幕間 御影玲奈は、必要とされる場所へ行かない
御影玲奈が高校一年生だった頃、学校へ来る日は決して多くなかった。
一週間続けて登校したかと思えば、翌週は一度も姿を見せない。午前中だけ授業を受けて帰る日もあれば、昼休みが終わった頃に現れ、六時間目まで何事もなかったように座っている日もあった。
それでも、完全に来なかったわけではない。
登校した日の玲奈は、誰よりも目立った。
肩に触れる程度で切り揃えられた髪は、光の加減によって銀にも薄墨にも見える、アッシュグレーに近い色をしていた。染めているのではないかと疑われたこともあったが、学校へ提出された証明書には、生来の色であることが記されている。細く滑らかな髪は、本人が手入れへ関心を持たなくても乱れることがなく、歩くたびに毛先だけが静かに揺れた。
色の薄い髪に対して、瞳は夜の水面のように黒い。白い肌には目立つ傷もほくろもなく、鼻筋から唇へ続く線も、誰かが慎重に整えたように均整が取れていた。
美人という言葉では、少し足りなかった。
教室へ入れば、続いていた会話が一瞬だけ途切れる。廊下を歩けば、すれ違った生徒が数歩進んでから振り返る。男子生徒は声をかける理由を探し、女子生徒は髪や睫毛が本物なのか、本人に聞こえない距離で確かめ合った。
玲奈自身は、その視線をほとんど意識していなかった。
正確には、意識することをやめていた。
誰かに見られることは、幼い頃から日常の一部だった。父親に連れられて出席したパーティーでは、まだ名前も知らない相手から成長を褒められ、母親と並んで歩けば、雑誌の記者から写真を求められた。
十五歳を過ぎた頃から、届く招待の内容も変わった。
有名ホテルのレストランで開催される少人数の夕食会。海外から来日する実業家を囲む晩餐。資産家一族の子息が同席する、家族間の親睦を名目にしたディナー。
招待状には必ず丁寧な言葉が並び、玲奈の都合を最優先すると書かれていた。
しかし、玲奈の都合が確認されたことは一度もなかった。
「今週の金曜日、久世様との夕食会がございます」
一年生最後の終業式を数日後に控えた朝、使用人から予定を伝えられた玲奈は、タブレットから目を上げなかった。
「行かないわ」
「先方は、玲奈様にぜひお会いしたいと」
「私は会いたくない」
「お父様がお約束されています」
「約束したのはお父様でしょう。なら、お父様が行けばいいわ」
その夕食会は、国内に複数のホテルを所有する一族との会食だった。先方の息子は大学を卒業したばかりで、父親の会社へ入ったと聞いている。玲奈が同席する理由について、誰も説明しようとはしなかった。
説明されなくても分かっていた。
玲奈が求められているのではない。
御影という名字と、写真にしたとき見栄えのする容姿、そして将来利用できるかもしれない関係性。それらをまとめたものが、御影玲奈と呼ばれているだけだった。
その週に届いていた三件の招待を、玲奈はすべて断った。
翌週の二件も、その次の週の一件も断った。相手の肩書が資産家でも、創業家の後継者でも、若手実業家として雑誌に載る人物でも、返事は変わらなかった。
会ったこともない相手と高価な料理を食べるために、何時間も前から髪を整え、用意された服を着せられる。それを有意義な時間だとは思えなかった。
学校も、よく似ていた。
教室へ行けば、多くの生徒が玲奈を知っていた。しかし玲奈は、彼らのことを知らない。話しかけてくる者の大半は、御影グループの令嬢か、学校で最も目立つ女子生徒か、そのどちらかと会話をしに来ていた。
それでも一年生の頃は、週に何日か学校へ通っていた。
朝になれば制服が用意され、車が玄関で待っていた。運転手に送られ、校門の前で降りれば、あとは自分の教室へ向かうだけだった。登校するかどうかを深く考える必要はない。決められた予定の中に学校があり、それに従っていた。
