第六話 予期せぬ何かは暗闇に潜んでいる
突如として大問題が発生したのは、その日の帰りだった。
学校を出て駅へ向かっている途中、ポケットの中でスマートフォンが振動した。画面に表示された名前を見て、足を止める。
父親だった。
通話履歴を遡っても、最後に話したのがいつだったか思い出せない。海外へ赴任してからも月に一度くらいはメッセージが来るが、内容は『元気か』『金は足りているか』の二行で終わることが多かった。
その父親が、平日の夕方に電話をかけてきている。
事故か病気か、あるいは仕事で何か重大な問題でも起きたのかもしれない。
「もしもし」
『春人か。今、話せるか?』
「話せる。何かあったのか」
『実は、頼みたいことがある』
父親の声は普段と変わらなかった。少なくとも、命に関わる話ではなさそうだ。
「内容による」
『しばらく、知り合いの子供を預かってほしい』
電話を切ろうとした。
『待て。まだ何も説明してないだろ』
「説明を聞く必要がない。無理だ」
『そう言うと思った』
「分かっているなら頼むな。俺も高校生だぞ。ましてや見知らぬ他人の子供なんて預かれるわけがない」
『相手のご両親には了承をもらっている』
「こちらの了承を先に取れ」
『お前なら一人分くらい増えても問題ないだろ』
「一人分増えることを問題と言わずしてどうするんだよ」
預けられる子供というと小学生、もしくは中学生くらいなのか。父親の話では、仕事で世話になっている相手が急なトラブルに見舞われたことで、一人暮らししている高校生の息子がいると聞いていた父に、一時的な預け先として頼れないだろうかと相談してきたということらしい。そして勝手に快諾しやがったとのことだった。
朝は起こし、食事を作り、忘れ物を確認して学校へ送り出す。帰宅時刻には自分も家へ戻り、風呂へ入れ、宿題を見て、夜になれば寝かしつける。
想像するだけで疲れたし、流石に無理がある。というか向こうの親もよく了承したな。
「俺はベビーシッターじゃない」
『食事を用意して、困ったことがあれば助けてやるだけでいい』
「それをベビーシッターと言うんだ」
『一人暮らしのお前にとっても、誰かがいた方がいいだろう』
「自分が海外へ行ったあとで父親らしいことを言うな」
電話の向こうで、父親が小さく息を吐いた。
『向こうのお父さんには、仕事で随分世話になっている。断れなかったんだ』
「だからって、息子を差し出すな」
『差し出すわけじゃない。家事ができて絵に描いたようなしっかり者、スーパーを超えたハイパーマンなお前なら安心だと言っておいた』
「勝手な信用を担保に使うな。そもそも、母親はどうした」
『仕事で家を空ける』
「親戚は」
『頼れない事情があるらしい』
「施設でも行政でも、もっと適切な相談先があるだろ」
『大げさに考えなくていい。ほんの少しの間だ』
期間すら明言しないあたりが怪しかった。
「断る。俺は自分の生活で手いっぱいだ。学校もあるし、ちょっとした仕事もある。最近はなぜか同級生(女)に料理まで教えている」
『ほう、それは初耳だな。彼女か?』
「違う」
『なら、その子の分と一緒に作ればいい』
「話を聞け」
『もう手続きは済ませたから、よろしくな』
「何の手続きだ」
『合鍵も渡してある』
「は? ちょっと待て。それはもう相談じゃないだろ!」
『じゃあ、今から会議だから。また連絡する』
「親父!」
通話が切れた。
すぐにかけ直したが、呼び出し音が鳴る前に留守番電話へ転送された。海外にいることを利用した、あまりにも一方的な逃亡だった。
父親との通話履歴を睨んでいると、スマートフォンがもう一度振動する。
『よろしく頼む』
それだけだった。
「何をどうよろしくするんだよ、このクソ親父……」
年齢、名前、滞在期間。必要な情報が何一つ伝えられていない。
ただ、すでに合鍵を渡したということは、俺が帰宅する頃には家に到着している可能性がある。
逃げるわけにもいかなかった。
◇◆◇◆◇
帰宅前にスーパーへ寄った。
普段なら、冷蔵庫の残りを確認してから必要な物だけを買う。しかし今日は、これから預かることになる子供が何を食べられるのか分からない。
辛いものは苦手かもしれない。魚には骨がある。野菜ばかりでは食べない可能性もある。アレルギーについても確認する必要があった。
「大事な情報を一つも聞いてないじゃないか」
