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第十八話 その沈黙は冷たさを纏っている

 翌朝、教室へ入ると、御影はすでに席についていた。


 いつものように文庫本を開き、周囲の話し声など耳に入っていないような顔でページへ視線を落としている。


 御影を視界に捉えた俺は一瞬だけ足を止め、昨夜の出来事を思い出していた。


 ――これで契約は終了。


 御影が最後に口にした言葉は、一晩眠っても耳に残っていた。


 この時の俺は、御影に対して何か言うべきだったのだろうか。謝罪のひとつでもするべきだったのか。


 ただ、仮に謝るにしても、俺は何について謝るべきなのかを整理できていない。東条と似合うと言ったことか。御影の事情を勝手に分かったつもりになったことか。それとも、最後に腹を立てて言い返したことか。


 どれも間違っているようで、どれも核心から外れている気がした。


「おはよう」


 迷った末、普段と同じ挨拶をした。


 御影の指が、ページの端で止まる。


「おはよう」


 顔を上げないまま、短い返事だけが戻ってきた。


 無視はされなかった。


 だからといって、会話が続くわけでもない。


 俺は鞄を机の横へ掛け、自分の席についた。


 隣では、御影が何事もなかったように次のページをめくる。


 以前なら、洗濯はきちんとしたのか、部屋の片付けはすすんでいるのか、朝食を食べたのかなど確認していたかもしれない。


 けれど、それはもう必要ない。


 なぜなら俺たちの歪な契約は終わったのだから。料理も掃除も一人でできると、御影自身が言ったのだ。


 なら、俺が余計な口を出す理由はないじゃないか。


 そう考えて俺は前を向いた。


 視界の端で、御影が同じページをしばらく開いたままにしていた。


   ◇◆◇◆◇


 御影との契約が終わってから、五日が過ぎた。


 その間、俺たちはほとんど会話らしい会話をしていない。


 ただ口をきかないとかそういう訳ではない。当然これまで同様に朝の挨拶はするし、授業で必要があれば、教科書やプリントの受け渡しもする。


 けれど、それだけだった。


 以前のように御影が俺の言葉尻を捉えることもなければ、俺が御影の生活態度へ文句をつけることもない。


 顔を合わせてはいる。互いに避けているわけでもない。


 ただ、必要のない会話だけが綺麗に消えていた。


 その変化を、周囲が気にしていないはずもなかった。


「なあ、高槻」


 昼休み、三浦が俺の机へ肘をつき、声を潜めた。


「お前ら、喧嘩した?」


「誰と誰が」


「お前と御影さん」


「別に何もないけど」


「それ、何かあったやつの答えなんだよなあ」


 三浦はわざとらしく肩をすくめた。


「前まで、毎朝何かしら言い合ってたじゃん。最近、静かすぎて逆に怖いんだけど」


「静かなほうがいいだろ」


「程度によるって。冷戦中の国境みたいになってるぞ、その二席」


「授業の邪魔はしてない」


「そういう問題かな」


 俺の隣で文庫本を読んでいた御影が、ページをめくった。


 三浦はその音に肩を揺らし、気まずそうに声をさらに小さくする。


「……聞こえてたりする?」


「聞こえているわ」


 御影は本から目を上げなかった。


「ですよね。ごめんなさい」


「気にしていないから、続けて」


「いや、もう終わります」


 三浦は俺の肩を一度だけ叩き、そそくさと自分の席へ戻っていった。


 箸の音だけが響く昼休みは、以前より妙に長く感じられた。


   ◇◆◇◆◇


 社会適応研究会は、ひとまず廃部を免れた。


 もっとも、新しい部員が集まったわけではない。


 東条と篠崎が名前だけ部員として名簿へ加わり、学校側が求める人数を満たしただけだ。


 二人とも他に用事があるため、普段の活動へ顔を出すことはほとんどない。東条は入部届を渡した際、「困ったときは協力するよ」と爽やかに笑っていたが、その厚意に頼る機会がないことを俺は願っている。