時折休んだのは、学校が嫌いだったからではない。
その日は行く必要がないと判断しただけだった。
授業内容は自分で学べる。定期試験では首位を取った。部活動には所属しておらず、待っている友人もいない。玲奈が休めば教師から連絡は来たが、困ったという連絡は誰からも来なかった。
自分がいなくても成立する場所へ、毎日同じ時刻に通う理由を、玲奈は見つけられずにいた。
◇◆◇◆◇
春休みに入って間もなく、父親から新たな予定を告げられた。
「四月の第二土曜日は空けておきなさい」
長い食卓の向かい側で、父親は玲奈を見ることなく言った。
「どうして?」
「会食がある」
「誰と?」
「東条ホールディングスの会長と、ご家族だ」
「行かないわ」
父親の手が止まった。
「先方は、お前に会うことを楽しみにしている」
「私は楽しみにしていない」
「子どもの我がままで断れる相手ではない」
「では、子どもを出席させなければ成立しない会食なの?」
食卓が静かになった。
母親は何も言わず、使用人たちは聞こえないふりをしている。父親はナイフを置くと、ようやく玲奈を見た。
「御影家の人間としての立場を考えなさい」
「考えたわ」
玲奈は膝の上に置いていた鍵を、テーブルへ出した。不動産会社から受け取ったばかりの、銀色の鍵だった。
「だから、この家を出ることにしたの」
父親は鍵を見下ろしたまま、すぐには答えなかった。
「高校を選んだときもそうだったな」
「何が?」
「わざわざ、あの学校を選んだ。お前なら鳳英学園でも、聖峰女学院でも入れただろう。設備も教育環境も、今の学校とは比較にならない」
どちらも、政治家や資産家、大企業の経営者一族が子どもを通わせる学校だった。父親が用意した進学先の一覧には、当然のように名前が載っていた。
「だから行かなかったの」
「どういう意味だ」
「あの学校へ行けば、同級生の親も御影家と関係のある人ばかりでしょう。昼食に誘われても、遊びに誘われても、相手の家との関係を考えなければならない。断るたびに、どうして断ったのか説明を求められるわ」
「人との関係は、将来お前を助ける財産になる」
「私を助けるのではなく、御影家の事業に利用できる関係でしょう」
父親の表情から温度が消えた。
玲奈はそれ以上説明しなかった。
今通っている高校を選んだのは、特別な教育を受けたかったからでも、庶民の生活に憧れたからでもない。生徒の大半が、ごく一般的な家庭から通っている学校だったからだ。
そこなら、クラスメイトから昼食へ誘われても、それが企業間の関係へ影響することはない。ただ一緒に食べたいから誘い、気が進まなければ断る。それだけで終わる。
少なくとも、入学前はそう考えていた。
実際に通ってみれば、御影という名字と玲奈自身の容姿は、普通の学校でも十分すぎるほど目立った。それでも、誰かから声をかけられるたびに、その両親や一族の利害まで考えずに済むだけ、用意されていた進学先よりはましだった。
「四月の会食には出なさい」
「行かないわ」
「相手は東条家だ。今後の事業にも関係する」
「だから嫌なの」
玲奈は父親をまっすぐ見た。
「学校まで、会食の予定を増やす場所にしたくないわ」
「家を出れば、御影家と無関係になれるとでも思っているのか」
「思っていない」
「なら、何が変わる」
「私が決めるわ」
それは、玲奈が父親へ向けた言葉というより、自分へ言い聞かせるための言葉だった。
「いつ起きるのか。どこへ行くのか。誰と会うのか。少なくとも、自分のことくらいは自分で決める」
「自分でまともに生活したこともないお前に、何が決められる」
「やってみなければ分からないわ」
父親はしばらく玲奈を見ていた。
その目に怒りはなかった。心配とも違う。事業計画の欠陥を確認するような、冷静な視線だった。
