第五話 令嬢は味噌汁が作れない
人に何かを教えるという行為は、自分でやるより難しい。
米を炊く。野菜を切る。洗濯物を干す。普段は意識せずに済ませている動作でも、初めて経験する人間へ説明するとなれば、一つひとつを言葉にしなければならない。
しかも、相手が御影玲奈の場合、その一つひとつに理由まで求められる。
「高槻。味噌汁に玉ねぎを入れる必要はあるの?」
「今日は玉ねぎの味噌汁を作るからだ」
「そうではなくて、なぜ数ある具材の中から玉ねぎを選んだのか聞いているの」
「安くて、切りやすくて、火を通せば甘みが出る。それから常温でも比較的長く保存できる」
「最初からそう説明して」
「料理を始めてから三分で、そこまで詳細な説明を求められるとは思わなかった」
土曜日の午前十時。
契約を結んでから最初の生活指導は、御影のマンション近くにあるスーパーから始まった。
俺たちが作るのは、米と玉ねぎの味噌汁、それに鮭の塩焼きである。調理工程がそこまで多くない。余った材料をきちんと保存すれば、翌日以降にも回せる。
初心者向けとしては、悪くない献立のはずだった。
ただし、御影をスーパーへ連れてくるまでに、すでに二十分を使っている。
出発前、御影は黒いワンピースに薄手のカーディガンという格好で現れた。肩まで伸びたアッシュグレーの髪は、室内で見れば落ち着いた色なのに、陽の光を受けると銀色に近い光沢を帯びる。
近所へ買い物に行くだけにしてはよく分からん謎のオーラが出過ぎており、待ち合わせた俺の隣を通り過ぎた住人が、エレベーターへ乗ってからもこちらを見ていた。
しかもそれに本人は全く気づいていない。
あるいは、気づいていても気にしていない。
「買い物へ行くときは、財布、スマートフォン、買い物袋を確認する。今日は全部持ったか?」
「ええ」
「本当に?」
「信用していないの?」
「前に財布を忘れた実績がある」
御影はカーディガンのポケットから財布を出し、反対側からスマートフォンを出した。最後に、肩へ掛けた小さな革製の鞄を開く。
中から出てきたのは、丁寧に折り畳まれた紙袋だった。
「それは?」
「買い物袋よ」
「ブランド店の紙袋をスーパーへ持っていくな」
「袋には違いないでしょう」
「鮭の切り身から水分が出たら、数万円の袋が生臭くなるぞ」
「袋が数万円するの?」
「俺に聞くな。お前の家のものだろ」
結局、俺が予備で持ってきたエコバッグを渡した。
御影は使い方を確認したあと、スマートフォンのメモへ『買い物袋は水分に耐えられるもの』と記録した。
一つ教えるたびに、俺にとっての常識が、御影にとっては新しい知識として保存されていく。
それは思っていたより面倒で、同時に少しだけ新鮮だった。
◇◆◇◆◇
スーパーへ入ると、御影は入口で立ち止まった。
「広いわね」
「一般的な大きさだ」
「どこから見ればいいの?」
「今日は必要なものが決まっている。野菜、魚、調味料の順だ」
「入口から近い順ではないの?」
「鮭を長時間持ち歩きたくない。それに店内は、だいたい野菜から回るように作られている」
「なぜ?」
「鮮やかな野菜を最初に見せた方が購買意欲が上がるとか、先に野菜を買うと、そのあとで肉や魚を買う罪悪感が減るとか聞いたことはある」
「スーパーにも戦略があるのね」
「慈善事業ではないからな」
御影は売り場を見回した。
棚に積まれた野菜より、その前に立つ彼女の方が目立っている。近くにいた大学生らしき男性が二度見し、連れの女性から腕を引かれていた。
「玉ねぎは、どれを買えばいいの?」
「触って硬いもの。皮が乾いていて、傷が少ないものを選ぶ」
御影は売り場にある玉ねぎを一つずつ持ち上げ始めた。
「全部確認する必要はない」
「比較しなければ、最適なものを選べないでしょう」
「食材は工業製品じゃない。多少の違いはある」
「その妥協が品質の低下につながるのでは?」
「玉ねぎ一個に品質管理部門を設置するな」
五分ほどかけて選ばれた玉ねぎは、見た目も重さもごく普通だったが、御影はとても満足そうに見えた。
鮭の売り場では、今度は値札の前で足を止めた。
「百九十八円」
「一切れの値段だ」
「安いの?」
「普通だな。特売ならもう少し安い」
