第一話 善人は、だいたい損をする
朝の五時半に目覚ましが鳴るより先に目が覚めた。
枕元のスマートフォンを見ると、設定時刻の三分前だった。得をしたようにも思えるし、あと三分くらい眠らせてくれてもよかっただろうとも思う。もっとも、ここで目を閉じれば次に開くのは七時を過ぎた頃になる。それを経験則と呼べるほど寝坊を重ねた覚えはないが、人間には試さなくても分かることがある。
俺――高槻春人はベッドを抜け出し、カーテンを開けた。四月半ばの空はまだ薄暗く、向かいのマンションの窓にも明かりはほとんどない。父親が海外赴任してから半年、母親がこの家を出てから数えれば三年になる。高校二年生の一人暮らしは珍しいらしいが、炊事、洗濯、掃除の順番さえ崩さなければ、生活というものは案外どうにかなる。
米を炊いている間に洗濯機を回し、昨夜のうちに下味をつけておいた鶏肉を焼く。朝食と弁当を同時に作り、食べ終えた食器を洗ってから、昨日受注したウェブサイトの修正箇所を確認する。そこまで済ませても、家を出る時刻まで二十分ほど余った。
努力家という言葉は便利である。結果が出れば褒めてもらえ、出なければ努力不足と言われる。俺は天才ではなかったので、他人が八時間眠って届く場所まで、五時間眠って歩くしかなかった。
玄関の鏡で制服の襟を直す。百八十七センチの身長と、少し吊り上がった目つきのせいで、黙っていれば怖いと言われる。もっとも、実際に怖がられた経験はほとんどない。
理由は自分でもよく分かっていなかったが、その答えは家を出て三分で向こうからやってきた。
「あのう、すみません」
横断歩道の手前で、見知らぬ老婦人が俺を見上げていた。片手には買い物袋、もう一方の手にはスマートフォンを握っている。
「この病院に行きたいんですけど、地図が動かなくなってしまって」
渡された画面を確認する。地図が動かないのではなく、目的地がアメリカ大陸ほど遠くに縮小表示されていた。
「ここからなら、次の角を右です。途中まで同じ方向なので案内します」
「まあ、学校は大丈夫?」
「余裕を持って出ていますから」
余裕とは、予期せぬ問題に対応するための空白である。少なくとも俺はそう考えていた。ただ、その空白を毎日のように他人の問題が埋めていくことについては、そろそろ別の名前をつけた方がいいのかもしれない。
老婦人を病院まで送り、その先でチェーンの外れた自転車を押している中学生を見つけ、さらに駅前でお姉さんが手を滑らせ散乱したポケットティッシュを拾っていたら、校門を通過したのは始業八分前だった。
「今日も世界を救ってきたのか、高槻」
教室へ入るなり、前の席の三浦が振り返った。
「病院へ一人、自転車屋へ一人、ティッシュを二十七個だ。世界の規模が小さすぎる」
「登校するだけで三件に巻き込まれる高校生も十分おかしいけどな」
「巻き込まれたわけじゃない。困っていたから手伝っただけだ」
「それを巻き込まれたって言うんだよ」
鞄を机の横に掛け、席に着く。教科書を出そうとして、右隣の机が今日も空いていることに気づいた。
窓際の最後列。そこだけ時間割表も教科書もなく、椅子がきれいに収められている。新学期が始まって九日目になるが、その席の持ち主が登校したのは初日の一度きりだった。
「御影、今日も休みか」
三浦が声を潜めた。
「らしいな」
「初日に見たか? すごかったよな。あれはもう住んでる世界が違うわ」
御影玲奈。全国的にも知られている企業グループの創業家に生まれ、成績は昨年度の学年首位。入学直後に受けた体力測定でも、いくつかの種目で運動部員を上回ったという。初日に一度だけ見た横顔は整いすぎていて、同じ制服を着ていることの方が不自然に思えた。
そして彼女は、始業式の翌日から一度も学校へ来ていない。
「病気か?」