「三か月だ」
「何が?」
「もって三か月で戻ってくる。好きにすればいい」
玲奈は返事をしなかった。
鍵を手に取り、食事の途中で席を立った。
◇◆◇◆◇
新学期が始まる三日前、玲奈は家を出た。
選んだのは、駅から少し離れた住宅街にある、ごく普通のマンションだった。御影家が所有する高級物件でも、使用人用の部屋が併設された邸宅でもない。玲奈自身が不動産情報から見つけ、契約だけは未成年者として家の許可を得た。
父親は反対した。
母親は一ヶ月も続かないと言った。
それでも最終的には、表向き一人暮らしを認める代わりに、家の者を近くへ置くことが条件になった。本人には知らせない約束になっていたようだが、玲奈は引っ越し当日から気づいていた。
一つ下の階に、見覚えのある女性が入居していたからだ。
彼女は御影家に長く仕え、幼い頃から玲奈の身の回りを担当してきた人物だった。エントランスですれ違っても、サングラスを掛けて他人のふりをしている。
変装のつもりらしいが、歩き方も、玲奈を見た瞬間に背筋を伸ばす癖も変わっていなかった。
玲奈は指摘しなかった。
生活へ口を出さない限り、好きにすればいいと思っていた。
部屋には、新しい家具と家電が揃っていた。
炊飯器、洗濯機、電子レンジ、掃除機。どれも最新型で、説明書を読めば使えるはずだった。
玲奈は自分が勉強できることを知っていた。
だから、生活も同じようにできると思っていた。
荷物の確認が終わると、家の経理を担当する者から通帳と一枚のキャッシュカードを渡された。
「生活費はこちらからお支払いください。不足しましたら、ご連絡を」
「分かったわ」
念のため残高を確認すると、二千万円を少し超える数字が記載されていた。
一人暮らしを始める高校生へ渡す金額として異常であることくらいは、玲奈にも分かった。しかし、どれほど異常なのかは分からなかった。
家賃が何か月分払えるのか。食費として何年分になるのか。電気や水道を一か月使えば、いくら減るのか。玲奈には、その数字を日常生活へ置き換えるための基準がなかった。
実家では、欲しいものを伝えれば用意された。服にも食事にも金額は表示されていたが、玲奈が支払うことはなかった。何千万円という数字には見覚えがあっても、卵一パックや洗剤一本の値段は知らなかった。
「こんなに必要なの?」
「念のためでございます」
「何のため?」
「万一の場合に備えて、お父様がご用意されました」
一人暮らしで想定される万一が何なのかは分からなかったが、それ以上の説明はなかった。
玲奈は通帳を机の引き出しへ入れた。
二千万円の使い道は分からなかったが、何か問題が起きても、金銭で解決できるのだろうとは理解した。
それが実家で教わった、数少ない生活上の知識だった。
◇◆◇◆◇
引っ越し初日の夜、スマートフォンへ翌朝の予定が通知された。
『四月八日 始業式』
制服はクローゼットに掛かっている。学校までは電車で三駅。新しいクラスと教室の場所も、事前に送られた資料へ書かれていた。
行けない理由はなかった。
玲奈は翌朝、一人で目を覚まし、一人で制服を着た。
朝食は取らなかった。何を食べればいいか分からなかったからだ。
駅まで歩き、電車へ乗り、始業時刻より早く学校へ着いた。新しい教室へ入ると、いくつもの視線が集まった。一年生の頃と変わらない反応だった。
窓際の席へ座る。
隣には、背の高い男子生徒がいた。
座っていても肩の位置が高く、少し吊り上がった目は、黙っていれば近寄りがたい印象を与える。それでも机の横へ落ちていた消しゴムを拾い、前の席の生徒へ何気なく返す仕草には、威圧感と不釣り合いなほど人のよさがにじんでいた。
「高槻春人です。よろしく」
声も穏やかだった。
「御影玲奈。よろしく」
それだけだった。
