第十九話 月桂の樹
「少し、お時間をいただけますか」
そう言って、女は俺に向かってにこりと微笑んだ。
不意打ちだった。
ただでさえ目立つほど綺麗な人なのに、真正面から笑いかけられると、どう反応するのが正解なのか分からない。
思わず目を逸らしかけ、どうにか踏みとどまる。
知らない相手にフルネームで呼び止められれば、普通は警戒する。
ましてや相手は、明らかに俺を待っていた。
「えっと……すみません。その前に、どちら様ですか」
「ごもっともです」
女は笑みを崩さないまま、コートのポケットから名刺入れを取り出した。
差し出された白いカードを受け取る。
中央に印字されていた名前は、榊原香澄。
会社名も役職もなく、名前と携帯電話の番号だけが記されている。
「申し遅れました。私は榊原と申します。もっとも、名前だけでは何の説明にもなりませんね」
「はい」
「御影玲奈さんのことで、お話があります」
御影の名前が出た瞬間、名刺へ落としていた視線を上げた。
「御影の?」
予想していなかった名前に、声が少し裏返った。
「はい。ここでは何ですから、場所を変えませんか。もちろん、あまり遅くならないようにします」
「あの、御影とはどういう関係なんですか」
「それも含めてご説明します」
榊原さんは少し考えるように視線を上へ向けたあと、商店街の方角を指した。
「近くに、落ち着いて話せるお店があります。そこでいかがでしょう」
怪しいことに変わりはない。
知らない年上の女性についていくという状況だけ切り取れば、かなり怪しい。三浦に見られたら、翌日には教室中へ話が広まりそうだ。
ただ、御影の名前を出されて、このまま帰る気にもなれなかった。
「分かりました」
「ありがとうございます。では、こちらへ」
榊原さんは軽く頭を下げ、俺の返事を疑っていなかったように歩き出した。
◇◆◇◆◇
商店街は帰宅途中の買い物客で賑わっていた。
惣菜屋から漂う揚げ物の匂いと、店先で流れる安っぽい音楽。自転車のベルや客を呼び込む声が入り交じり、通りは昼間とは別の活気に満ちている。
その中を進んでいた榊原さんが、途中で細い裏路地へ入った。
表通りの騒がしさが、建物を一つ隔てただけで急に遠くなる。
古い煉瓦敷きの道を少し歩いた先に、蔦の絡まる二階建ての店があった。
木製の看板には、金色の文字が刻まれている。
――月桂の樹。
「ここです」
「商店街にこんな店があったんですね」
「表からは分かりにくいですから。ここは私が個人的に気に入っているお店なんです」
榊原さんが重そうな木の扉を開ける。
澄んだベルの音が鳴った。
店内へ足を踏み入れた瞬間、想像していたよりも広い空間が目に入った。
濃い色の木材で統一された床と壁。天井からは古い洋館にありそうなシャンデリアが下がり、暖色の灯りが店内を柔らかく照らしている。
座席は整然と並んでおらず、二人掛けや四人掛けのテーブルが、十分すぎるほど間隔を空けて配置されていた。
その間を埋めるように、小さな噴水や白い石膏像、背の高い観葉植物が置かれている。
中央にある円形の噴水から、絶えず細い水音が聞こえていた。
内装だけを見れば美術館かホテルのロビーに近い。だが、珈琲の香りと控えめに流れるピアノ曲のおかげか、堅苦しさはなかった。
とはいえ、制服姿の高校生が一人で入るには、かなり勇気がいる店だ。
「二名です」
榊原さんが店員へ告げる。
案内されたのは、店の奥にある半円形のソファ席だった。
隣の席との間には女性像と背の高い植物が置かれ、多少声を落とせば会話を聞かれる心配はなさそうだ。
メニューを開き、値段を見て一瞬手が止まった。
コーヒー一杯に、普段の昼飯と同じくらいかかる。雰囲気代というものは、どうやら安くないらしい。
迷った末に一番安いブレンドコーヒーを頼むと、榊原さんは慣れた様子で紅茶を注文した。
「あ、ここの代金は自分で払いますから」
「本当ですか?」
「はい。呼び出されたからって、出してもらうのは悪いですし」
「では、お言葉に甘えようかしら」
「……え?」
「ごちそうさまです、高槻さん」
にこやかに頭を下げられ、思考が一瞬止まった。
ここの代金は自分で払う。
確かにそう言った。
俺としては、自分が頼んだコーヒーの代金を自分で払う、という意味だった。だが主語を省いて聞けば、この席の会計をすべて俺が持つようにも取れる。
自分の言い方が悪かった。
