第十三話 令嬢の胸中は片付かない
土曜日の午前十時前、俺は御影のマンションへ向かって歩いていた。
今週の御影は、相変わらず御影だった。分からないことがあれば尋ねてくるし、こちらの説明に納得できなければ遠慮なく反論する。ただ、以前と比べると、心なしか口数が減ったような気がする。
東条が編入してきてから、御影は本人の意思とは関係なく学校中の注目を集めていた。そのことに嫌気が差しているだけなのかもしれないし、俺の考えすぎかもしれない。理由を尋ねたところで、何もないと返されることは目に見えていた。
一方、東条はわずか一週間ほどで、すっかりクラスへ馴染んでいた。
相変わらず女子からの人気は凄まじいが、あいつの本当にすごいところは、相手が男子でも態度を変えないことだった。誰かの名前を一度聞けば覚え、会話へ入りづらそうにしている人間がいれば自然に話を振る。自分から距離を詰めているはずなのに、押しつけがましさを感じさせない。
あれが将来、経営者として人の上に立つための能力なのかは分からない。ただ、人と打ち解けることに関しては、俺より遥かに上手だった。
その東条がやけに俺へ話しかけるものだから、俺まで普段ならほとんど話さない同級生と言葉を交わす機会が増えていた。昨日など、東条を中心にできた会話の輪から抜けるタイミングを失い、気づけば昼休みの半分をクラスメイト数人と過ごしていたほどだ。
誰に対しても自然に振る舞えるくせに、御影への接し方だけは妙に真っすぐすぎる。
あれほど露骨に好意を示し続けるのは、どう考えても悪手に見えた。もっとも、御影のように遠回しな表現をまともに受け取らない人間には、あれくらい分かりやすい方が有効なのかもしれない。
そんなことを恋愛経験が殆どない俺が考えても、答えが出るはずはなかった。
そんなことを考えているうちに、見慣れ始めたマンションへ辿り着いた。
エントランスで部屋番号を押すと、短い呼び出し音のあとに御影の声が返ってくる。
『開けるわ』
自動ドアを抜け、エレベーターで上階へ向かう。部屋の前へ着く頃には扉が開いており、御影が室内着の上からエプロンを身につけて待っていた。
「時間どおりね」
「約束したんだから当然だろ」
靴を脱いで部屋へ入る。
初めて訪れた頃と比べると、室内はかなり綺麗になっていた。床に物が散乱していることもなく、使った食器は流し台へ積み上げず、その日のうちに洗うようになったらしい。冷蔵庫にも菓子や飲料だけではなく、卵や野菜など、簡単な料理に使える食材が並ぶようになっている。
「今日は何をするんだ?」
「一度、部屋の収納をすべて見直そうと思っているわ」
「珍しくまともな判断だな」
「普段の私は、まともではないように聞こえるけれど」
「最初に来たときの部屋を思い出してから言え」
御影は反論せず、俺の手から収納用品の入った袋を受け取った。
床に物が散乱することはなくなったが、見える場所から移動させただけのものも多い。クローゼットを開けば、衣類の隙間に学校の書類や未開封の宅配便が押し込まれ、棚の中には明らかに高価そうな化粧品と文房具、薬、充電器が脈絡なく並んでいる。
「一度すべて出して、使うものと使わないものに分けるぞ」
「捨てるの?」
「最初から捨てるとは言ってない。よく使うもの、たまに使うもの、不要なもの、判断できないものに分ける」
「分類が多いわ」
「全部必要なものだと言って戻す人間がいるからな」
「まだ何も言っていないでしょう」
「顔に書いてある」
リビングの床へシートを敷き、棚の中身を一つずつ並べていく。
「判断できないものは、この保留箱に入れる。ただし、箱がいっぱいになったら増やさない。三か月後にもう一度確認して、一度も使わなかったものは処分を考える」
「三か月後に必要になる可能性は?」
「その理屈だと何も捨てられないだろ」
「将来を予測するのは難しいわね」
「収納にそこまで壮大な判断は求めてない」
御影は取り出したものを自分で分類し、俺は横から確認することになった。最初のうちは順調だったが、途中から「判断できないもの」へ置かれる品が明らかに増えていった。
「御影。この箱だけ多すぎないか?」
「今すぐ捨てる理由が分からないものよ」
「期限切れの割引券も?」
「会計のときに渡されたのだけれど、何に使うものか分からなくて取っておいたの」