高槻は玲奈の名字を聞いても、父親の会社について尋ねなかった。髪の色を褒めることも、以前から知っていたような反応を見せることもなく、受け取った配布物を玲奈へ渡し、すぐ前を向いた。
始業式が終わると、玲奈は一人でマンションへ帰った。
誰かに迎えられることも、翌日の予定を告げられることもなかった。
夜になり、翌朝の目覚ましを設定しようとして、指が止まった。
学校へ行けば授業がある。
行かなければ、自分で勉強すればいい。
新しいクラスに親しい友人はいない。部活動にも所属していない。玲奈が明日休んでも、授業は進み、教室の席が一つ空くだけだった。
学校へ行くために起こしてくれる者も、制服を用意する者も、玄関で待つ車もない。
自分で決められるようになった瞬間、学校へ行く理由が一つも残っていないことに気づいた。
玲奈は目覚ましを設定せず、スマートフォンを伏せた。
翌朝、目を覚ましたのは十時を過ぎてからだった。
学校からの着信が一件。家からの着信が三件。夕食会への招待が記されたメッセージが二件届いていた。
玲奈は招待をすべて断り、学校には体調不良とだけ返信した。
その翌日も、学校へは行かなかった。
一人暮らしは自由だった。
何時に起きても、何を食べても、どこへ行かなくても、誰にも止められない。
ただ、その自由の中で何をすればいいのかを、玲奈は知らなかった。
空腹になれば、コンビニへ行った。
値札を見る必要はなかった。どれを選んでも口座の残高はほとんど変わらず、支払いに困ることもない。ただ、何をどれだけ買えば一日分になるのかが分からない。
初日は弁当を三つ買い、二つを残した。
翌日はサンドイッチを一つだけ買い、夜まで空腹に耐えた。
洗濯物は洗濯機へ入れたものの、どの洗剤をどれだけ使えばいいのか分からず、そのまま蓋を閉じた。掃除機は充電したが、床に積まれた段ボールをどこへ動かせばいいのか分からなかった。
一つ下の階にある部屋へ行けば、すべて解決することは分かっていた。
インターホンを押せば、あの女性は何も聞かずに食事を作り、洗濯をし、部屋を片づけるだろう。
それでは、家を出た意味がなかった。
玲奈は助けを求めなかった。
新学期が始まって九日目。
食卓代わりのローテーブルには、開封していない学校からの封筒が積まれていた。冷蔵庫には卵と水と、使い道のないドレッシングが入っている。
その日の昼、いつものコンビニへ行くと、レジの店員から笑顔を向けられた。
「いつもありがとうございます」
ごく普通の接客だった。
しかし玲奈には、毎日ここへ食事を買いに来ていることを指摘されたように聞こえた。
部屋へ戻ると、冷蔵庫を開けた。
卵が十個入っていた。正確には、昨日一つ落として割ったため、残っているのは九個だった。
目玉焼きなら作れると思った。
レシピには、卵を割って焼くとしか書かれていない。米を炊くより工程が少なく、失敗する要素も見当たらなかった。
玲奈はフライパンへ卵を入れ、最も早く焼けるように火力を最大へ設定した。
加熱している間に、学校から届いた封筒を一つ開いた。中身へ目を通していると、電子音が鳴り始めた。
何の音なのか分からなかった。
キッチンへ戻ると、フライパンから白い煙が上がっている。慌てて火を消そうとして、近くにあった容器を床へ落とした。
玄関のインターホンが鳴った。
火災報知器と同時に誰かが訪ねてくるという状況を、玲奈はどう処理すればいいのか分からなかった。
「御影?」
扉の向こうから、男の声が聞こえた。
「いるなら返事をしてくれ。高槻だ。同じクラスの」
始業式の日に一度だけ話した、隣席の男子生徒。
その声を聞いた玲奈は、なぜか少しだけ安心した。
もっとも、その理由を考える余裕はなかった。
玲奈は菜箸を一本だけ握り、玄関の扉を開けた。




