第二話 契約は、当事者の合意によって成立する
「月に十万円」
御影玲奈は、黒焦げになった目玉焼きを前にして言った。
こちらの聞き間違いでなければ、高校生の一人暮らしを救済するには十分すぎる金額だった。俺が請け負っているウェブ制作の仕事は、時給に直せば悪くない。それでも学校へ通いながら月十万円を安定して稼ぐには、睡眠時間をさらに一時間ほど削る必要がある。
正直に言えば、魅力的だった。
「断る」
「どうして?」
「魅力的だからだ」
「意味が分からないわ」
「金額に釣られて引き受けたら、あとで業務範囲を拡大されても断れなくなる。最初は料理だけだったはずが、三か月後にはお前を起こして学校へ送り、帰宅後に宿題を見て、風呂上がりの髪まで乾かしているかもしれない」
「最後の仕事は不要よ。髪くらい自分で乾かせるわ」
「そこだけ否定するな」
火災報知器はすでに鳴りやみ、換気扇が低い音を立てていた。窓を開け放した室内に四月の風が入り込み、焦げ臭さを少しずつ薄めている。ただ、料理を再開できる状態ではない。フライパンは冷えていたが、中の物体が食材へ戻る見込みはなかった。
御影は腕を組み、キッチンの壁へ背を預けた。
「では、月に十五万円」
「交渉というものを知っているか?」
「断る理由がお金なら、増やせば解決するでしょう」
「魅力的すぎるから断ったんだ。増やしてどうする」
「ますます魅力的になったわ」
「だから危険なんだよ」
御影は納得できないらしく、わずかに首を傾けた。彼女にとって金銭は、問題と交換するための数字なのかもしれない。十五万円を高校生へ提示することにも、それを拒まれることにも、一般的な感覚が追いついていない。
「そもそも、家事をする人間が必要なら、家政婦を頼めばいいだろう」
「嫌よ」
返答はそれまでで最も早かった。
「知らない大人を部屋に入れたくないの。実家から人を寄越されたら、生活のすべてを報告されるし」
「俺もほとんど知らない人間だ」
「同級生でしょう」
「今日、初めてまともに会話した」
「同じ学校に通っているなら、身元は保証されているわ」
「お前はその学校に通っていないけどな」
御影が黙った。
表情はほとんど変わらなかったが、視線だけが俺から外れる。踏み込むつもりのない場所へ、こちらから片足を入れてしまったらしい。
「悪かった」
「別に。事実だもの」
そう答えた声にも、傷ついた様子はなかった。だが、彼女はテーブルの上に置かれた未開封の封筒を一枚取り、意味もなく裏返した。
「学校へ行かない理由を聞かないのね」
「聞いてほしいのか?」
「聞かれても答えないわ」
「なら、お互いの時間を節約できたな」
「そういうところは悪くないと思う」
「人を雇う前提で査定するな」
御影は封筒を置き、代わりにスマートフォンを手に取った。指先が画面を何度か滑り、やがて俺の方へ向けられる。そこには即日契約可能な家事代行サービスの料金表が表示されていた。
「これより高く払うと言っているのに」
「俺には本業がある」
「高校生でしょう」
「高校生にも本業はある。学校だ」
「それ以外は?」
「個人で仕事を受けている。ウェブサイトを作ったり、直したり」
御影が目を細めた。疑っているというより、頭の中で何かを計算している顔だった。
「家事ができて、勉強もできて、仕事もしているの?」
「運動もそれなりにできる」
「嫌味?」
「事実を追加しただけだ」
「あなた、友達が少ないでしょう」
「いる」
「何人?」
「人数を即答できる人間の方が怖いだろ」
俺は時計を確認した。ここへ来てから三十分近く経っている。帰宅後は洗濯物を取り込み、夕食を作り、受注した仕事の修正を終えなければならない。御影の生活が危機的状況にあることは分かったが、俺の予定まで一緒に破綻させるわけにはいかなかった。
「話は終わりだ。課題は玄関に置いてある。火を使うのは、せめて使い方を調べてからにしろ」
「待って」
「今度は何だ」
「目玉焼きはどうすればいいの?」
「捨てろ」
「そうではなくて、夕食」
