第十七話 三人の夕食会と帰り道
部活をそこそこに切り上げた俺たちは、駅前のスーパーへ寄ってから家へ向かった。
カレーの材料はだいたい揃っていたのだが、人数が増えた以上、少し余裕を持たせておいたほうがいい。肉と玉ねぎ、それから小鳥遊が無言でかごへ入れたプリンを三つ買い足した。
「なぜ三つなんだ」
会計を終えて店を出たところで尋ねると、小鳥遊はスマートフォンの画面をこちらへ向けた。
『人数分です』
「それは見れば分かる。俺は別にいらないぞ」
『高槻さんだけ食べていないと、こちらが落ち着きません』
「妙な気の遣い方をするな」
『必要経費です』
「堂々と経費扱いされてるな、プリン」
小鳥遊は満足そうにスマートフォンをしまった。
隣を歩く御影が、買い物袋へ視線を落とす。
「それ、私が持つわ」
「いい。大して重くないから」
「知っているわ。それでも私が持つと言っているの」
「そうか」
少し悩んで袋を差し出すと、御影は不満そうに眉を寄せた。
「何か言いたいことがありそうね」
「卵が入ってる。落とすなよ」
「私を何だと思っているの」
「目玉焼きを黒い塊へ変換できる錬金術師」
「いつまでその話をするつもり?」
「忘れた頃に同じ失敗をされるよりはいい」
「なら、手を離しても?」
「やめろ。それは俺が買った卵だ」
御影は答えなかったが、袋はきちんと両腕で抱え直した。
その様子を見ていた小鳥遊が、俺たちの少し後ろでスマートフォンを操作する。
『仲がいいですね』
「どこを見たらそうなる」
ため息まじりにそう回答する。
小鳥遊は画面を引っ込め、そのまま何も見なかったことにした。
◇◆◇◆◇
「それじゃ、二人は適当にくつろいでいてくれ。なるべく早く作る」
家へ着くなりそう告げると、御影が買い物袋をキッチンまで運んできた。
「私も手伝うわ」
「本気か?」
「その反応は何?」
「確認しただけだ。火災保険の適用範囲を調べる必要があるからな」
「カレーで家は燃えないわ。いつまでも以前と同じだと思わないで」
そこまで言うなら、追い返す理由もない。
俺は予備のエプロンを取り出し、御影へ渡した。
「じゃあ、玉ねぎと人参を頼む。皮をむいて、これくらいの大きさに切ってくれ」
見本として人参を一切れ切ってみせる。
御影はそれを手に取り、表と裏を確かめるように眺めた。
「ずいぶん曖昧な指示ね」
「いつも言っていることだが、カレーの具材にミリ単位の精度は求めてない」
「基準があったほうが作業はしやすいわ」
「二センチ前後。多少不揃いでも問題なし。これでいいか?」
「ええ」
御影は長い髪が前へ落ちないよう背中へ払い、包丁を握った。
俺は隣でじゃがいもの皮をむきながら、横目で手元を確認する。
包丁の持ち方は危なっかしくない。人参を押さえる左手も、以前教えたとおり指先を内側へ曲げている。速度こそ遅いが、一切れずつ慎重に切り進めていた。
少なくとも、食材をまな板の上で破壊しているようには見えない。
「玉ねぎは先に縦半分にすると切りやすいぞ」
「分かっているわ」
「そうか」
「意外そうね」
「してない」
「したわ」
「お前は切ってる最中に隣の顔まで見てるのか。手元に集中しろ」
「見なくても分かるわ。声に出ていたもの」
「一言しか喋ってないだろ」
「十分よ」
「考えすぎだ」
そう返しながら、俺は口元が緩みそうになるのをこらえた。
初めて御影の家へ行った日を思い出す。
冷蔵庫の中は飲料と高級そうな菓子ばかりで、調理器具はろくに使われた形跡がなかった。卵一つ満足に焼けず、それでも本人は、自分でやる必要がなかっただけだと言い張っていた。
その御影が今、俺の隣で普通に野菜を切っている。
傍から見れば、たいした出来事ではないだろう。
けれど俺には、この光景が妙に嬉しかった。
