第三話 社会復帰初日の令嬢は、弁当を持ってこない
教室という場所には、目に見えない境界線がある。
声の大きさや友人の数、運動能力、容姿、あるいは誰と昼食を取るか。誰かが明文化したわけでもないのに、生徒たちは自分の立ち位置を把握し、踏み越えてはいけない境界線を器用に避けている。
御影玲奈は、その境界線の外側にいた。
新学期初日、俺たちは隣の席に座っていた。朝の挨拶くらいは交わしたし、配布物を渡す際には短い言葉も交わした。その翌日から彼女が登校しなくなったため、親しくなる機会がなかっただけで、初対面というわけではない。
したがって、御影が俺へ「おはよう」と言ったこと自体は、そこまで不自然ではなかった。
「おはよう、高槻。昨日はありがとう」
「ああ。残った米をちゃんと冷凍したか?」
「忘れたわ」
「忘れた?」
「炊飯器に入れたまま来た」
「保温にはしてあるんだろうな」
「保温というのは?」
「そこから説明が必要なのか」
教室が静かになった。
単なる挨拶で終わっていれば、誰も気にしなかっただろう。問題は、始業式以来まともに登校していなかった御影と俺が、昨日の続きのような会話を始めたことだった。
前の席にいた三浦が、椅子ごとゆっくり振り返る。
「……お前ら、いつの間にそんな仲になったの?」
御影が口を開くより先に、俺は答えた。
「昨日、偶然会った」
嘘ではない。担任から頼まれた結果ではあるが、御影があの部屋で目玉焼きを炭へ変えていたことまで予測して訪ねたわけではない。
「どこで?」
「学校の外だ」
「広すぎるだろ。せめて駅とか店とかあるじゃん」
「詳しく言う必要があるか?」
「その隠し方をされると、逆に気になるんだけど」
三浦の視線が俺と御影の間を往復する。周囲の生徒たちも会話へ加わるほどではないが、明らかにこちらを気にしていた。
御影から、学校では昨日のことを話すなと言われている。米の炊き方を知らなかったことも、目玉焼きを黒い板へ変えたことも、生活能力が壊滅していることも、口外するつもりはなかった。
「先生に頼まれて、学校の書類を届けただけだ。それ以上のことは何もない」
「なんだ。御影の家に行ったのか」
三浦の声が妙に大きかった。
教室の空気が、目に見えないままこちらへ傾いた。
「家の中までは入っていない」
「でも『届けた』んだろ?」
「郵便受けかもしれないだろ」
「郵便受けだったの?」
助けを求めるつもりはなかったが、三浦の問いにつられるように御影を見てしまった。
御影は少し考えたあと、首を横へ振った。
「部屋まで入ったわ」
空気の傾きが一気に加速した。
「御影」
「何?」
「昨日、学校では何も言うなと言ったのはお前だろ」
「あなたが困っていたから、事実を説明しただけよ」
「説明する事実を選べ」
三浦が机へ身を乗り出した。
「ちょっと待って。高槻、御影の部屋に入ったの?」
「緊急事態だった」
「何があったんだよ」
「それは言えない」
「どうして?」
「御影との約束だからだ」
三浦が息を呑んだ。
周囲から小さなどよめきが起きる。俺としては、昨日の失敗を口外しないと約束しただけである。しかし言葉の選択を誤ったせいで、他人にはもっと重大な秘密を共有しているように聞こえたらしい。
「高槻は悪くないわ」
御影が静かに口を挟んだ。
今度こそ助け舟かと思った。
「私が無理に引き留めて、初めてのことを教えてもらったの」
舟に穴が開いていた。
「初めてって何?」
三浦の声が裏返る。
「言わない約束だから説明できないわ。ただ、高槻は慣れていたし、手際もよかった。それだけよ」
「米の炊き方だ!」
守るべき秘密を、俺自身が叫んでいた。
教室に沈黙が落ちる。
御影が不満そうに眉を寄せた。
「言わない約束だったでしょう」
「このまま黙っていたら、俺が学校へ来られなくなる」
「なぜ?」