「さあ。金持ちだから、学校に来なくてもどうにかなるんじゃね?」
「金持ちは出席日数を買えるのか」
「買えそうじゃん、御影グループなら」
あまり興味のない話だった。事情も知らない人間について想像を巡らせたところで、たいていは失礼な結論にしかたどり着かない。
担任が入ってきたため、三浦は前へ向き直った。朝のホームルームが始まり、連絡事項が淡々と読み上げられる。最後に担任の梶先生が出席簿を閉じたところで、なぜか俺と目が合った。
嫌な予感がした。
「高槻。放課後、少しいいか」
教師に呼ばれるようなことをした覚えはない。だからこそ、これは俺自身の問題ではないのだと分かった。
そして俺自身の問題でないものは、なぜか俺のところへやってくる。
◇◆◇◆◇
「御影の家に、これを届けてほしい」
放課後の職員室で、梶先生は厚さ三センチほどの封筒を差し出した。
「断ります」
「まだ説明もしてないだろ」
「欠席者の家にプリントを届ける話ですよね。郵送してください」
「正論で教師を追い詰めるな。切手代だって無料じゃないんだぞ」
「俺の交通費も無料ではありません」
「徒歩十五分だ」
「俺の人件費は」
「クラスメイトを心配する善意」
「最も信用できない支払い方法ですね」
梶先生は困ったように眉尻を下げた。この人は三十代半ばの男性教師で、生徒に無理を押しつけるような性格ではない。だからこそ断りづらい顔をするのがうまかった。
「御影とは連絡がついている。体調不良でも、家庭の問題でもない。ただ、学校に来る気がないらしい」
「それなら、俺が行っても変わらないでしょう」
「登校させろとは言わん。課題だけ渡してくれればいい。事情を知っている生徒はいないし、あいつの家に使用人を向かわせると大ごとになるらしくてな」
「家に使用人を向かわせる?」
「今は一人で暮らしているそうだ」
御影グループの令嬢が、ごく普通の高校へ通いながら一人暮らしをしている。その時点で複雑な事情を感じたが、俺が踏み込んでいい理由にはならない。
「なぜ俺なんですか」
「席が隣だから」
「席替えを要求します」
「それとな、高槻なら余計な詮索をしないと思った」
それは少し卑怯な言い方だった。俺が断れば、次に選ばれる誰かは詮索するかもしれない。少なくとも梶先生は、そう考えている。
封筒を受け取ると、先生は分かりやすく息を吐いた。
「助かる。無理に部屋へ入る必要はないからな」
「入るつもりはありません」
「あと、もし変なことがあったら――」
「その言い方をされると、すでに変なことがあるように聞こえますが」
梶先生は答えず、書類へ視線を落とした。
嫌な予感は、朝よりもはっきりと輪郭を持っていた。
◇◆◇◆◇
教えられた住所にあったのは、駅から少し離れた住宅街のマンションだった。
御影という名字から、門番のいる屋敷か、最上階まで専用エレベーターで上がる高級マンションを想像していたが、目の前にあるのは築十年ほどの六階建てだ。管理は行き届いているものの、家賃は高校生が一人で暮らすには高く、大企業の令嬢が暮らすには安い。そんな中途半端な建物だった。
指定された四〇三号室の前でインターホンを押す。
反応はない。
もう一度押して三十秒待ったが、やはり返事はなかった。不在なら出直す必要がある。そう考えながらスマートフォンを取り出したとき、扉の向こうから鈍い音がした。
何かが倒れたような、それなりに重い音だった。
「御影?」
呼びかけても返事はない。その代わり、今度は小さく何かが割れる音がした。
「いるなら返事をしてくれ。高槻だ、高槻春人。同じクラスの」
内側で慌ただしい足音がして、しばらくしてから扉が数センチだけ開いた。隙間から現れた目が俺を見上げる。初日に見た、近寄りがたいほど整った顔に間違いなかった。ただし髪は片側だけ大きく跳ね、頬には白い粉のようなものがついている。