御影を手伝い始めてから、自分のやっていることが本当にこいつのためになっているのか、分からなくなることもあったが、少なくとも全部が無駄だったわけではないらしい。
「何かしら」
御影が包丁を止めた。
「何がだ」
「さっきから、こちらを見すぎよ」
「包丁の使い方を確認してた」
「信用がないのね」
御影の眉がわずかに動く。
また余計なことを言ったかと思ったが、俺は切り終えた人参を見て言葉を続けた。
「上手くなったな」
「……何が?」
「料理。少なくとも、もう見ていて不安になる手つきじゃない」
御影はしばらく黙っていた。
聞こえなかったのかと思って顔を見ると、彼女は俺から目を逸らし、切りかけの玉ねぎへ包丁を入れる。
「当然でしょう。あなたにいつまでも失敗を笑われるのは不愉快だもの」
「別に笑ってはいない」
「では、哀れんでいたのかしら」
「どうして何が何でも悪く受け取ろうとするんだ」
「褒めるなら、余計な一言をつけないことね」
「事実を踏まえた成長への評価だ」
「教師のつもり?」
「面倒な生徒を持った覚えならある」
「私は口うるさい家政夫を雇った覚えならあるわ」
「誰が家政夫だ」
「では、口うるさい家庭教師兼家政夫」
「悪化してるじゃないか」
御影の口元が、ほんの少しだけ上がった。
俺も肩をすくめ、炒める準備へ戻る。
リビングでは、小鳥遊がソファに座ってノートパソコンを開いていた。
キーボードへ手を置いてはいるが、さっきから打鍵音がほとんどしない。画面を見ているようで、ときおりこちらへ視線を向けている。
「小鳥遊。暇なら皿を出してくれ」
声をかけると、小鳥遊は肩を跳ねさせた。
やがてノートパソコンを閉じ、こちらへやってくる。
『邪魔をしてもいいのですか』
「皿を出すだけで何の邪魔になるんだ」
スマートフォンの文字を読んで答えると、小鳥遊は一度、御影を見た。
御影も意味が分からないらしく、小さく首を傾げている。
小鳥遊は食器棚から三人分の皿を取り出すと、音を立てないよう丁寧にテーブルへ並べた。
それから、今度は俺のすぐ近くまで来て画面を見せる。
『御影さんは、ちゃんと笑うんですね』
「そりゃ笑うだろ。人間なんだから」
『そういう意味ではありません』
「どういう意味だよ」
小鳥遊は返事を打とうとして、やめた。
代わりに、何でもないというように首を横へ振る。
「二人とも、話していないで手を動かしたらどうかしら」
御影の声が飛んできた。
「手伝ってる側が偉そうだな」
「その手伝いがなければ、まだ野菜を切っていたでしょうね」
「切るのが遅い本人が言うな」
鍋へ具材を入れると、油の弾ける音がキッチンに広がった。
◇◆◇◆◇
「美味しいわ」
一口食べた御影が、率直に感想を口にした。
「それはよかった」
「けれど、ずいぶん甘いのね」
「小鳥遊に合わせてるからな」
名前を呼ばれた小鳥遊は、スプーンを持ったままこちらを見た。
すでに皿の三分の一ほどが消えている。
「辛いのが苦手なんだ」
御影は納得したように頷いた。
「高槻は平気なの?」
「何でも食える。自分の分だけ辛くしたいときは、あとから香辛料を足せばいい」
「そういうものなのね」
「無理して全員同じものを食う必要はないだろ」
御影はもう一口カレーを食べた。
「でも、これはこれで悪くないわ」
「お前が切った野菜も入ってるからな」
「味にはほとんど影響していないでしょう」
「人参が大きいところは分かりやすいぞ」
「直後に欠点を足す必要はないでしょう」
「事実だ」
「それは免罪符ではないわ」
御影がじろりと睨んでくる。
向かいでは、小鳥遊が黙々とカレーを食べながら、目だけを俺たちの間で行き来させていた。
「何だ、小鳥遊」
尋ねると、小鳥遊は慌てて視線を皿へ落とした。
