第十二話 屋上の風は吹き抜けている。
東条雅臣が転校してきてから、俺の学校生活はさらに騒がしくなった。
御影と東条は本当に婚約しているのか。東条の宣言を御影はどう思っているのか
朝から何度も同じことを聞かれ、そのたびに知らない、本人へ聞け、俺には関係ないと答えた。それでも質問は途切れず、昼休みには他のクラスの生徒まで俺を訪ねてきた。
東条本人は転校から数日でクラスへ馴染み、変わらず完璧な立ち振る舞いを続けている。その一方で、なぜか俺まで御曹司と令嬢の恋愛事情を知る関係者として扱われ始めていた。
放課後を知らせるチャイムが鳴る頃には、誰かと話すこと自体が億劫になっていた。
社会適応研究会の活動日であることは覚えていたが、すぐに部室へ向かう気にはなれない。昇降口脇の自動販売機でブラックコーヒーを買い、人目を避けるように階段を上った。
屋上へ出ると、少し強い風が制服の裾を揺らした。
空は薄い雲に覆われ、傾き始めた陽がその隙間から淡く差し込んでいる。眼下のグラウンドからは運動部の掛け声が聞こえてきたが、分厚い扉一枚を隔てた校舎内の喧騒は、ほとんど届かなかった。
フェンス際まで歩き、缶のプルタブを起こす。
口に含んだコーヒーは、疲れているせいか普段より苦く感じた。
「はあ……」
深く息を吐き出す。
「今ので、幸運が三つくらい逃げてったね」
突然、頭上から声が降ってきた。
反射的に振り返る。
屋上の隅には、給水設備を点検するための鉄製の梯子と、小さな作業足場が設けられている。その足場へ腰を掛け、篠崎がこちらを見下ろしていた。
「……何してるんだ、お前」
「見て分かんない? 風に当たってる」
「そこは生徒が座る場所じゃないだろ」
「春人って、そういうところ真面目だよね」
篠崎は悪びれもせず笑った。
俺が近づくと、屋上を吹き抜けた風が一段と強くなる。梯子へ足を掛けていた篠崎の髪とスカートが同時に煽られ、見てはいけないものが一瞬だけ視界の端を掠めた。
慌てて顔を背ける。
「お前、スカート押さえろ!」
「え?」
篠崎が遅れて自分の格好へ目を落とす。
それから俺の赤くなった顔に気づくと、小悪魔めいた笑みを浮かべた。
「春人、見たの?」
「不可抗力だ!」
「へえ。見たんだ」
「だから風で勝手に――」
「えっち」
「お前がそんな場所にいるからだろうが!」
思わず声を荒らげると、篠崎は肩を揺らして笑った。スカートを押さえる様子もなく、むしろ赤くなった俺の反応を楽しんでいる。
「何がおかしい」
「だって春人、こういうときだけ普通の男子みたいな反応するから」
「俺を何だと思ってるんだ」
「便利な巨人?」
「小鳥遊と同じようなことを言うな」
俺は篠崎へ背を向けたまま、残っていたコーヒーを一口飲んだ。先ほどより苦味が強くなった気がする。
しばらくして梯子の軋む音が聞こえ、篠崎が作業足場から下りてきた。俺の隣まで歩いてくると、フェンスへ背中を預ける。
「それで、お前こそ、こんなところで何してるんだ」
「だから、風に当たりに来たんだってば」
「特にすることがないなら帰ればいいだろ」
「それ、春人も同じじゃん。今日はなんだっけ? あのよくわかんない部活はないの?」
「……少し静かなところに来たくなっただけだ」
「私も似たようなもの。風に当たりたくなるときってあるでしょ」
篠崎はそれまでの笑みを少しだけ薄くし、遠くへ視線を向けた。
風に揺れる髪を耳へ掛ける横顔からは、いつもの人懐っこさが消えている。何かあったのかと尋ねかけたが、本人が話そうとしないことを無理に聞き出すのも違う気がした。
俺もフェンスの向こうへ目を向ける。
「……そうだな」
「でしょ?」
篠崎は満足そうに笑った。
しばらく、二人で黙って風に当たった。何かを話すために集まったわけではないせいか、沈黙はさほど気にならなかった。
「あの転校生君、すごい人気だね」
先に口を開いたのは篠崎だった。
「お前のクラスまで話が回ってるのか」
「そりゃ学校中で話題になってるよ。超イケメンの御曹司が、御影さんと付き合うために転校してきたんでしょ?」
「まだ付き合ってない。東条が一方的に宣言しただけだ」