 篠崎に至っては、名簿へ名前を書いた翌日に一度だけ部室へ来て、


「幽霊部員にも出席義務ってある?」


 と確認し、ないと分かると満足して帰っていった。


 そのため、放課後の部室にいる顔ぶれは何も変わっていない。


 御影は窓際の席で本を読み、小鳥遊は部屋の隅でノートパソコンを開く。そして俺は長机で宿題を片づけている。


 三人とも、毎日欠かさず出席していた。


 ただし、以前と同じなのはそれだけだ。


 問題を解き終え、次のページを開こうとしたときだった。


「高槻」


 不意に名前を呼ばれ、顔を上げる。


 御影は本を開いたまま、俺の机の下へ視線を向けていた。


「消しゴム、落ちたわよ」


 足元を見ると、机の脚のそばに白い消しゴムが転がっている。


 俺は椅子を引き、それを拾った。


「……ありがとう」


「ええ」


 それで会話は終わった。


 御影は本へ戻り、俺も解きかけの問題へ目を落とす。


 向かい側に座っていた小鳥遊が、ノートパソコンの陰から俺たちを交互に見ていた。


 しばらくして、スマートフォンが震える。


『会話しましたね』


 小鳥遊からだった。


『消しゴムの場所を教えてもらっただけだ』


『それでも会話です』


『だから何だ』


 すぐに、満足そうな顔の絵文字が一つ送られてきた。


「言いたいことがあるなら、普通に言え」


 小鳥遊はキーボードを叩き、ノートパソコンの画面をこちらへ向けた。


『この調子です』


「何の調子だよ」


「小鳥遊さん」


 御影の静かな声が割って入った。


 小鳥遊が振り返る。


「気を遣わなくていいわ。私たちは問題なく意思疎通できているから」


 それを聞いた小鳥遊は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で目を丸くした。


『ばれてました』


「そりゃ、バレるだろ」


 呆れて返すと、御影も小さくため息をついた。


「必要な情報は伝わったでしょう」


 小鳥遊は御影を見つめ、それから俺を見る。


『似た者同士です』


「それは心外だ」


「同感ね」


 俺と御影の声が重なった。


 一瞬だけ、部室が静まり返る。


 以前なら、ここからどちらかが余計な一言を足していただろう。


 だが、御影は何も言わずに本へ視線を戻した。


 小鳥遊は二人の間に残った沈黙を眺めたあと、ノートパソコンを自分のほうへ戻す。


 小さな打鍵音が、再び部室に響き始めた。


   ◇◆◇◆◇


 その日の活動も、結局何をするでもなく終わった。


 下校時刻を知らせる放送が流れると、御影は文庫本へ栞を挟み、鞄を手に取った。


「お先に失礼するわ」


「お疲れさまです」


 小鳥遊がスマートフォンの音声読み上げで答える。


 俺も少し遅れて口を開いた。


「お疲れ」


 御影の視線が、一瞬だけこちらへ向いた。


「ええ。お疲れさま」


 それだけ言って、御影は部室を出ていった。


 扉が閉まる。


 廊下を遠ざかっていく足音が聞こえなくなったところで、小鳥遊がノートパソコンを閉じた。


『今日は送ってみたらどうですか』


「御影を?」


『はい』


「なぜだ。それにまだ外は明るいぞ。特に送る理由もないはずだ」


『だからです』


「どういう意味だ」


『今日は明るいので、私は一人でも帰れます』


「お前を一人で帰すのも心配なんだが」


 小鳥遊は背筋を伸ばし、胸を張った。


『駅までなら問題ありません』


「この前、歩きながらスマートフォンを見て電柱にぶつかりかけただろ」


『今日は見ません』


「改札を通り過ぎたこともあったな」


『今日は通り過ぎません』


「説得力がない」


 小鳥遊はむっとした顔で、素早く文字を打ち込んだ。


『一人で帰る練習も社会適応に向けての活動です』


「便利に使うな、その言葉」


『明るいうちに練習します。今なら御影さんにも追いつけます』


 最後の一文だけが、妙に大きな文字で表示されていた。


 反論しようとしたが、小鳥遊はすでにノートパソコンを鞄へしまい始めている。


 俺も教科書とノートを片づけ、部室の戸締まりを確認した。


   ◇◆◇◆◇


 結局、御影を追いかけることはできなかった。


 小鳥遊は宣言どおり、一人で駅へ向かった。何度も振り返って無言の圧をかけてきたが、俺が動かないと分かると、最後には呆れたように肩を落としていた。


 俺も学校を出て、家へ向かう。


 時刻はまだ七時前だった。


 夕食は冷蔵庫に残っている材料で適当に作ればいい。以前なら、御影がまともな夕食を取っているか考えていた時間だ。


 だが今は、考える必要がない。


 本人が一人でできると言ったのだから、任せればいい。


 そう結論づけた直後、頭の中に別の疑問が浮かぶ。


 御影は今夜、何を食べるのだろう。


「……もう関係ないだろ」


 誰に言うでもなく呟く。


 自宅へ続く道へ曲がったところで、前方の街灯の下に人影が見えた。


 それは見た事のない女性だった。


 二十代前半くらいだろうか。


 肩より少し長い艶のある黒髪に、細身のベージュのコート。派手な格好ではないのに、道を歩く人の視線を自然と集めるほど整った顔立ちをしている。


 こんな住宅街には不釣り合いな雰囲気だった。


 誰かを待っているらしく、街灯の柱のそばに立ったまま動かない。ちょうど彼女の前を通り過ぎた会社員らしき男が、数歩進んでからもう一度振り返っていた。


 俺が近づくと、女はスマートフォンから顔を上げた。


 視線が合う。


 俺は会釈だけして、その横を通り過ぎようとした。


「高槻春人さん」


 背後から、知らない声に呼び止められた。


 足を止め、振り返る。


 女性は俺をまっすぐ見ていた。


「すみません、少しお時間をいただけますか」


 そう言って、彼女は俺に向かってにこりと微笑んだ。

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