「お前はもう少し言葉が持つ意味を考えろ」
「事実しか話していないわ」
「事実は並べ方によって凶器になるんだよ」
三浦は口元を押さえ、笑いをこらえている。
「なんだ、炊飯かよ」
「最初からそう言っている」
「言ってないだろ。必死に隠してただろ」
「本人が黙っていろと言ったんだ」
三浦が御影を見ると、彼女は小さく頷いた。
「私が米を炊けないことは、学校では秘密なの」
「スケールの小さい機密情報だな」
「あなたも口外しないで」
「別に言わないけどさ」
これ以上話せば、隠しているのか広めているのか分からなくなる。俺は三浦を前へ向かせ、自分も一時間目の教科書を取り出した。
その直後、御影が声を落とした。
「高槻。昨日の返事を聞きたいのだけれど」
「ここでは話さない」
「では、どこで?」
「考えておく」
「今日中にお願い」
「学校へ来た目的はそれか?」
「今のところは」
相変わらず、登校の理由としては個人的すぎる。しかし教室で続きを話すよりはましだった。
担任の梶先生が入ってきたため、御影は前を向いた。俺たちの会話はそこで終わったが、三浦だけは何かを察したように、何度もこちらを振り返っていた。
◇◆◇◆◇
「御影玲奈」
「はい」
朝の出席確認で御影の返事を聞いたとき、梶先生の指先が一瞬だけ止まった。
大げさに驚くことも、登校した理由を尋ねることもなく、そのまま次の生徒の名前を読み上げる。全員分の確認を終えると、先生は連絡事項を淡々と伝え、いつもどおり教室を出ていった。
俺もすぐに席を立ち、廊下で梶先生を呼び止めた。
「先生。放課後、空き教室を一つ貸してください」
「何に使うんだ?」
「御影と話があります」
梶先生の視線が、俺の肩越しに教室へ向いた。
窓際の席では、御影がこちらを見ている。目が合うと、梶先生は慎重に言葉を選ぶような間を置いた。
「教室では話せないことなのか?」
「人に聞かれたくない内容です」
「高槻。教師として一応聞くが、問題のある話じゃないだろうな」
「生活上の契約について話すだけです」
「余計に分からなくなったぞ」
「詳しくは本人との守秘義務があります」
「すでに契約してるみたいな言い方をするな」
「だから、その契約について話す場所を借りたいんです」
梶先生はしばらく俺を見たあと、面倒そうに息を吐いた。
「放課後なら、東棟三階の小会議室が空いている。ただし三十分だけだ」
「ありがとうございます」
「鍵は職員室へ取りに来い。それと、変なことには使うなよ」
「先生は俺を何だと思っているんですか」
「登校しなかった女子生徒の家へ行き、翌日には学校へ連れてきた男」
「連れてきていません。それに、御影の家へ行くよう依頼したのは先生ですよね」
「プリントを届けろとは言ったが、それ以外の依頼をしてはいない」
「では、昨日の追加業務分として借ります」
「追加業務って何だ」
「火災の防止、炊飯指導、栄養状態の改善です」
「御影の家で何があったんだよ」
「守秘義務があります」
「便利に使うな、その言葉」
それでも梶先生は、手にしていた書類の端へ『東棟三階小会議室・放課後三十分』と書き込んだ。
昨日、面倒事を押しつけられた分くらいは、これで返してもらってもいいだろう。
◇◆◇◆◇
午前中の授業で、御影は一度もノートを取らなかった。
教師から指示されたページは開くものの、板書を写さず、問題を解く様子もない。窓の外を眺めるでも、居眠りをするでもなく、ただ静かに座っていた。
数学の教師が、少し意地の悪い難問を彼女へ当てた。
御影は黒板を一度見ると、席に座ったまま答えだけを口にした。
「途中式は?」
「必要ですか?」
「必要だから聞いている」
「二通りあります。置換して整理する方法と、図形的に処理する方法。どちらで説明しましょう」
教師は数秒黙り、置換して整理する方を選んだ。