「では、こちらの二千四百円は?」
御影が指したのは、贈答用の箱に入った高級な鮭だった。
「今日は買わない」
「高い方がおいしいのでしょう?」
「初心者が焼いて炭にする可能性を考えろ」
「目玉焼きの失敗をいつまで引きずるの?」
「火災報知器を鳴らした実績は重い」
御影は二千四百円の鮭を棚へ戻し、一切れ百九十八円のパックを籠へ入れた。
その動きは慎重だった。
口ぶりからして、おそらく御影は高校生が使い切れるはずもない金額を持っているのだろう。百九十八円と二千四百円のどちらを選んでも、正直彼女の生活には何の影響もないのかもしれない。
それでも今は、値段を見て、自分が必要とするものを選ぼうとしている。
生活を教えるというのは、料理の手順を伝えることだけではないのかもしれない。
何を買い、何を買わないのか。どこに金を使い、どこでは使わないのか。誰かに決められていたことを、自分で一つずつ選べるようにする。
俺が普段何も考えずに繰り返してきた行動を、御影は今から覚えようとしている。
「高槻」
「何だ」
「味噌が多すぎるわ」
振り返ると、御影は業務用の大きな味噌を抱えていた。
「なぜそれを選んだ」
「一グラム当たりの価格が最も安い」
「初心者が五キロも使い切れるか。戻してこい」
「長期的に見れば、こちらの方が得よ」
「長期的に味噌汁を作り続けられるようになってから言え」
生活を選ぶ以前に、適量という概念から教える必要がありそうだった。
◇◆◇◆◇
御影の部屋へ戻り、買ってきた食材をキッチンへ並べた。
最初に米を研がせる。前回のように握り潰すことはなく、水の量も正しく合わせられた。
「進歩したな」
「一度教われば覚えるわ」
「では保温機能について説明してみろ」
「炊飯後のお米を、一週間程度保存する機能」
「一日以内に食べきれ。残りは冷凍だ」
訂正すると、御影は不満そうにスマートフォンのメモを書き直した。
次は味噌汁である。
玉ねぎの皮を剥き、半分に切る。包丁の持ち方と、反対の手を丸めることを教えると、御影は手元を見つめたまま動かなくなった。
「どうした?」
「力加減が分からないわ」
「押し切ろうとするな。包丁を前後へ動かす」
「数値では?」
「料理中に包丁の速度を測る人間はいない」
「再現性が低いのね」
「家庭料理に研究論文の精度を求めるな」
御影の最初の一切れは、一センチを少し超えていた。次は三ミリほどになり、その次は斜めに傾いた。本人は納得していないようだったが、火を通せばどれも玉ねぎである。
「厚さが揃っていないわ」
「最初はそれでいい」
「完成時間に差が出るでしょう」
「少しくらい食感が違っても死なない」
「高槻はすぐ、人生や生命を判断基準にするのね」
「お前が細かすぎるんだよ」
鍋へ水と玉ねぎを入れ、火にかける。
沸騰を待つ間に鮭をグリルへ入れた。御影はタイマーを一秒単位で設定しようとしたが、焼き加減は切り身の厚さによって変わると説明すると、ひどく不満そうな顔をした。
「料理は曖昧すぎるわ」
「だから最後は自分で見るんだ。匂い、色、感覚で判断する」
「それでは、あなたがいないと同じ結果にならない」
「同じ結果にする必要はない」
御影が俺を見る。
「食べられるものができれば、今日は成功だ。次に少しうまく作れればいい」
「失敗しても?」
「食べられるなら、失敗じゃない」
御影は何も答えず、鍋の中を見た。
湯の中で、厚さの違う玉ねぎがゆっくり透き通っていく。その様子を確認してから、火を弱めて味噌を溶かすよう教えた。
「沸騰させないの?」
「味噌を入れてから沸騰させると、香りが飛ぶし風味も損なわれやすい」
「科学的な根拠があるのね」
「理由があると急に素直になるな」
完成した味噌汁は、少し薄かった。
鮭には焼き色がつきすぎていたが、焦げてはいない。米も問題なく炊けている。
ローテーブルへ料理を並べると、御影はしばらく全体を見ていた。
「これを、私が作ったの?」
「八割くらいはな」
「残りの二割は?」
「俺が鮭を救出した」
「あれは、もう少し焼く予定だったの」
「救出して正解だった」
御影は味噌汁を一口飲んだ。
味が薄いと言うかと思ったが、何も言わずにもう一口飲む。
「どうだ」