それから片手でスマートフォンを操作する。
『いつもどおりで安心しました』
「何がだ?」
『何でもありません』
「今日のお前、そればっかりだな」
食後は、小鳥遊が買ったプリンを食べた。
小鳥遊は自分の分を早々に平らげたあと、俺のプリンをじっと見ていた。仕方なく半分やると、御影が呆れたように言った。
「甘やかしすぎではなくて?」
「欲しそうに見てるから仕方ないだろ」
『私は要求していません』
「目で要求してた」
『高槻さんが自主的に譲渡しました』
「そういうことにしておいてやる」
御影は何か言いかけたが、小鳥遊が大事そうにプリンを食べる姿を見て、結局口を閉じた。
それから三人でしばらく、取り留めのない時間を過ごした。
小鳥遊はソファの端でノートパソコンを開き、俺はテーブルで残った宿題を片づける。御影は部室から持ってきた文庫本を読んでいた。
会話はほとんどない。
けれど部室にいたときのような妙な張りつめ方はなく、ページをめくる音も、キーを叩く音も、不思議と家の静けさに馴染んでいた。
時計の針が九時に近づいたところで、御影が本を閉じた。
「そろそろ帰るわ」
「もうそんな時間か」
窓の外はすっかり暗くなっている。
御影の家までは歩けない距離ではないが、女子を一人で帰らせる時間でもない。
「送っていく」
「必要ないわ。一人で帰れる」
「帰れるかどうかの話じゃない。何かあってからじゃ遅いだろ」
「心配性ね」
「用心深いと言え」
俺が立ち上がると、御影はそれ以上断らなかった。
小鳥遊は泊まっていく予定だったため、留守番を頼む。俺たちが玄関へ向かうと、彼女はソファから小さく手を振った。
◇◆◇◆◇
夜道は、昼間より少しだけ冷えていた。
住宅街には人影がほとんどなく、街灯の白い光が一定の間隔で歩道を照らしている。
俺と御影は、並んで歩いていた。
「今日はごちそうさま」
しばらくして、御影が言った。
「大したものじゃない」
「あなたはいつもそう言うわね」
「実際、市販のルーを使った普通のカレーだぞ」
「……料理だけの話ではないけれど」
「じゃあ、何の話だ?」
「……分からないならいいわ」
御影は前を向いたまま、歩調を少し速めた。
よく分からない。
隣へ追いつくと、御影が横目でこちらを見る。
「小鳥遊さんはいつまで面倒を見るの?」
「それが、まだいつまでかは決まっていないんだ」
「そう」
「それに今のままのあいつをこの状態で戻すことは不安でしかない」
「ずいぶん気にかけているのね」
「放っておくと飯も食わずにパソコンへ向かってるからだ。御影とは別の意味で手がかかる」
「私と一緒にしないで」
「方向性が違うだけで大差ない」
「訂正して」
御影は不満そうに俺を睨んだ。
けれど本気で怒っているわけではないらしい。そのまましばらく歩くと、彼女の歩調は再び俺と揃った。
狭い歩道で車が一台、後ろから近づいてくる。
俺は御影の肩へ手を添え、道路と反対側へ寄せた。
車が通り過ぎてから手を離す。
「悪い」
「……別に、謝ることではないでしょう」
御影は髪を耳へかけた。
街灯の下で見る横顔は、普段よりわずかに硬い。寒かったのか、耳が少し赤く見えた。
「寒いか?」
「いいえ」
「ならいいけど」
御影は何か言いたそうに俺を見たあと、静かに息を吐いた。
「高槻」
「ん?」
「あなたは、誰にでもこうなの?」
「こうって?」
「家へ招いて、食事を作って、帰りは送る。誰にでもそうするのかと聞いているの」
「困ってるなら、できる範囲ではな」
「……そう」
短い返事だった。
なぜか御影の声が少しだけ低くなった気がしたが、理由は分からない。
会話が途切れる。
このまま黙って歩くのも気まずく、俺は昼間のことを思い出した。
「そういえば、東条とはどうなんだ?」