「それを夕食にするつもりだったのか」
「卵を二個使ったから、栄養は十分でしょう」
「炭水化物という言葉を知っているか?」
「化学の範囲なら」
「家庭科の範囲で考えろ」
俺は冷蔵庫を開けた。
他人の家の冷蔵庫を勝手に確認するのは褒められた行為ではない。ただ、このまま帰れば、明日のニュースに『大企業令嬢、卵との戦いに敗れる』という見出しが載りかねなかった。
中に入っていたのは、卵が八個、ミネラルウォーターが六本、ドレッシングが一本。それだけだった。
「野菜は?」
「ドレッシングがあるわ」
「かける相手がいない」
「卵にかける予定だったの」
「目玉焼きに?」
「野菜味になるかと思って」
俺は冷蔵庫の扉を静かに閉めた。
学校に来ない理由より先に、これまでどうやって生きてきたのかを聞くべきだったかもしれない。
「米はあるか」
「買ったわ」
御影が指差した先には、五キログラムの米袋が未開封のまま置かれていた。炊飯器もある。ただし、電源コードには購入時の結束バンドがついたままだった。
「一度だけ教える」
「料理を?」
「米の炊き方だ。これは雇用ではない。クラスメイトへの緊急的な救命措置と考える」
「ついでに卵も焼いて」
「要求を増やすな」
「報酬は払うわ」
「いらない」
「対価を受け取らない人間は信用できないのだけれど」
「善意を絶滅危惧種みたいに扱うな」
米袋を開け、計量カップを探す。炊飯器の付属品が入った箱は段ボールの底に沈んでいた。俺が取り出す間、御影は少し離れたところから手元を見ていた。
「一合でいいか」
「その単位は体積?」
「米を量る単位だ」
「何グラム?」
「およそ百五十」
「最初からグラムで言えばいいでしょう」
「炊飯器の目盛りは一合を基準にしている」
「業界全体が消費者に歩み寄るべきね」
「炊飯業界への批判は、炊けるようになってからにしろ」
計量カップを渡すと、御影は米をすくった。すり切り一杯と説明したのに、山盛りのままこちらへ見せる。
「これで一合?」
「その自信はどこから来るんだ」
「多い分には困らないでしょう」
「水加減が狂う」
俺が余分な米を袋へ戻すと、御影は真剣な目で見つめていた。授業を受けているというより、未知の技術を観察している顔だ。
米を研ぐよう教えると、彼女はいきなり強く握りしめた。
「砕くな。優しく洗え」
「手加減というものは、数値で示せないの?」
「日常生活の大半は数値で示せない」
「非効率ね」
「お前は効率を求めすぎて、目玉焼きを炭にしたんだろ」
何度か水を替え、炊飯器に内釜を戻す。蓋を閉め、炊飯ボタンを押すところまで終えると、御影はスマートフォンを操作し始めた。
「何をしている」
「記録しているの。米一合、百五十グラム。水は一の目盛り。洗浄時は破壊しない」
「最後の項目はもう少し一般的に書け」
「炊飯完了まで、あと四十八分」
「その間に卵を焼く」
「教えてくれるの?」
「米だけあっても、ドレッシングをかけて食べそうだからな」
「さすがにそんなことはしないわ」
「今日会ったばかりのお前を、そこまで信用できない」
フライパンはさすがに先ほどのものを使う気になれず、棚から小さなものを出した。油を引き、火加減を見せてから卵を割らせる。
御影は卵を片手に持ち、フライパンの縁へ叩きつけた。
殻ごと潰れた。
「……今のは、卵の耐久性に問題があるわ」
「卵に責任を押しつけるな」
どうにか殻を取り除き、二個目は両手で割らせた。黄身が崩れた程度で済んだので、初回としては成功に分類してもいいだろう。蓋をして弱火で待つ。御影はフライパンの前から一歩も動かず、中の様子を見つめていた。
「ずっと見ていなくても焼けるぞ」
「また焦げたら困るもの」
「さっきよりは進歩したな」
「私が失敗したような言い方はやめて。あれは説明書の不備よ」
焼き上がった目玉焼きを皿へ移すと、御影はそれを持ち上げ、さまざまな角度から確認した。形は少しいびつだったが、少なくとも食べ物には見える。
「……白いわね」