御影は淀みなく説明した。教師が黒板へ書き写す速度よりも彼女が話す方が早く、途中で二度ほど待つことになった。
授業が再開してから、三浦が小声で囁く。
「来なくても成績がいいなら、そりゃ学校に来る意味ないよな」
「勉強だけが学校へ来る理由でもないだろ」
「友達とか?」
「たとえばな」
三浦は御影の方を見た。
休み時間になっても、彼女の周囲には誰も近づかなかった。朝の一件で興味を持った者は増えたようだが、本人が他人を受け入れる雰囲気をまるで出していない。
二時間目の休み時間には、学級委員の佐伯が勇気を出して話しかけようとしていた。御影の机まで来たところで、本人から先に「何か用?」と聞かれ、「ううん、何でもない」と退却している。
御影に悪意はない。
ただ、用事がないのに話しかけるという行為を理解できていないらしい。人付き合いが苦手というより、人付き合いが必要になる場面を知らないのだろう。
本人が望んでいないなら、善意を理由に距離を詰めるべきではない。俺はそう考えていた。
昼休みまでは。
◇◆◇◆◇
四時間目の終了を告げるチャイムが鳴ると、教室の空気が一斉に緩んだ。
購買へ向かう者、机を寄せる者、弁当箱を取り出す者。それぞれが迷いなく昼休みを始める中で、御影だけが席を立たなかった。
俺も気にせず弁当箱を開いた。今日のおかずは鶏肉の照り焼き、卵焼き、ほうれん草の胡麻和え。朝の自分が作ったものなので、中身に驚きはない。
箸を伸ばしたところで、右側から視線を感じた。
御影がこちらを見ている。
「何だ」
「別に」
照り焼きを一切れ食べる。
まだ見ている。
「昼食は?」
「必要なの?」
「午後も授業があるなら食べた方がいい」
「朝は食べたわ」
「何を」
「昨日炊いたお米」
「ほかには?」
「お米を食べたと言ったでしょう」
「米は複数のおかずを兼任できない」
御影は鞄の中を確認したが、弁当も財布も出てこなかった。
「財布は?」
「部屋に置いてきたみたい」
「電子マネーは」
「スマートフォンに入っているわ」
「なら購買で買える。一階の渡り廊下だ」
「分かった」
御影は立ち上がった。しかし教室を出る直前で足を止め、廊下の左右を見比べた。
「一階の渡り廊下へは、どちらから行けばいいの?」
「東階段を下りれば近い」
「東階段?」
「廊下を右に出た先だ」
「去年の教室は西棟だったから、こちら側の位置関係が分からないわ」
高校二年生にもなって購買の場所を知らないわけではないらしい。ただ、新しい教室がある東棟から向かった経験がなく、最短経路が分からないようだった。
「途中まで案内する」
「食事中でしょう」
「このまま行かせたら、西棟を一周して戻ってきそうだからな」
「一人でも着けるわ」
「何分で?」
「昼休みが終わるまでには」
「買ったものを食べる時間が残っていないだろ」
俺が立ち上がると、向かいでパンを食べていた三浦が笑った。
「もう完全に保護者じゃん」
「道を教えるだけだ」
「生活指導業務の一環よ」
「御影」
「何?」
「朝の話を思い出せ」
御影は教室中の視線を受け、少しだけ考えた。
「……まだ契約前だったわ」
「訂正する場所はそこじゃない」
どうやら彼女に秘密を守らせること自体、生活指導の項目へ加えた方がよさそうだった。
廊下へ出ると、御影は俺の半歩後ろを歩いた。
すれ違う生徒たちが振り返る。彼女が有名だからなのか、その隣に俺がいるからなのかは分からない。できれば前者であってほしかった。
「学校は嫌いか?」
階段を下りながら、俺は前を向いたまま聞いた。
「急ね」
「来なかった理由は聞かない。ただ、嫌いなら無理に好きになる必要もないと思っただけだ」
背後の足音が一段だけ遅れた。
「嫌いではないわ」
「そうか」
「好きでもないけれど」
「そういう人間が大半だろうな」
「あなたは?」
「好き嫌いで考えたことはない。必要だから来ている」