とはいえ、女性を相手に「あなたの分は払いません」と言い直すのも、妙に失礼な気がする。
どう訂正すれば角が立たないのか分からず、視線がメニューと榊原さんの間を行き来した。
「あの、すみません。今のは――」
「私の分まで払うという意味ではなかった?」
先回りされ、言葉に詰まる。
「……はい。俺が頼んだ分は、という意味です」
「そうですか。少し残念です」
榊原さんは寂しそうに眉を下げた。
本当にがっかりさせたのかと思い、胸のあたりが落ち着かなくなる。
「いや、どうしてもってことなら払えますけど」
思わずそう付け加えた瞬間、榊原さんが堪えきれないように口元を押さえた。
「ふふっ。冗談です」
「……冗談?」
「年上の私が、高校生に払わせるわけにはいきません。今日は私がお誘いしたのですから、ここは任せてください」
榊原さんはメニューを閉じ、こちらへ身を乗り出す。
「でも、本当に払ってくださりそうでしたね」
少しだけ声を落として微笑まれ、胸が不意に跳ねた。
からかわれている。
それは分かるのに、相手が綺麗な年上の女性だと、どうしても平静ではいられない。
「あまり高校生をからかわないでください」
「ごめんなさい。思っていたより、かわいらしい反応をしてくださったので」
「かわいらしいって……俺、身長百八十七ありますけど」
「身長と反応は関係ありませんよ」
榊原さんは目を瞬かせ、それから楽しそうに笑った。
「それに、想像していたとおりの方でした」
「想像って、俺のことを知ってたんですか」
「少しだけ」
「どこまで知ってるんですか?」
「それは業務上の守秘事項です」
「俺についての情報なのに?」
「守るべき秘密に、持ち主の区別はありません」
榊原さんは人差し指を唇の前へ立てた。
いちいち仕草が様になる人だ。
「秘密って言われると、余計に気になるんですけど」
「では、私が高槻さんに抱いていた印象だけ」
「どんな印象ですか?」
「大きくて、目つきが悪くて、口うるさい方」
「……散々じゃないですか」
予想はしていたが、実際に他人の口から聞くと地味に傷つく。
「それから、困っている人を放っておけない方」
返事に詰まった。
前半との落差が大きすぎる。
「それは……たぶん、御影が大げさに言ってます」
「誰が情報源とは言っていませんよ?」
「あ」
「高槻さんは、案外分かりやすい方ですね」
榊原さんは、悪戯が成功した子供のように目を細めた。
完全に遊ばれている。
榊原さんは向かい側から、俺の反応を静かに観察している。
にこやかな態度ではあるが、ただ人当たりがいいだけではないらしい。
ほどなくして、コーヒーと紅茶が運ばれてきた。
店員が離れるのを待ち、俺は改めて尋ねる。
「それで、榊原さんは御影とどういう関係なんですか」
榊原さんはティーポットからカップへ紅茶を注いだ。
湯気の向こうで、表情からわずかに笑みが薄れる。
「私は長く、玲奈さんのお世話をしてきました」
「世話?」
「身の回りのお手伝いです。食事や着替えの用意、学校への送迎、予定の管理。幼い頃は、勉強を見たり遊び相手になったりもしました」
「家政婦……というか、そういう感じですか?」
「御影家での立場としては、使用人になります。ただ、私はもう少し個人的なつもりでいます」
榊原さんは紅茶へ口をつける。
「私が玲奈さんのお世話を始めたのは、彼女が小学生の頃です。年齢はそれほど離れていませんが、一緒に過ごした時間だけなら、ご家族より長い時期もありました」
「今も御影の家で働いてるんですか」
「形式上は。ですが、現在の玲奈さんは一人暮らしを望んでいます。私が同居すれば、家を出た意味がなくなってしまいますから」
「じゃあ、普段はどこに?」
「玲奈さんの一つ下の階です」
思わずカップを置いた。
「えっ、同じマンションですか?」
「はい」
「いや、それって一人暮らしなんですか?」
「そう言われると思っていました」
榊原さんは、どこか懐かしそうに目を細めた。
「ですから、求められない限り部屋へは入りません。顔を合わせることも、なるべく避けています。何かあったとき、すぐ動ける場所にいるだけです」
「御影は知ってるんですか」
「いいえ。伝えていません」
「それ、完全に監視じゃないですか」
「そうとも言いますね」
「いや、そんなにあっさり認めないでくださいよ。バレたら御影、絶対に怒りますよ」
「おそらく、もう気づいていると思います」
「気づいてるんですか?」