「……誰?」
「今、名乗った」
「聞いてなかったわ」
「では、なぜ開けた」
「宅配便かと思って」
「宅配業者が同じクラスを名乗ることはない」
扉が少しだけ広がる。御影は上下とも黒いジャージ姿で、右手に一本の菜箸を握っていた。防犯という観点では心細い武器だった。
「学校から課題を預かってきた。これを渡したら帰る」
「そこに置いておいて」
「分かった」
封筒を足元へ置こうとした瞬間、部屋の奥から電子音が鳴った。
御影の顔色が変わる。
「まずい」
「何が」
「分からない。でも、たぶんまずい音よ」
「火災報知器じゃないのか」
「それは何色?」
「色で判断するものではない」
直後、隙間から白い煙が流れてきた。
俺は反射的に扉へ手を掛けた。御影が止めるより先に押し開け、靴を脱いで室内へ入る。廊下の先にあるキッチンでは、フライパンから煙が上がっていた。火を止めて換気扇を回し、窓を開ける。フライパンの中には、黒い板のようなものが一枚横たわっていた。
「これは?」
「目玉焼き」
「どの段階で目玉を失ったんだ」
「レシピには焼くと書いてあったわ」
「炭になるまで焼けとは書いていないはずだ」
「弱火で十分、とも書いてあった」
「これは強火だ」
「火に強弱があるの?」
振り返ると、御影は本気で聞いていた。
学年首位。文武両道。国内有数の企業グループの令嬢。その輝かしい肩書きの中央に、日常生活という巨大な穴が開いている。
改めて室内を見ると、床には開封された段ボールが積まれ、洗濯物らしきものがソファを覆い、ローテーブルには未開封の公共料金の封筒が並んでいた。部屋自体は広く、家具も質のいいものばかりなのに、住んでいる人間が文明の使い方を理解していない。
「一人暮らしを始めて、どれくらいだ」
「二週間」
「食事はどうしていた」
「買っていたわ。でも昨日、コンビニの店員に『いつもありがとうございます』と言われたの」
「いい接客だな」
「敗北宣言でしょう。あなたは毎日ここへ食料を買いに来ています、と遠回しに指摘されたのよ」
「店員はそこまで考えていない」
「だから自炊することにしたわ」
「その結果が火災報知器か」
「機械まで大げさなのね」
「お前の料理に対して、最も適切な反応だと思う」
御影は不満そうに眉を寄せたが、言い返す材料が見つからなかったらしい。菜箸を握ったまま、黒い目玉焼きだったものへ視線を落とした。
「学校の課題は玄関に置いてある。俺は帰る」
「待ちなさい」
振り返ると、彼女はひどく真剣な顔で俺を見ていた。初日に教室で見たときと同じ、他人を寄せつけない整った顔立ちだったが、頬についた白い何か(卵の殻?)と寝癖が、その威厳をほとんど相殺している。
「あなた、料理ができるの?」
「人並みには」
「掃除は?」
「できる」
「洗濯」
「毎朝している」
「水道光熱費関連の手続きは?」
「高校二年生にする質問ではない」
御影は黙り込んだ。何かを考えるように目を伏せ、それから、会社の経営方針でも決定したかのような口調で告げた。
「高槻春人。あなたを雇うわ」
「断る」
「まだ条件も言っていないでしょう」
「今朝、似たようなやり取りをした。そして条件を聞いた結果、俺はここにいる」
嫌な予感というものは、当たるから嫌なのではない。
避けようとしても、最後にはなぜか玄関を開けてしまうから嫌なのだ。
窓から入った春の風が、テーブルに積まれた封筒を一枚だけ床へ落とした。御影はそれに気づかないまま、どうやって俺を雇うか考えている。俺は帰る方法を考えながら、まだ煙を上げているフライパンへ水を注いだ。
これが、御影玲奈との最初の会話だった。
後に彼女は、この出会いを「社会復帰への第一歩」と呼ぶことになる。
俺にとっては、平穏な高校生活が社会から弾き出された瞬間だった。