「次にその店で買い物するとき、条件に合えば代金が安くなる。ただ、これはもう期限が過ぎてるから使えない」
「期限を過ぎると、ただの紙になるの?」
「そういうことだ」
「知らなかったわ。では、これは捨てていいのね」
御影は券に印刷された日付を確かめてから、不要なものの箱へ移した。
しばらくそのまま整理を続けていると、御影が棚の奥から厚手の封筒を取り出した。
表面には金色の文字が刻まれ、隅には見覚えのある企業名が小さく印刷されている。
「東条グループ……これ、もしかして」
尋ねた途端、御影が露骨に顔をしかめた。
「以前、記念式典へ招待されたときのものね」
「捨てていいのか?」
「もう終わった式典よ。残しておく理由はないでしょう」
御影は迷うことなく、封筒を不要なものの箱へ移した。
期限切れの割引券のときは暫く悩んでいたくせに、あきらかに重要そうな封筒はすぐに捨てられるのか。
「記念式典には行ったのか?」
「行くわけないでしょう」
「じゃあ、東条とはどこで会ってたんだ?」
「父に連れられて出席した、関係者だけの会食やパーティーよ。何度か顔を合わせただけなのに、向こうは以前から親しかったような口ぶりで話すけれど、私にはその認識はないわ」
「昔から、あんな感じだったのか?」
「基本的には変わらないわ。中学生の頃から東条グループの経営会議へ同席し、長期休暇には系列会社の現場を回って、事業についての報告書まで提出していたそうよ。そのうち何本かは、実際に役員会で検討材料として使われたと聞いているわ」
「ずいぶん詳しいんだな」
「父から何度も聞かされたのよ。次代を担う者として、少しは彼を見習ったらどうだ、と」
御影はうんざりしたように、手にしていた招待状を不要なものの箱へ放り込んだ。
「客観的に見れば優秀なのでしょうね。だからといって、私が好意を持つ理由にはならないわ」
御影は次の書類へ手を伸ばしたが、指先には普段よりわずかに力が入っていた。
「転校してくることは、事前に聞いてなかったのか?」
「何も聞いていないわ。突然教室に現れて、玲奈さんと呼びされたときは、本当にうんざりしたもの」
「てっきり結構親しい間柄かと思ったが」
「二度目に会ったときから、勝手にそう呼ばれているわ。そのたびに訂正しているのだけれど、彼は親しみを込めているだけだと言って聞かなかった」
「嫌がってるなら、親しみも何もないだろ」
「彼は昔から人の話を聞かないのよ」
御影は吐き捨てるように言い、書類の角を揃え直した。
「あいつが転校してきたことについて、家からは何も言われてないのか?」
「この前、めずらしく父から連絡が来たわ。東条君がそこまで真剣なら、一度くらい二人で話す機会を設けてもいいのではないか、と」
御影は淡々と話していたが、手元の書類を揃える音だけが妙に強かった。
「両親は東条との交際に賛成なんだな」
「少なくとも、反対する理由はないのでしょうね。東条グループとの関係は、家にとっても悪い話ではないもの」
「でも、お前は嫌なんだろ」
「嫌よ」
迷いのない即答だった。
「東条本人がどうという以前に、周囲が勝手に話を進めていることが不愉快なの。本人から気持ちを聞かれる前に、家柄も能力も釣り合っているのだから問題ないと言われる。そこに私の意思が入る余地はないわ」
「東条は、お前の意思を無視するつもりはなさそうだったが」
「だから余計に厄介なのよ。あからさまに嫌な人間なら、拒絶して終わりにできるでしょう」
「確かに、あいつを悪く言うのは難しいな」
「高槻まで彼の味方をするの?」
御影が鋭い視線を向けてくる。
「味方をしたつもりはない。東条がいいやつかどうかと、お前が付き合いたいかどうかは別の話だろ」
「……そう」
「嫌なら嫌でいいんじゃないか。家同士の事情までは分からないが、少なくとも、お前が周囲に合わせて決めることじゃない」
御影は答えず、手にしていた書類へ視線を落とした。
しばらくして、その中から一枚を抜き取る。俺へ何か尋ねようとするように顔を上げたが、途中で口を閉じた。
「どうした?」
「……いいえ。何でもないわ」
「聞きたいことがあるなら言えよ」
「自分で考えてみる」
御影は書類へ目を落とし、そのまま日付と内容を確かめ始めた。
俺もそれ以上は追及せず、別の箱へ手を伸ばす。
会話はそこで終わったが、御影が口を閉じる直前に見せた表情だけが、妙に頭へ残った。