「玲奈さんは聡い方ですから。私が近くにいる可能性くらい、最初から考えているでしょう」
「じゃあ、隠してる意味がないんじゃ」
「気づいていることと、私が認めることは別です」
榊原さんは、どこか楽しそうに微笑んだ。
「お互いに口にしなければ、玲奈さんは一人暮らしを続けられる。私は万が一に備えられる。今のところは、それで上手くいっています」
悪びれた様子はない。
かなり強引な理屈に聞こえるが、御影も気づきながら黙認しているのなら、二人の間では成立しているのかもしれない。
「俺のことを知っていたのも、同じマンションにいるからですか」
「何度かお見かけしています。玲奈さんの部屋へ食材を運んでいた背の高い男の子は、よく目立ちました」
「それだけで名前まで?」
「業務上の守秘事項です」
短い答えだった。
「またそれですか」
「便利な言葉でしょう?」
「便利すぎて怖いんですけど」
「ご安心ください。必要のないことまで調べる趣味はありません」
必要のある範囲なら調べる、という意味にも聞こえる。
笑顔で言われると、どこまで冗談なのか分からなかった。
榊原さんはカップをソーサーへ戻した。
磁器同士が触れる、小さな音がした。
「ただ、高槻さんのことはよく覚えています。玲奈さんが見せる反応が、普段とは少し違いましたから」
「どんな反応ですか」
「それは内緒です」
「また秘密ですか」
「ええ。本人のいないところで、何もかも明かすわけにはいきませんから」
榊原さんは含みのある笑みを浮かべる。
「ただ、玲奈さんが誰かのことで感情を動かすのは、とても珍しいことなんです」
「それ、普段から他人に興味がないだけでは?」
「そうとも言います」
榊原さんがくすりと笑う。
「でも、玲奈さんは変わりました」
その言葉になんとなくドキリとした俺は、逃げるようにコーヒーカップへ手を伸ばしたが、まだ熱く、慌てて口から離した。
噴水の水音が、会話の切れ目を埋める。
「以前は、自分で何かをする前に、必要がないと言って切り捨てていました。できないことを認めるくらいなら、最初から価値がないことにしていたんです」
御影なら言いそうだった。
料理ができないのではなく、自分でやる必要がなかっただけ。
俺が初めて御影の家へ行った日にも、似たようなことを言っていた。
「ですが最近は、失敗してもやり直すようになりました。時間がかかっても、自分でできる方法を考えるようになった。高槻さんの影響だと思っています」
「俺は、本当にやり方を教えただけです。あいつが自分で覚えたんですよ」
「誰に教わるかは、案外大切なことです」
榊原さんはそう言って、柔らかく微笑んだ。
褒められて悪い気はしない。
けれど、胸を張って自分の手柄だと言えるほど大人でも厚かましくもなかった。
俺が教えた結果、御影は一人でも生活できるようになった。
だから契約は終わった。
そこまで考え、コーヒーを一口飲む。少し冷めていたが、苦味は強く残っていた。
「それで……どうして俺に声をかけたんですか?」
「お礼を言うだけなら、わざわざ待ち伏せまではしません」
「やっぱり待ってたんですね」
少しくらい偶然であってほしかった。
「偶然を装う必要もないでしょう」
榊原さんはティーカップの縁へ指を添えた。
「高槻さん。玲奈さんと何かありましたか」
真正面から尋ねられ、言葉に詰まる。
反射的に否定しそうになったが、あまりに分かりやすい嘘になる。
「どうしてそう思うんです」
「玲奈さんを見ていればわかります。それに高槻さんを見ていても、何かあったことは一目瞭然です」
高槻は少し考え込んだが、その言葉に対して上手い返しが思いつかなかった。
「それは……契約が終わったので」
「契約?」
「家事や勉強を手伝う代わりに、報酬をもらってたんです。それを御影のほうから終わりにすると」
「なるほど」
榊原さんは、それ以上すぐには聞かなかった。
俺の顔を見て、何かを考えている。
「おそらくですが、喧嘩をしました」
沈黙に耐えきれず、自分から口にしていた。
年上の女性に同級生との喧嘩を説明するというのは、思っていた以上に恥ずかしい。
「俺が、御影と東条は似合ってるんじゃないかと言ったんです。それで怒らせた」
「東条家のご子息ですか」
「知ってるんですね」
「当然です。昔から両家には交流がありますから」
榊原さんは眉を下げ、困ったように笑った。
「それは、玲奈さんも怒りますね」