「必要?」
「勉強する場所で、友人と会う場所で、将来の選択肢を増やす場所だ。今のところは、それで十分だろ」
「私には必要がないわ」
「なら、昨日までは来なくて正解だったな」
足音が止まった。
振り返ると、御影は踊り場に立ったまま俺を見ていた。
「怒らないの?」
「何に」
「学校へ来ないことに。先生も、家の人間も、みんな来るべきだと言うわ」
「俺はお前の出席日数に責任がない。それに、必要がない場所へ来いと言うなら、必要になる理由くらい用意するべきだ」
御影はしばらく何も言わなかった。
窓から入った昼の光が、階段の手すりへ四角く落ちている。上の階から生徒たちの話し声が降ってきて、その中に俺たちだけが取り残されたようだった。
「今日は必要だったわ」
やがて御影が言った。
「契約のためか」
「ええ」
「明日は?」
「まだ分からない」
「そうか」
俺は再び階段を下り始めた。御影も何も言わずについてきた。
購買は混雑していたが、まだいくつかパンが残っていた。御影は棚の前に立ち、商品を一つずつ確認している。
「どれを買えばいいの?」
「好きなものを買え」
「判断基準がないわ」
「味だろ」
「食べたことがないものの味は分からない」
「気になるものを選べばいい」
「選択を誤った場合は?」
「昼食のパン一つで人生は終わらない」
御影は真剣に悩んだ末、あんパンと焼きそばパンを手に取った。栄養の組み合わせには疑問があったが、自分で選べたことの方が重要だろう。
会計へ進んだ彼女が、スマートフォンを端末へかざす。
機械が短いエラー音を鳴らした。
もう一度かざす。同じ音がした。
「残高不足ですね」
購買の女性に言われ、御影は画面を確認した。
「百二十円しかないわ」
「二つで三百二十円だな」
「二百円足りない」
「見れば分かる」
後ろには列ができていた。御影が立ち尽くしているため、俺は財布から二百円を出した。
「貸しだ」
「一時間五千円を払おうとしている相手から、二百円を貸しにするの?」
「声が大きい」
周囲を確認したが、幸い教室の人間はいなかった。
「契約と貸し借りは別だ」
「非効率ね」
「社会はそういう非効率でできている」
教室へ戻る途中、御影は焼きそばパンの袋を見ながら呟いた。
「学校に来ると、お金が減るのね」
「その感想だけ聞くと、悪質な施設みたいだな」
「それに、知らないことが多いわ」
「学ぶ場所だからな」
「勉強以外も?」
「むしろ、勉強以外の方が多いかもしれない」
教室へ戻ると、御影は自分の席ではなく、俺の机の横へ椅子を寄せた。
周囲の視線がまた集まる。
「なぜここで食べる」
「購買まで案内した責任を取って」
「案内人にそんな責任はない」
「一人で食べるのは、学校へ来た意味がないでしょう」
階段での俺の言葉を、そのまま返されたらしい。
反論できずにいると、御影はあんパンの袋を開けた。最初の一口を小さくかじり、わずかに目を見開く。
「甘い」
「あんパンだからな」
「パンの中に豆を入れる必要はあるの?」
「日本の食文化へ喧嘩を売るな」
三浦が笑いをこらえながら机を寄せてきた。
「俺も混ざっていい?」
「好きにしろ」
俺が答えると、三浦は御影の方を見た。
「御影もいい?」
「なぜ私に確認するの?」
「嫌だったら悪いかなって」
「嫌ではないわ」
「じゃあ、よろしく」
「何を?」
「一緒に飯を食うことを」
「それに挨拶が必要なの?」
三浦は困ったように俺を見た。
「高槻、通訳して」
「俺にも分からない」
三人で昼食を取ったからといって、何かが大きく変わったわけではない。御影がクラスに馴染んだわけでも、学校を好きになったわけでもなかった。
それでも彼女は、焼きそばパンを食べながら三浦のどうでもいい話を聞いていた。返事は短く、笑いもしなかったが、途中で席を立つことはなかった。
