第四話 会話ができない少女は、チャットだとよく喋る
御影玲奈が『社会適応研究会』の申請書を提出した翌日、俺たちは放課後の職員室へ呼び出された。
創部を認めるための面談だと御影は考えていたらしく、梶先生の机の前へ迷いなく進んでいく。一方、代表者欄へ勝手に名前を書かれた俺にとっては、事情聴取か被害申告に近かった。
「それで、御影」
梶先生は申請書を机へ置き、椅子へ座ったまま彼女を見上げた。
「一つ確認したいんだが、どうして急に同好会を作ろうと思ったんだ?」
「必要だと判断したからです」
「その必要性が分からないから聞いているんだが。お前はこの間まで、学校へ来る理由がないと言っていたんだろう。それが登校を始めた途端、新しい同好会を作りたいと言い出した。教師としては何を考えているのか確認しておきたい」
もっともな質問だった。
申請書に記載された活動目的だけを読めば、『社会生活に必要な能力を実践的に研究し、各自の社会適応を目指す』という立派な団体に見える。しかし、発起人は米の炊き方を覚えたばかりの御影であり、代表者は本人の知らないところで俺に決まっている。
面倒な活動になる予感しかしない。
御影は質問の意図が分からないように、わずかに首を傾けた。
「同好会にしてしまえば、高槻から教えてもらえる機会が単純に増えると思ったからです」
あまりにも率直な答えだった。
「おい」
「個人契約では週に一時間しか指導を受けられません。でも、同好会の活動なら放課後にも高槻から生活について教えてもらえます」
「契約時間外の労働を、部活動という名前で合法化するな」
「労働ではないわ。自主的な活動よ」
「俺が自主的に参加すると決めた記憶がない」
梶先生が片手で額を押さえた。
「御影。一応聞くが、高槻から家事を教わるためだけに同好会を作ろうとしているのか?」
「それだけではありません」
御影は申請書の活動目的欄を指した。
「高槻は、私のように生活上の問題を抱えている人間を助ける能力があります。せっかくなので、彼のこの力を、ほかに困っている同志にも分け与えられればと思いました」
「俺を公共サービスみたいに配布するな」
「独占するより有益でしょう」
「まず所有している前提をやめろ」
「高槻の能力は高槻のものよ」
「分かっているなら、本人に使い道を決めさせてくれ」
梶先生は口元を押さえ、咳払いをした。笑ったことをごまかしたらしい。
「高槻は不満そうだが、考え方自体は分かった。御影一人のためではなく、学校生活に馴染めないほかの生徒にも参加できる場所を作りたいんだな」
「結果的には、そうなります」
「そこは『はい』と言っておけ」
俺が横から口を挟むと、御影は不思議そうにこちらを見た。
「結果が同じなら問題ないでしょう」
「動機が違いすぎる。先生は今、教育的な感動へ着地させようとしていたんだ」
「事実を曲げる必要はないわ」
「お前が事実を正確に話すと、全員が困ることがあるんだよ」
梶先生は再び申請書へ視線を落とした。
「活動の趣旨は認めてもいい。ただし、いきなり正式な同好会にはできない。まずは一か月の準備団体として活動し、五人の参加者を集めること。活動は週二回までで、使用した教室は必ず片づける。これが条件だ」
「分かりました」
「それと、参加を無理強いするな。欠席が多い生徒や、人付き合いが苦手な生徒を勝手に社会不適合者扱いするのも禁止だ」
御影の動きが止まった。
「まだ何も言っていません」
「言いそうだから先に止めている」
梶先生も、この数日で御影の扱いを覚え始めたらしい。
「現在の参加者は二人か?」
「俺はまだ参加すると言っていません」
「代表者でしょう」
「申請書に勝手に書かれただけだ」
「では、参加者は私一人になります」
御影は少し考えたあと、俺を見た。
「あと四人ね」
「そのうちの一人として俺を見るな」
「高槻以外に代表を任せられる人がいないわ」
「まだ一人も勧誘していないのだから当然だろ」
「候補者なら見つけてある」
御影は鞄から、小さなメモ帳を取り出した。
そこには一人の名前とクラスだけが、整った文字で記されている。
二年五組、小鳥遊琴葉。
「誰だ?」
「プログラミングが得意で、ほとんど人と話さず、昼休みや放課後は情報処理準備室にいることが多いそうよ。部活動にも入っていないらしいわ」
「よくそこまで調べたな」
御影には、学校内で親しい友人がほとんどいない。登校を再開して数日しか経っておらず、他クラスの生徒について知る機会もなかったはずだ。
「三浦に聞いたの」
「なるほど」
それなら納得できた。
「三浦君へ、部活動に入っておらず、学校内で一人で過ごしていることが多い生徒はいないか尋ねたわ。すぐに何人か教えてくれた」
「あいつ、そういうことだけは人一倍詳しいからな」
「褒めているの?」
「最大限に皮肉を込めたつもりだ」