文句を言いながら、甘口のカレールーを籠へ入れる。
鶏肉、玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモ。朝食用の食パンと卵、牛乳。念のため子供向けのヨーグルトも追加する。菓子売り場の前では少し迷い、個包装になったチョコレート菓子を選んだ。
ここまで買ってから、乳製品や卵にアレルギーがあれば、ほとんど使えないことに気づく。
父親へ確認のメッセージを送ったが、既読にはならなかった。
「本当に無責任だな、あの人」
腹が立っている。
預かると決めたわけでもない。
それでも、家に来た子供が空腹のまま待っている可能性を考えると、何も買わずには帰れなかった。
レジで会計を済ませ、二つの買い物袋を持って店を出る。片方の袋からは、青々とした長ネギが一本だけ大きくはみ出していた。
◇◆◇◆◇
自宅へ着いたのは、午後七時前だった。
玄関の前に立つ。
子供が待っているなら、室内からテレビの音や足音くらい聞こえてもよさそうだが、扉の向こうは静まり返っていた。
インターホンを押す。
反応はない。
「まだ来てないのか?」
鍵を差し込もうとして、手が止まった。
扉が、わずかに開いている。
鍵が掛かっていないどころか、完全に閉まっていなかった。
背中に冷たいものが走った。
朝、家を出るときには確かに施錠した。玄関の鍵だけでなく、窓とガスの元栓まで確認している。自分の記憶には自信があった。
父親が言っていた子供は、すでに到着しているのかもしれない。
ただ、それならなぜ電気もつけず、インターホンにも応答しないのか。
「おい。誰かいるのか?」
返事はなかった。
室内は暗い。
玄関から見える廊下の先に、リビングへ続く扉がある。磨りガラスの向こう側にも、明かりは見えない。
泥棒の可能性を考えた。
すぐに警察へ連絡すべきかもしれない。しかし、父親から合鍵を渡された子供が中で眠っているだけなら、大ごとにしたくはない。
もう一度声をかける。
「入るぞ」
返事はない。
意を決して扉を開き、買い物袋を玄関へ置いた。
靴はあった。
見覚えのない黒いスニーカーが転がっている。サイズは小さいが、幼児用というほどのサイズではなかった。
スマートフォンのライトをつける。
念のため、買い物袋から長ネギを一本抜いた。
武器としての強度には不安がある。しかし包丁を持ち出すより安全で、何も持たないよりは心強い。
廊下へ上がり、音を立てないように進む。
俺は昔から、幽霊や怪談の類が苦手だった。
人間が相手なら、話を聞くなり逃げるなり、何かしらの対応ができる。幽霊には理屈が通じない。こちらがどれだけ努力しても、壁を通り抜けられた時点で勝ち目がない。
小学生の頃に見たホラー映画のせいで、一週間ほど一人で風呂へ入れなくなったこともある。
身長が百八十七センチになろうが、体を鍛えようが、苦手なものまで小さくなるわけではなかった。
リビングへ近づく。
扉の向こうから、かすかな音が聞こえた。
カタカタカタカタ。
規則的で、妙に速い。
爪で何かを引っかいているようにも聞こえた。
足が止まる。
カタカタカタ。
音は続いている。
家の奥から何かがこちらへ近づいているわけではない。ただ、同じ場所で、途切れることなく鳴り続けている。
「幽霊がパソコンを使うわけないだろ……」
自分へ言い聞かせる。
それでも声が震えた。
左手にスマートフォン、右手に長ネギを構え、リビングの扉へ手を掛ける。
ゆっくりと開いた。
暗い室内の奥で、青白い光が灯っていた。
ローテーブルの前に、小柄な人影が座っている。
頭から黒いフードを被り、こちらへ背を向けたまま、ノートパソコンのキーボードを叩いていた。
画面の光が、細い指と頬の一部だけを照らしている。
俺が扉を開けても、人影は振り返らなかった。
「誰だ」
カタカタという音が止まる。
人影の首が、ゆっくりとこちらへ向いた。
スマートフォンの光を当てる。
フードの奥で、丸い眼鏡が白く反射した。
「うわっ!」
思わず後ろへ下がり、長ネギを構える。
少女の肩が跳ねた。
眼鏡の奥にある目を見て、ようやく気づく。
情報処理準備室で、目の前にいる俺たちとチャットを使って会話していた女子生徒。
「……小鳥遊?」
少女は小さく頷いた。
俺はスマートフォンの光を下ろした。
「なぜ小鳥遊が俺の家にいる」
彼女は答えない。