◇◆◇◆◇
放課後、職員室で鍵を借り、東棟三階の小会議室へ向かった。
室内には長机が四つとパイプ椅子が八脚置かれていた。窓から差し込む西日が、長く使われていないホワイトボードの表面に薄い埃を浮かび上がらせている。
人目を避けて話すには十分な場所だった。
俺が鍵を閉めず、扉を少しだけ開けておくと、後から入ってきた御影がその隙間を見た。
「閉めないの?」
「男女二人で空き教室を使うんだ。あとから妙な誤解をされたくない」
「朝の時点ですでに誤解されていたと思うけれど」
「原因の半分はお前だ」
「助けようとしただけよ」
「今後、俺が困っているときは何も言わないでくれ」
「分かったわ」
返事だけは素直だったが、信用はできなかった。
御影は長机の上へクリアファイルを置き、中から数枚の書類を取り出した。表題には『生活指導業務委託契約書』とある。
「これが正式な契約書よ」
「高校生同士の話に法務担当を持ち込んだのか」
「雛形を確認してもらっただけ。具体的な内容は伝えていないわ」
「そういう問題でもない気がするが」
向かい合って座り、俺は書類へ目を通した。
報酬は一時間五千円。交通費は別途支給。業務内容は料理、洗濯、清掃その他、双方の合意によって定めた生活上の指導。守秘義務や契約解除の条件まで記載されている。
「高い」
「あなたが普段受けている仕事の時給を知らないから、仮の金額よ」
「高校生へ払う金額じゃない。一時間千円でいい」
御影の眉がわずかに動いた。
「安すぎるわ」
「家事の専門家ではないからな。高校生が同級生に料理を教えるだけなら、それで十分だ」
「あなたは本来、その時間を別の仕事に使えるのでしょう?」
「そうだが、これは仕事というより――」
「契約よ」
御影は俺の言葉を遮り、書類の報酬欄を指先で押さえた。
「私が教えてほしいと依頼し、あなたの時間と能力を使う。その対価を、あなたが一方的に低く見積もるのは認められないわ」
「払う側が値上げを要求する交渉は初めてだ」
「適正な対価を提示しているだけよ。五千円で契約するわ」
「高すぎる」
「では四千円」
「刻み方がおかしい。千円」
「三千円」
「千五百円」
「細かいわね」
「お前が下がらないからだろ」
「一時間二千円。これ以上は下げないわ」
「払う側の台詞じゃないな」
「あなたも、これ以上下げないで」
普段受けている仕事と比べれば安い。それでも、高校生同士の約束としては十分な金額だった。ここで千円にこだわれば、御影は別の名目をつけて差額を払おうとするだろう。
「分かった。二千円でいい」
「交渉成立ね」
「ただし、予定時間を超えても追加料金は取らない」
「なぜ?」
「友人から金を取りすぎているみたいで落ち着かない」
口にしてから、少しだけ違和感が残った。
御影も気づいたらしく、黙ってこちらを見ている。
「何だ」
「私たちは友人なの?」
「同級生と言い直してもいい」
「どちらでも構わないわ。ただ、契約書には影響しないもの」
御影は書類の報酬欄へ二重線を引き、二千円と書き直した。
そこへ訂正印を押そうとして、手が止まる。
「印鑑がないわ」
「訂正した箇所に二人で署名すればいい」
「そうなの?」
「この程度の契約なら、それで問題ないだろう」
「詳しいのね」
「仕事を受けるときに契約書くらい読む」
「やはり一時間五千円でも――」
「戻すな」
次に、業務時間を確認する。御影の希望は週三回、一回二時間となっていた。
「多い」
「何もできないのだから、これでも足りないくらいよ」
「俺にも生活がある。週一回、一時間」
「一時間で何ができるの?」
「一度に全部覚えようとするな。まず一つ覚えて、一週間自分でやる。それで困った部分を次の回に修正する」
「失敗した場合は?」
「失敗も含めて覚えろ。ただし、火災や水漏れにつながることは一人で試すな」
「連絡先を教えて」