本人のいない場所で他人の交友関係や行動範囲をすぐ答えられるのは、情報収集能力が高いと評価すべきなのか、単に噂話が好きなだけなのか判断が難しい。
「三浦君は、小鳥遊さんなら誘っても断る声すら出せないかもしれないと言っていたわ」
「勧誘相手の選び方として最悪だな」
「でも、入ってくれる可能性はあるでしょう?」
「断れない人間を狙うな。梶先生が今、無理強いは禁止だと言ったばかりだろ」
御影はメモ帳へ何かを書き加えた。
「『沈黙を承諾と解釈しない』」
「人間関係の基礎から研究する必要がありそうだな」
梶先生は小鳥遊の名前を見て、少しだけ表情を曇らせた。
「小鳥遊か。去年、情報の授業を担当した」
「どんな生徒なんですか」
「プログラミングに関しては、正直明らかに高校生の域を超えている。学校の端末で不具合が出たときに、何度か直してもらったこともある。ただ、人前で話すのが極端に苦手でな。授業中に当てられると、体調を崩して保健室へ行くこともある」
「社会適応研究会にぴったりね」
「御影」
「まだ本人には言っていないわ」
「俺たちの前でも言わない方がいい」
「客観的な事実でしょう」
「事実は並べ方によって凶器になると、昨日教えただろ」
御影はまたメモ帳へ書き込んだ。
「とにかく、話を聞いてみましょう」
「俺は行かない」
「代表者が不在では、勧誘にならないわ」
「まだ代表者ではない」
「仮代表として」
「肩書を勝手に増やすな」
俺が断り続けていると、梶先生が机の引き出しから一本の鍵を取り出した。
「情報処理準備室なら、今日もいるかもしれない。ただし、話を聞くだけだ。小鳥遊が嫌がったら、その場で引き下がれ」
「先生まで俺が行く前提なんですね」
「御影一人で行かせるより安心だ」
「その点については否定できないのが困ります」
結局、鍵を受け取ったのは俺だった。
◇◆◇◆◇
情報処理準備室は、特別教室棟の四階にあった。
昨年度まで使われていた古いパソコンや、交換用のケーブル、授業用のタブレット端末などを保管している部屋らしい。廊下の突き当たりにあり、隣の情報処理室で授業がなければ、人が近づくこともほとんどない。
扉の前に立ち、二度ノックする。
反応はなかった。
「留守じゃないか」
「鍵は掛かっているわ」
「準備室だからな」
「中からキーボードの音がする」
耳を澄ませる。
確かに、扉の向こうから細かな打鍵音が聞こえていた。途切れることなく続く音はかなり速く、文章を書いているというより、鍵盤楽器を演奏しているようだった。
「小鳥遊。いるか?」
呼びかけた瞬間、音が止まった。
返事はない。
「梶先生から鍵を借りている。少し話をしたいんだが、入ってもいいか?」
沈黙が続く。
「返事がないなら、今日は帰る」
無理に扉を開けるつもりはなかった。鍵を返そうと振り返ると、ポケットの中でスマートフォンが振動した。
画面には、校内連絡システムからの通知が表示されている。
『入って大丈夫です』
差出人は空欄だった。
「何だ、これ」
御影も自分の端末を確認している。彼女の画面にも、同じ文章が届いていた。
「校内システムの一斉通知機能ね」
「個人の返事に使うものじゃない」
『声を出すのは無理なので、チャットでもいいですか』
二通目が届く。
「小鳥遊か?」
『はい』
「先生に借りた鍵で入るぞ」
『どうぞ』
扉を開けると、窓を閉め切った薄暗い部屋に、何台ものパソコンが並んでいた。棚には古い機器が積み上げられ、床にはケーブルの入った段ボールが置かれている。
一番奥の机だけ、三台のモニターが点灯していた。
しかし、人の姿はない。
「どこにいるんだ」
正面のモニターへ、新しい文字が表示された。
『右』
右を見る。
『もう少し下』
視線を下げると、机と棚の間にできた狭い隙間に、一人の女子生徒が座っていた。
膝を抱え、顔の下半分をパーカーの襟へ埋めている。学校指定の制服は着ているものの、その上から大きな黒いパーカーを羽織っていた。長い前髪の間から、警戒するような目だけがこちらを見ている。
「小鳥遊琴葉?」
少女は小さく頷いた。
右手には、無線式のキーボードを抱えている。
正面のモニターへ文字が浮かんだ。
『できれば、見ないでください』
「どこを見ればいい」
『モニター』
本人から二メートルも離れていないのに、画面越しに会話をするらしい。
俺は指示どおり、少女ではなくモニターへ向いた。隣では御影が遠慮なく本人を観察している。
『そちらの灰色の人も』
「私?」
『髪が灰色なので』
「アッシュグレーよ」
『すみません』
「謝る必要はないわ。ただ、正確ではないから訂正しただけ」
モニターの文字がしばらく止まった。
『帰ってもらっていいですか』
「御影。最初の一分で嫌われるな」
「髪の色を説明しただけよ」
「この人はこういう話し方なんだ。悪気はない」
再び文字が止まる。
『高槻春人さんと御影玲奈さんですよね』