「目玉焼きは普通、白い」
「さっきは黒かったのに」
「お前は色の変化に疑問を持たなかったのか?」
「料理には加熱によって色が変わるものも多いでしょう」
「理屈だけで生活しようとするな」
御影は箸で端を切り、小さく口へ運んだ。噛むほどのものでもないのに慎重に飲み込み、もう一口食べる。
その表情は変わらなかった。
ただ、二口目は最初より少し大きかった。
「どうだ」
「普通ね」
「そうか」
「市販の卵を、市販の調理器具で焼いたのだから、当然でしょう」
「そうだな」
皿から目を上げない彼女へ、それ以上は言わなかった。
料理を褒められたわけでもない。俺が作ったのは見本だけで、焼いたのは御影自身だ。それでも、焦げ臭さの残る部屋の中で食べる不格好な目玉焼きは、彼女にとって少しだけ特別なものだったらしい。
炊飯器の使い方をもう一度説明し、俺は鞄を持った。今度こそ帰らなければ、こちらの夕食が遅くなる。
「高槻」
玄関で靴を履いていると、御影が追いかけてきた。
「今日は助かったわ」
「どういたしまして」
「だから、やはり雇おうと思うの」
「感謝を台無しにするな」
「家事代行ではなく、家庭教師ならどう?」
「何を教えるんだ。学年首位に勉強を教えられるほど、俺は優秀じゃない」
「生活を教えて」
御影は真顔だった。
「週に一度、一時間。料理、洗濯、掃除、そのほか必要なことを一つずつ教えて。代わりに、あなたがその時間で本来得られたはずの収入を払う。これなら対等な契約でしょう」
先ほどまでの十五万円という金額より、ずっと現実的な提案だった。俺が仕事をしていると知ったうえで、その時間を奪うなら補償する。少なくとも、金ですべてを解決しようとしているだけではない。
「検討はする」
「いつまで?」
「来週まで」
「遅いわ。明日までにして」
「契約を急がせる人間は信用するなと教わらなかったか?」
「生活の授業、第一回目ね。記録しておくわ」
御影はスマートフォンへ何かを打ち込んだ。本当に記録したらしい。
「それから、もう一つ」
「まだあるのか」
「学校で私のことを話さないで」
声の調子は変わらなかった。それでも、彼女の指がスマートフォンの縁を強く握ったことには気づいた。
「目玉焼きの話か?」
「全部よ。この部屋のことも、一人で暮らしていることも」
「話す相手も、理由もない」
「そう」
「学校へ来ない理由も聞かない。安心しろ」
「安心しているわけではないわ」
御影はそう言ったが、玄関の扉を開ける動きは、俺が来たときよりもわずかに柔らかかった。
廊下へ出る直前、部屋の奥で炊飯器が音を鳴らした。
「高槻。何か鳴った」
「炊き上がったんだよ」
「まだ四十八分経っていないわ」
「急速炊飯になっていたんじゃないか」
「予定外ね」
「米が早く炊けたくらいで慌てるな」
「確認してから帰って」
「自分で蓋を開けろ」
「爆発しない?」
「しない」
「絶対?」
「その炊飯器に爆発する機能はない」
御影は炊飯器と俺を交互に見たあと、渋々部屋へ戻っていった。
俺は廊下でしばらく待った。
やがて室内から、蓋の開く音がする。何も爆発しなかったことを確認して歩き出すと、閉まりかけた扉の隙間から、小さな声が聞こえた。
「……本当に、お米になってる」
たったそれだけのことに驚ける人間を、俺は少しだけ羨ましいと思った。
翌朝。
いつものように三件の問題を片づけて教室へ入ると、三浦がこちらを見たまま固まっていた。
「どうした」
「お前、何か知ってる?」
「何の話だ」
三浦は答えず、俺の右隣を指差した。
新学期十日目にして初めて、その机に鞄が掛かっていた。
窓際の席で、御影玲奈が教科書を読んでいる。髪はきれいに整えられ、制服にも皺一つない。昨日、黒いジャージ姿で菜箸を武器にしていた人間とは思えなかった。
彼女は教科書から顔を上げると、俺をまっすぐ見た。
「おはよう、高槻」
教室中の視線が集まった。
俺は理解した。
この女は、社会へ適応するより先に、俺の学校生活を破壊するつもりらしい。