「玉ねぎの厚さによって、食感が違うわ」
「死ななかっただろ」
「ええ」
御影の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「でも、おいしい」
その一言だけは、誰かに用意された答えではなかった。
◇◆◇◆◇
週が明けた月曜日、俺の学校生活には新しい問題が発生していた。
「高槻君、週末に御影さんと買い物してたって本当?」
登校して席に着くなり、普段ほとんど話したことのない女子生徒から尋ねられた。
「本当だ」
「二人で?」
「ああ」
「何を買ったの?」
「玉ねぎと味噌と鮭」
女子生徒は一瞬黙り、近くにいた友人と顔を見合わせた。
「それって、一緒にご飯を作ったってこと?」
「正確には、御影に作らせた」
「作らせたんだ……」
「本人が覚えたいと言ったからな」
「御影さんの家で?」
「ああ」
女子生徒たちは何も言わず、自分たちの席へ戻っていった。
説明しただけなのに、なぜか誤解が深まった気がする。
「お前、わざとやってる?」
前の席から三浦が振り返った。
「何を」
「今の受け答えだよ。もうちょっと言い方あっただろ」
「事実しか話していない」
「御影みたいなこと言い始めたな」
三浦はスマートフォンを操作し、画面をこちらへ向けた。
校内の匿名掲示板には、週末に撮影されたらしい一枚の写真が掲載されていた。
スーパーの前を歩く俺と御影。
俺は買い物袋を持ち、御影は隣でスマートフォンのメモを確認している。撮影された角度のせいか、休日に一緒に買い出しへ来た男女にしか見えない。
投稿には短い文章が添えられていた。
『二年三組の高槻と御影、週末に新婚生活の準備か』
「誰が新婚だ」
「今、学校中で話題になってる」
「暇な学校だな」
「御影だぞ。入学したときから有名だったし、今まで誰が誘っても相手にしなかった。その御影が、休みの日に男とスーパーで買い物してたんだから、そりゃ話題になるって」
「生活指導だ」
「週末に女子の部屋で料理を教える関係を、世間では何て呼ぶか知ってる?」
「業務委託」
「たぶん正解から一番遠い」
教室へ入ってきた御影が、俺たちの会話に気づいて近づいてきた。
「何を見ているの?」
三浦が画面を見せる。
御影は写真と文章を確認したが、特に表情を変えなかった。
「新婚ではないわ」
「俺もそう言っている」
「まだ料理を一人で作れないもの」
「否定する理由がおかしい」
「一人で作れるようになれば、新婚でいいの?」
三浦が笑いながら尋ねる。
「それとこれは別の問題よ」
「真面目に答えなくていい」
御影は俺の隣の席へ座ると、鞄から小さな保存容器を取り出した。
「高槻。これを見て」
「何だ」
「昨日の味噌汁よ」
「学校まで持ってきたのか」
「冷蔵庫で保存すれば、翌日まで食べられると言ったでしょう。状態を確認して」
「昼まで冷蔵庫へ入れておけ。匂いと味に問題がなければ大丈夫だ」
「昼に一緒に確認して」
教室の何人かが、こちらを見た。
「自分で確認しろ」
「比較対象がないから、正しい状態か分からないわ」
「分かった。昼に見る」
「お願い」
御影は保存容器を持って教室を出た。食堂の共用冷蔵庫へ入れに行ったらしい。
三浦が机へ突っ伏し、肩を震わせている。
「何がおかしい」
「もう駄目だ。お前ら、本人たちだけ分かってない」
「何が」
「何でもない」
三浦の背後では、先ほどの女子生徒たちが小声で話していた。
視線が合うと、慌てて逸らされる。
俺の外見が怖いのだろう。身長は百八十七センチあり、目つきも決して柔らかくない。中学時代には、初対面の後輩から運動部の主将と間違えられたこともある。
御影との噂について聞きたくても、声をかけづらいらしい。
「高槻」
三浦が顔を上げた。
「お前、本当に気づいてないの?」
「だから、何に」
「いや。気づかない方が面白いからいいわ」
「朝から妙なことばかり言うな」
俺が教科書を取り出すと、三浦はまた笑った。
その日の昼休み、廊下ですれ違った一年生の女子生徒から、小さな声で「お疲れさまです」と言われた。知らない相手だったので、会釈だけ返した。
背後から、何人かの女子が騒ぐ声が聞こえた。
やはり怖がらせてしまったらしい。