「俺たちを知っているのか」
『先日から校内のチャットで話題になっています。トップニュースです』
嫌な情報だった。
『御影さんの部屋で、高槻さんが初めてのことを教えたと』
「米の炊き方だ」
『その訂正も含めて流れています』
「誰が広めたんだ」
『二年三組の三浦さんです』
小鳥遊の情報を教えた代償として、こちらの情報も学校中へ配ったらしい。戻ったら友人関係について一度話し合う必要がある。
「その話は忘れてくれ。今日は別の用件で来た」
『パソコンの修理ですか』
「違う」
「社会適応研究会への勧誘よ」
御影が一切の前置きを捨てた。
小鳥遊の指が止まる。
モニターから文字が消えた。
しばらく待っても、新しい文章は表示されない。
「御影。もう少し段階を踏め」
「何のために来たのか、最初に説明した方が効率的でしょう」
「名前だけ聞けば、自分を社会不適合者だと認めろと言われているように聞こえる」
「実際、適合できていないのでは?」
小鳥遊が抱えていたキーボードを打ち始めた。
『帰ってください』
「当然の反応だな」
「まだ活動内容を説明していないわ」
『聞いても入りません』
「そう言っている。今日は帰るぞ」
俺が扉へ向かうと、御影は不満そうに立ち尽くした。
「参加者が足りないわ」
「だからといって、嫌がる人間を数に入れるな」
「彼女にも利点はあると思うの」
「利点を説明する前に欠点を指摘しただろ」
「欠点ではなく、現状の分析よ」
背後から、激しい打鍵音が聞こえた。
『御影さん』
モニターへ大きな文字が表示されている。
御影が振り返った。
『あなたも社会不適合者なんですか』
「候補者の中では、私が最も適性が高いと思うわ」
「社会不適合への適性という、矛盾した能力を作るな」
『どんなところが?』
「学校へ来る理由が分からなかった。料理ができない。洗濯機の使い方も知らない。他人と話すと、高槻から止められることが多いわ」
小鳥遊が初めて、画面ではなく御影を見た。
御影は表情を変えず、その視線を受け止めている。自分の欠点を恥じている様子も、隠そうとする様子もなかった。
『それを研究して、どうするんですか』
「改善するわ」
『できなかったら?』
「別の方法を試す」
『それでも無理だったら?』
御影は少し考えた。
「無理なものは、無理なままで生きる方法を考える」
打鍵音が止まった。
小鳥遊はキーボードの上へ指を置いたまま、動かなくなった。
「御影」
「何?」
「今のは悪くないと思う」
「何が?」
「分かっていないならいい」
俺は小鳥遊へ向き直った。正確には、彼女が見ろと指定したモニターへ向き直った。
「無理に入る必要はない。正式な団体でもなく、五人集まるまで活動も始まらないらしい。今日の話は忘れてくれて構わない」
『活動するとしたら、何をするんですか』
「俺も知らない」
「料理や洗濯など、社会生活に必要な能力を研究するわ。学校生活に関する問題も扱う予定よ」
『会話の練習も?』
「必要なら」
『人前で話すんですか』
「そこまでは決めていない」
『無理です』
「なら、話さなくても参加できる方法を考える」
御影はそう答えると、小鳥遊が抱えているキーボードを見た。
「会議をチャットで行えばいいでしょう」
『同じ部屋にいるのに?』
「今もそうしているわ」
モニターへ、一行分の空白ができた。
『変だと思いませんか』
「効率は悪いと思う。でも、あなたがそれでしか話せないのなら仕方がないわ」
『仕方がない』
「ええ。高槻も、私が炊飯器を使えないから仕方なく教えてくれた」
「俺の善意を諦めみたいに言うな」
小鳥遊の肩が小さく揺れた。
咳をしたようにも見えたが、モニターには短い文章が表示された。
『少し面白いです』
それが研究会についてなのか、俺たちの会話についてなのかは分からなかった。
「では、入会する?」
御影が尋ねる。
『入りません』
「そう」
御影は思ったより素直に引き下がった。
『でも』
画面に続きが表示される。
『見学なら、一度だけ』
御影が俺を見た。
「あと二人ね」
「見学者を勝手に部員として数えるな」
『もう一つ条件があります』
「何?」
『私がいることを、ほかの人に言わないでください』
「分かったわ」
「今度こそ守れるのか?」
「失礼ね。私は秘密を話していないわ」
「昨日の出来事をもう忘れたのか」
「米を炊けないことを話したのは高槻でしょう」
原因を作った人間に言われると、反論したくても適切な言葉が見つからなかった。
モニターに新しい文章が表示される。
『お二人は、付き合っているんですか』
「違う」
「違うわ」
この日初めて、俺と御影の返事が完全に重なった。
机と棚の隙間で、小鳥遊琴葉が小さく笑った。
声は聞こえなかった。
ただ、モニターの片隅に表示されたチャット欄へ、笑っている顔の記号が一つだけ追加された。