御影の足が止まった。
「何が?」
「いや、朝は完全に無視してただろ。昔からの知り合いなんだよな」
「それがどうかしたのかしら」
「東条はいいやつだぞ。多少お坊ちゃんっぽいところはあるけど、話も通じるし、変に偉ぶったりもしない」
「共通の趣味を見つけたから?」
「それだけじゃない。お前のことも気にかけてるみたいだったし」
御影の表情が消えた。
気づかず、俺は続ける。
「家同士も付き合いがあるんだろ。お前ら、結構お似合いなんじゃないか」
御影の黒い瞳が、まっすぐ俺を捉えた。
「……本気?」
「何がだよ」
「私と東条君がお似合い、という話」
「別に変な意味じゃない。家柄も釣り合うし、昔からお互いを知ってる。東条ならお前の事情だって理解して――」
「分かったように言わないで」
冷たい声に遮られた。
さっきまでの穏やかな空気が、一瞬で消える。
「何を怒ってるんだ。俺は東条が悪いやつじゃないって言ってるだけだろ」
「だから? 悪人でなければ、私と彼は似合うの?」
「そこまでは言ってない」
「同じよ。家柄が釣り合う。昔から知っている。事情を理解できる。母たちが並べる言葉と、何も変わらない」
「俺はお前の家の人間じゃない」
「ええ。そうね」
御影は薄く笑った。
けれど、その笑みには温度がなかった。
「あなたは違うと思っていたわ」
その言い方に、胸の奥が引っかかった。
まるで俺が、御影を理解するふりをして裏切ったとでも言いたげだった。
「勝手に期待して、勝手に失望するなよ」
思ったより強い声が出た。
御影の目がわずかに見開かれる。
「俺は、お前が東条を避ける理由なんて聞いてない。何も説明しないまま、こっちが全部分かって当然みたいに怒られても困る」
「なら、聞けばよかったでしょう」
「聞いてほしいなら、そう言えよ。お前はいつもそうだ。何も言わないくせに、他人が自分の望む答えを出さないと不機嫌になる」
「あなたにだけは言われたくない」
「どういう意味だ」
「自分のことは何も話さず、他人の世話ばかり焼いている。何も言わないのは、あなたも同じでしょう」
「今は俺の話じゃないだろ」
「そう。私の話だったわね」
御影の声は、再び落ち着いていた。
それがかえって、嫌な感じだった。
御影は俺から目を逸らし、道路脇の暗がりへ視線を落とす。
「高槻。今日、私を褒めたわね」
「……料理のことか?」
「上手くなった、と」
「言ったな。それがどうした」
「あれは、あなたの指導の成果でもあるのでしょう?」
「別に、そんなつもりで言ったわけじゃ――」
「成果は出たわ」
御影は淡々と言葉を重ねる。
「料理も、掃除も、以前よりはできる。一人で生活を続けられる程度には。あなたの仕事は、もう十分に果たされたわ」
ようやく、御影が何を言おうとしているのか分かった。
「待てよ」
「今までありがとう」
御影は顔を上げた。
黒い瞳はまっすぐこちらを見ていたが、その奥にあるものは読み取れない。
「報酬は、今日までの分をきちんと口座へ振り込んでおくわ」
「何の話をしてるんだ。今それは関係ないだろ」
「関係あるわ。最初から、そういう契約でしょう」
「御影」
「これで契約は終了」
言い切ると、御影は俺に背を向けた。
「送らなくていい。ここからは一人で帰れるわ」
「おい、待てって」
呼び止めても、御影は振り返らなかった。
一定の速さで遠ざかっていく背中を、俺はその場に立ったまま見送る。
追いかけるべきだと思った。
夜道を一人で帰すべきではないとも思った。
けれど今追いかけたところで、何を言えばいいのか分からなかった。
街灯の光を一つ越え、御影の背中が夜の住宅街へ小さくなっていく。
ついさっきまで、俺の隣で歩いていたはずなのに。
その距離は、妙に遠く見えた。