「なぜそうなる」
「緊急時に確認するためよ」
「火が出たら、俺ではなく消防へ連絡しろ」
「火を出さないために聞くの」
理屈は通っていた。
俺たちは連絡先を交換した。御影の名前がスマートフォンの画面へ表示される。それだけのことなのに、向かいに座る本人は契約書へ記入するより慎重に、俺の名前を登録していた。
「それから、業務範囲外の頼み事は断ることがある」
「具体的には?」
「登校の付き添い、課題の代行、買い物の代行。自分でできることは自分でやれ」
「買い物は一人でもできるわ」
「今日、二百円足りなかったけどな」
「返すわ」
御影は財布を取り出そうとして、鞄の中を探った。
「財布は家だろ」
「そうだったわ」
「それも次までの宿題にする。外出するときは、必要な物を確認する」
「契約前から宿題を出すの?」
「二百円分だ」
「非効率ね」
「社会はそういう非効率でできている」
「それ、今日二度目よ」
「一日で二度言わせた側が数えるな」
修正を終えた契約書に、俺たちはそれぞれ署名した。仰々しい書類ではあるが、内容は週に一度、御影へ家事を教える。それだけだった。
少なくとも、このときの俺はそう考えていた。
「最初の指導日は土曜日でいいか?」
「構わないわ」
「午前十時から一時間。最初は買い物と簡単な朝食だ」
「何を作るの?」
「味噌汁」
「目玉焼きより難しそうね」
「だから、まず材料を買うところから始める」
「買い物にも指導が必要なの?」
「お前を一人でスーパーへ行かせたら、ドレッシングだけ買って帰りそうだからな」
「そんなことはしないわ」
「昨日、冷蔵庫にドレッシングしかなかった」
「卵もあったでしょう」
「かける相手を買えと言っている」
御影はスマートフォンの予定表へ、土曜日の約束を入力した。
その指先が止まる。
「明日は、学校へ来なくても問題ない?」
不意に聞かれ、俺は彼女の顔を見た。
「俺に決める権利はない」
「契約の話は終わったわ。明日ここへ来る理由がない」
「なら、来なくてもいいんじゃないか」
「そう」
御影は画面へ視線を戻した。
返事はいつもと同じだったが、予定を入力する指は動かなかった。
「ただ、二百円は返してもらっていない」
御影が顔を上げる。
「次に会ったときでいいでしょう」
「学校なら明日会える」
「二百円のために登校しろと?」
「来る理由が必要なんだろ」
「ずいぶん弱い理由ね」
「学校へ来る理由なんて、その程度でいい。友人に借りた二百円を返すとか、購買で昨日とは違うパンを買うとか。毎日、将来のために登校している人間ばかりじゃない」
御影は少し黙ったあと、スマートフォンを鞄へ入れた。
「検討しておくわ」
「来るかどうかを?」
「明日、どのパンを買うかを」
御影は契約書を一部俺へ渡し、もう一部をクリアファイルへ戻した。
小会議室を出るとき、その足取りは昨日の玄関先で見たときよりも、ほんの少しだけ軽かった。
◇◆◇◆◇
翌朝。
御影は始業時刻の十五分前に登校した。
俺の机へ百円玉を二枚置くと、挨拶より先に言う。
「二百円、返すわ」
「確かに」
「それから、今日はクリームパンにする」
「報告は必要ない」
「昨日とは違うものを買えと言ったでしょう」
「そこまで指定していない」
翌日も彼女は来た。
今度は財布を忘れなかったが、教科書をすべて自宅へ置いてきた。さらにその翌日は教科書を持ってきた代わりに、体育があることを知らず、三浦から学校指定のジャージを借りていた。
理由はどれも、学校へ来た人間としては情けないものばかりだった。
それでも右隣の席に鞄が掛かっている光景は、少しずつ教室の日常へ溶け込んでいった。
そして連続登校三日目の放課後、俺は梶先生から職員室へ呼び出された。
「高槻。お前、御影に何をした?」
「今週、その質問を何度もされています」