「春人、今日ずっと同じ説明してそう」
「実際、何度言ったか分からん」
ため息をつきかけ、先ほど幸運が逃げると言われたことを思い出して途中で止める。
篠崎はその様子を見て小さく笑った。
「御影さんは?」
「迷惑そうにしてる」
「でもその人、顔も頭も性格もいいんでしょ。家柄だって御影さんと釣り合ってるし、学校中が二人をくっつけたがるのも分かるけど」
「本人の気持ちを無視していい理由にはならないだろ」
「そりゃそうでしょ、当たり前じゃん」
篠崎はフェンスへ肘を置き、頬杖をついた。
「たださ。春人は御影さんと、少し距離を取った方がいいんじゃない?」
「なぜだ」
「ただでさえ変な噂が増えてるのに、今度は御曹司まで来たんだよ。御影さんの世話を続けてたら、もっと面倒なことに巻き込まれるかもしれないじゃん」
「契約した以上、途中で投げ出すつもりはない」
「そういうところだよ」
篠崎の指先が、フェンスの金網を軽く弾いた。
「春人は頼まれたら、結局最後まで面倒を見るでしょ。御影さんも、それが当たり前になってきてるんじゃない?」
「最初よりは自分でできることも増えてる」
「春人の負担は?」
「金はもらってる。まだ実際に貰ったことはないが」
「聞いてるのは、そういうことじゃないんだけど」
篠崎は呆れたように目を細めた。
風が二人の間を抜け、空になりかけた缶の中で小さな音を立てる。
「そういえば春人、今度の土曜日は暇?」
唐突に話題が変わった。
「土曜の午前中は御影の家へ行く」
「……また御影さん?」
篠崎が分かりやすく口を尖らせる。
「定期的な生活指導だ。冷蔵庫の中身と、部屋が元の状態に戻ってないか確認する」
「お前はオカンか」
「放っておくと、とんでもないことになるんだよ」
「じゃあ夕方は?」
「夕方なら空いてる。夜は飯を作ったり、他にもいろいろしないといけないが」
「やっぱりオカンじゃん。高校生の土曜日とは思えない」
「うるさい」
篠崎は俺の顔を覗き込むように少し身を寄せた。
「だったら、夕方の時間は私にちょうだい」
「何をするんだ」
「それはまだ内緒。また連絡する」
「予定くらい先に説明しろ」
「いま決めたのに予定なんて決まってるわけないでしょ」
「余計に行きたくなくなったんだが」
篠崎は楽しそうに笑い、フェンスから背中を離した。
そのとき、屋上へ続く扉が開いた。
「高槻」
振り向くと、御影が立っていた。
風に煽られたサラサラの髪を片手で押さえながら、こちらへ歩いてくる。視線は一度だけ篠崎へ向けられ、すぐに俺へ戻った。
「今日は活動日でしょう。どこへ行ったのかと思ったわ」
「悪い。少し風に当たってた」
「教室にも部室にもいないから探したのよ。屋上へ続く階段を上っていくところを見たという生徒がいたから、来てみたの」
「わざわざ探しに来たのか」
「あなたがいなければ活動が始められないもの」
当然のように言われ、篠崎の言葉が頭をよぎった。
御影にとって、俺がいることはすでに当たり前になりつつあるのかもしれない。
「じゃあ、私は降りるわ」
篠崎が俺たちの間を抜け、屋上の出口へ向かう。
御影とすれ違う直前、その足が止まった。
篠崎が御影へ顔を寄せ、何かを囁く。ちょうど強い風が吹き抜け、声は俺のところまで届かなかった。
御影の目が、わずかに見開かれる。
篠崎は返事を待たず、ひらひらと手を振った。
「じゃあね、春人。土曜日、忘れないでよ」
それだけ言い残し、屋上から出ていった。
扉が閉まる音を聞いてから、俺は御影へ目を向ける。
「今、篠崎と何を話してたんだ?」
「別に」
「何か言われてただろ」
「いいえ。何も」
御影はそっけなく答え、篠崎が消えた扉から視線を外した。
「それより、早く部室へ行きましょう。小鳥遊さんが待っているわ」
「ああ」
並んで歩き出しても、御影は篠崎の言葉について何も話さなかった。
後になって知ったことだが、あのとき篠崎が告げたのは、ほんの短い一言だったらしい。
――春人が平気そうにしてるからって、何でも背負わせないで。
その言葉が御影の中に何を残したのか、このときの俺には知る由もなかった。




