否定していることまで、事実のように広めないでもらえると助かる」
自分の発言が原因だと認めたうえで、御影へ迷惑がかからないよう言葉を選んでいる。
女子から二人の関係を尋ねられても、自分の気持ちは隠さず、御影の意思だけは勝手に代弁しない。男子に揶揄われれば穏やかに受け流し、教師から騒ぎについて注意されれば素直に謝罪していた。
あの宣言自体は衝撃的だったが、その後の対応に不誠実なところはない。
御影がどう思っているかは別として、東条が悪い人間ではないことだけは分かった。
◇◆◇◆◇
昼休みになると、東条は再び大勢の生徒に囲まれた。
特に女子からの人気は凄まじかった。恋人がいないと聞いたためか、自分にも可能性があると考える者が少なからずいるらしい。
だが、東条は誰に対しても親切に応じながら、特定の相手へ期待を持たせるような態度は見せなかった。しばらくして話を切り上げると、手にしていた弁当を持って御影の席へやってくる。
「玲奈さん。よければ一緒に昼食を取らないか?」
「取らないわ。それと御影さんと呼んで」
「では、どこで食べる予定なのかな」
「ここよ」
「それなら、近くの席を借りても?」
東条が俺を見る。
「俺に聞かれても困る。席の持ち主に聞いてくれ」
御影の前に座っている男子は、東条から丁寧に頼まれると、喜んで席を譲った。東条は礼を告げて椅子を運び、腰を下ろす。
その一連の動作まで妙に様になっていた。
東条が弁当箱を開くと、中には彩りまで計算された料理が綺麗に詰められていた。一方、御影の昼食は購買で買ったパンと小さな野菜ジュースだ。
「それだけで足りるのかい?」
「足りるわ」
「栄養が偏っているように見えるけれど」
「以前より改善しているわ。高槻に選び方を教わったもの」
また俺の名前を出す。
東条がこちらへ顔を向けた。
「高槻君が?」
「菓子パンだけで済ませようとしていたから、せめて別のものも買えと言っただけだ」
「なるほど。玲奈さんのことをよく見ているんだね」
「放っておくと食事を抜くからな」
「高槻。余計なことは言わなくていいわ」
「事実だろ」
「今は改善しているもの」
御影が野菜ジュースを持ち上げ、進歩の証明のように見せてくる。
「確かに改善している。だが、それ一本ですべて解決したような顔をするな」
「野菜が含まれているわ」
「そういう問題じゃない」
東条は俺たちのやり取りを黙って見ていた。
笑みは崩れていない。ただ、弁当箱に添えられた指が一度だけ止まった。
「玲奈さんが食事に困っているなら、僕から家へ人を向かわせることもできるよ。栄養管理のできる料理人を手配すれば、毎日の負担もなくなる」
「必要ないわ」
御影は即座に断った。
「遠慮しなくていい。君が一人で暮らしていることは、お父上から聞いている。食事だけでなく、掃除や買い物も――」
「だから必要ないと言っているの」
御影の声から、わずかに温度が消えた。
「私は誰かに身の回りのことをさせたいわけではない。自分でできるようになりたいのよ」
「それなら、できるようになるまで僕が支える」
「高槻に教わっているから結構よ」
東条の視線が、再び俺へ向けられる。
「高槻君に?」
「ええ。契約を結んでいるわ」
「契約?」
「一時間二千円で、生活に必要なことを教えてもらっているの」
周囲で聞き耳を立てていた連中が、一斉に俺を見た。
「御影、ここで話すな」
「どうして? 後ろめたいことではないでしょう」
「説明が足りなさすぎて誤解を招くんだよ」
「では、あなたが補足すればいいわ」
「それを毎回やらされて迷惑してるんだ」
御影は不思議そうに首を傾げている。
東条は少し驚いた様子だったが、すぐに穏やかな表情へ戻った。
「そういう関係だったんだね」
「妙な言い方をするな。ただの生活指導だ」
「いや、失礼。玲奈さんが誰かへ教えを請う姿が意外だったんだ」
「私にもできないことくらいあるわ」
「それはもちろん分かっているよ」
東条は柔らかく答えたあと、俺へ向き直った。
「玲奈さんを支えてくれて、ありがとう」
「お前に礼を言われる筋合いはない」
「確かにそうだね。まだ僕は、彼女の恋人でも婚約者でもない」
まだ、という部分を強調しながらも、東条の態度には押しつけがましさがなかった。
「けれど、いずれそうなりたいと思っている。だから、彼女が信頼している君のことも知りたい」
「俺を知ってどうするんだ」
「まずは友人になれれば嬉しいかな」
東条はさらりと言って、穏やかに微笑んだ。
恋敵として敵視されるよりは遥かにましなはずなのに、どうにも調子が狂う。身構えていた自分が馬鹿らしくなるほど、東条の対応には隙がなかった。
御影は俺たちの会話へ興味を失ったのか、無言でパンを食べている。
「ところで東条」
俺は朝から気になっていたことを尋ねた。
「どうして、わざわざこの学校へ転校してきたんだ。御影と話をするだけなら、家同士で会う機会もあるだろ」
東条は御影へ目を向けた。
「本来なら、近いうちに両家で食事をする予定だったんだ。父へ何度も頼み込み、ようやく席を設けてもらえた」
「私は出席しないわ」
「そのようだね」
東条は苦笑した。
「玲奈さんが来ないと聞いたときは、さすがに落ち込んだよ。それから、彼女が一般の高校へ通い、今年から一人で暮らしていると知った」
「それで転校してきたのか?」
「ああ。父を説得するのには苦労したけれどね。学校の外でも経営について学ぶこと、前の学校と変わらない成績を維持することを条件に、編入を認めてもらった」
さらりと言っているが、御曹司が年度途中で学校を移るとなれば、簡単な話ではなかったはずだ。それを実現させるだけの行動力と、父親を納得させる材料まで用意したらしい。
御影は呆れたように息をついた。
「そこまでする理由が分からないわ」
「朝、皆の前で話したとおりだよ」
東条は迷うことなく答えた。
「君と将来を見据えた関係を築きたい。そのためには、まず僕という人間を知ってもらわなければならないと思った」
「迷惑だと言ったら?」
「迷惑にならない距離を探すよ。けれど、簡単に諦めるつもりはない」
強引でありながら、御影の意思を無視しているわけでもない。そのぎりぎりの線を、東条は慎重に選んでいるように見えた。
御影は返事をせず、残っていたパンを小さくちぎった。
周囲では女子たちが、二人の会話を羨望の眼差しで見つめている。
大企業を背負う御曹司と、その隣に並んでも一切見劣りしない令嬢。家柄も容姿も釣り合い、以前から両家に交流まである。
誰もが、東条の隣に立つなら御影しかいないと思ったのだろう。
俺自身も、そう感じていた。
住む世界が違うという言葉を、これほど分かりやすく形にした二人はいない。
ただ、御影が誰を頼るのかという一点だけが、周囲の期待とは噛み合っていなかった。