「始業式の翌日から一度も来なかった生徒が、三日連続で登校しているんだ。しかも今日、本人から新しい団体を作りたいと相談された」
「御影が?」
「ああ。活動場所として、空き教室も貸してほしいそうだ」
嫌な予感がした。
「何をする団体ですか」
梶先生は、御影から渡されたらしい一枚の紙を机へ置いた。
設立希望団体名の欄には、整った文字でこう書かれていた。
『社会適応研究会』
活動目的の欄には、『社会生活に必要な能力を実践的に研究し、各自の社会適応を目指す』とある。
そこまではいい。
問題は、その下だった。
「なぜ代表者の欄に俺の名前があるんですか」
「御影いわく、すでに高槻から専門的な指導を受けているらしいな」
「炊飯と買い物です」
「それを専門的な指導として契約したんだろ?」
「どうして先生が契約を知っているんですか」
「御影から聞いた」
「守秘義務はどこへ行ったんだ」
梶先生は申請書の隣へ、もう一枚の紙を置いた。
そこには顧問予定者として、梶先生自身の名前が記載されている。
「先生は引き受けるんですか」
「正式な部活動として認めたわけじゃない。まずは一か月、同好会準備団体として様子を見る。活動は週二回まで、毎回報告書を提出すること。それが条件だ」
「ずいぶん前向きですね」
「御影が学校へ来るようになった。それだけでも、試してみる価値はある」
梶先生は一度言葉を切り、教室の方角へ視線を向けた。
「学校へ来られない生徒に、ただ来いと言い続けても仕方がない。ここに来る理由を本人が作ろうとしているなら、教師として潰したくはないんだよ」
その言葉には納得できた。
「御影が学校へ来る理由になるなら、空き教室の一つくらい貸してもいい。それに、最近は部員が五人いれば同好会として認められる。活動内容も、名称ほど危険ではなさそうだ」
御影が学校を必要としていなかったのなら、学校の中に必要なものを作る。それ自体は悪い考えではない。
「ただし、現在の参加希望者は二人だけだ」
「足りていませんね」
「御影は集めると言っていたぞ」
俺は申請書を見下ろした。
米を炊けず、財布を忘れ、校内で購買へたどり着くことさえできなかった人間が、ほかの生徒を集めて団体を作ろうとしている。
わずか三日前まで、学校へ来る必要がないと言っていた人間が。
◇◆◇◆◇
「高槻」
職員室の入口から声がした。
振り返ると、御影が立っていた。
「申請書、見た?」
「見た。代表者の名前を間違えている」
「合っているわ」
「俺は了承していない」
「先生から、代表者には継続して登校している生徒が望ましいと言われたの」
「まず設立そのものについて俺の了承を取れ」
「今から取るわ」
「順番が逆だ」
御影は俺の隣へ来ると、机の上の申請書を確認した。
「三人、足りないの」
「俺を数に入れるな」
「代表者がいなくなると、四人足りなくなるわ」
「訂正するところはそこじゃない」
「協力して、高槻」
「断る」
「まだ活動内容を説明していないでしょう」
「そのやり取りは三度目だ。そして内容を聞くたび、俺の仕事が増えている」
「今回は、おそらく大丈夫よ」
「『おそらく』がついた時点で大丈夫じゃない」
御影は申請書を胸元へ抱え、ほんの少し考え込んだ。
「では、契約内容に加えるわ」
「何を」
「学校生活に関する指導」
「勝手に業務範囲を拡大するな」
「報酬は増やす」
「そういう問題じゃない」
梶先生が、笑いをこらえるように口元を押さえていた。
この二人はすでに、俺が引き受けることを前提に話を進めている。
善人は、だいたい損をする。
昔からよく聞く言葉だが、正確ではない。
損をするのは、頼まれた瞬間に断れない善人ではない。最初は断るくせに、相手が困っている理由を知ると最後まで見捨てられない人間だ。
そして残念ながら、俺は自分がどちらに当てはまるのかを知っていた。