代わりにノートパソコンへ向き直り、キーボードを操作した。打ち終えると、画面をこちらへ向ける。
『電気の場所が分かりませんでした』
「聞いているのはそこじゃない」
『玄関は自動で施錠されると思っていました』
「この家にそんな機能はない。というか、そうでもなくて」
小鳥遊はまたキーボードを叩いた。
『長ネギを下ろしてください』
「これは万が一のためだ」
『私を長ネギで殴る予定だったんですか』
「相手がお前だと分かっていたら持ってこない」
『何だと思ったんですか』
「……泥棒だ」
幽霊だと思ったとは言えなかった。
小鳥遊は俺の顔を見たあと、震えている長ネギの先へ視線を移した。
『怖かったんですか』
「怒っているだけだ」
『長ネギが震えています』
「俺が震えているとは限らないだろ。鮮度がいいんだ」
自分でも意味の分からない言い訳だった。
小鳥遊は少しだけ目を細めた。笑ったようにも見えたが、すぐ画面へ視線を戻す。
「小鳥遊。父親から、知り合いの子供を預かってほしいという連絡があった」
彼女が頷く。
「まさか、その子供というのは」
小鳥遊はキーボードを叩き、画面を向けた。
『小鳥遊琴葉です』
「それは知っている」
文章が追加される。
『今日からしばらく、高槻さんの家でお世話になります』
理解するまでに、数秒かかった。
「聞いてない」
『私も、今日のお昼に聞きました』
「同じ学校の同級生だという情報を、なぜ親父は黙っていたんだ」
『年齢を聞かれなかったので、伝えなかったそうです』
「普通は最初に伝えるだろ!」
思わず声を荒らげると、小鳥遊の肩が強く跳ねた。
フードの奥で顔が伏せられる。
俺はすぐに長ネギを下ろした。
「悪い。小鳥遊に怒ったわけじゃない」
返事はない。
「急な話で驚いただけだ。大声を出して悪かった」
しばらくして、画面に新しい文章が表示された。
『怒鳴る人は苦手です』
「本当に悪かった。もうしない」
『長ネギも苦手になりそうです』
「これは関係ないだろ」
『先ほど、向けられました』
「謝る。長ネギにも謝らせる」
右手に持っていた長ネギを、小鳥遊へ向かって軽く曲げた。
「申し訳ありませんでした」
小鳥遊の口元が、今度こそ少しだけ緩んだ。
そのとき、スマートフォンが振動した。
父親からのメッセージだった。
『言い忘れていたが、その子供は娘で、琴葉ちゃんというんだが、お前と同い年でしかも同じ学校らしい。話も合うだろ。仲良くしてやってくれ』
最も重要な情報が、すべてが終わったあとで届いた。
さらに続けて、もう一通。
『人と話すのが苦手らしいから、うまく面倒を見てやってくれ』
「面倒を見てもらうべき人間が、一人増えた……」
御影玲奈に続いて、小鳥遊琴葉。
どうして俺の周りには、一人で生活することや、人と話すことに問題を抱えた人間ばかり集まってくるのだろう。
小鳥遊が画面へ文字を打ち込む。
『迷惑ですか』
その一文を見て、すぐには答えられなかった。
迷惑かどうかで言えば、間違いなく迷惑だった。父親から何の相談もなく、同い年の女子生徒と突然暮らすことになったのだから、歓迎できる方がおかしい。
しかし改めて確認すると廊下に置かれた荷物は、キャリーケースとリュック一つずつしかない。小鳥遊は電気の場所すら聞けず、暗い部屋で一人、俺が帰るのを待っていた。
「迷惑なのは、勝手に決めた親父だ」
俺は答えた。
「小鳥遊に怒っているわけじゃない。事情を聞いてから、これからのことを考える」
『追い出しませんか』
「今からどこへ行かせるんだ」
小鳥遊は画面へ視線を落とした。
『ありがとうございます』
「礼はまだ早い。まず確認することがある」
『何ですか』
「食べられないものと、アレルギー。それから、辛いものは大丈夫か?」
小鳥遊が顔を上げた。
「夕食はカレーにする。甘口だけどな」
玄関に置いた買い物袋を取りに戻ろうとすると、背後からキーボードの音が聞こえた。
『手伝います』
「料理はできるのか」
返事が表示されるまで、少し間があった。
『インターネットで調べられます』
「できない人間の答えだな」
小鳥遊はノートパソコンを抱えて立ち上がった。フードを深く被ったまま、俺の後ろをついてくる。
社会適応研究会は、まだ正式に活動を始めてすらいない。
それなのに俺の家は、その日のうちに、二人目の社会不適合者を受け入れることになった。