「でも、東条は本当に悪いやつじゃないんです」
「存じています。真面目で、よくできた方です」
「だったら、どうしてそんなに怒るんですか」
「相手が立派な方であることと、その方を勧められて嬉しいかどうかは別の話です」
「勧めたつもりはなかったんです。ただ、似合ってるんじゃないかって……」
「本人がそう受け取らなければ、同じでは?」
御影にも似たようなことを言われた。
俺は答えず、カップの中へ視線を落とした。
「それに、玲奈さんは昔から、ご家族に東条家との縁を期待されてきました」
「縁?」
「将来を含めたお話です。正式に決まったことではありません。ですが、周囲から繰り返しそれらしい話をされれば、本人にとっては十分な重荷になります」
あの夜、御影が口にした言葉を思い出す。
家柄が釣り合う。昔から知っている。事情を理解できる。
母たちが並べる言葉と何も変わらない、と。
俺は、御影が一番聞きたくない言葉を、何も知らずに並べたのだ。
急に座り心地のいいはずのソファが落ち着かなくなった。
背中を預けていられず、少し前かがみになる。
「……そんな話、聞いてませんでした」
「玲奈さんが自分から話すとは思えません」
「そんなの、話してくれないと分かるわけないじゃないですか」
思わず語気が強くなる。
榊原さんは表情を変えなかった。
「ええ。分からなくて当然です」
責めるでもなく、静かに肯定される。
「玲奈さんも、言葉が足りなかったのでしょう。高槻さんだけが悪いとは思いません」
「じゃあ……俺は、どうしたらいいんですか」
「何も」
「え?」
「私が頼んだから謝ったり、以前のように世話をしたりしても、玲奈さんは喜びません。むしろ私が余計なことをしたと知れば、しばらく口を利いてもらえないでしょうね」
「じゃあ、本当に、それを教えるためだけに?」
「はい。高槻さんがどのような方なのか、知っておきたかった。それから、玲奈さんのことを少しだけ知っていただきたかった」
それだけのために、わざわざ俺の帰りを待っていたのか。
疑問は残る。
榊原さんは紅茶を飲み終えると、空になったカップを静かに置いた。
「ところで、玲奈さんは今も部活動へ?」
「いちおう毎週来てます。窓際で、ずっと本を読んでますけど」
「高槻さんも?」
「俺も大体行ってます」
「そうですか」
榊原さんは小さく頷いた。
それから、何かを確かめるように俺を見る。
「契約は終わったのですよね」
「はい」
「では、玲奈さんが高槻さんと同じ部屋で過ごす理由も、もうないのでは?」
「部活なんだから、来るのは普通でしょう」
「本当にそうでしょうか」
すぐに答えようとして、言葉が出なかった。
御影は社会適応研究会の発案者だ。出席する理由なら、それで十分に思える。
けれど、御影は必要がないと判断したものへ、律儀に時間を使うような人間だっただろうか。
少なくとも俺が知る御影なら、顔も見たくない相手と毎日同じ部屋で過ごすくらいなら、活動方法そのものを変えようとするはずだ。
「長くあの方を見てきた人間として、一つだけ言えることがあります」
榊原さんは人差し指を立てた。
「玲奈さんは、本当に不要だと思ったものには驚くほど無関心です」
「それは……知ってます」
「では、なぜ部室へ行くのでしょうね」
小悪魔めいた笑みを向けられる。
「俺に聞かれても分かりませんよ」
「私にも分かりません。本人ではありませんから」
「じゃあ、今の質問は何だったんですか」
「考えるきっかけにはなったでしょう?」
完全に榊原さんの調子へ乗せられている。
それでも、頭に浮かんだ疑問は消えてくれなかった。
契約を終わらせた御影と、その御影がやってくる部室。
俺たちは挨拶をして、必要なことだけ話し、それ以外は何も口にしない。
「高槻さん」
「はい」
「もう一つだけ、年上らしいことを言ってもいいですか?」
「今度はからかわないなら」
「善処します」
「しないやつじゃないですか、それ」
榊原さんは楽しそうに笑ったあと、少しだけ声を柔らかくした。
「正しい言葉が見つかるまで黙っていると、相手には何も考えていないように見えることがあります」
胸の奥を見透かされた気がした。
謝るなら、何について謝るのか整理してから。
話しかけるなら、御影を納得させられる答えを見つけてから。
そう考えているうちに、五日が過ぎた。
「別に、立派なことを言う必要はないと思いますよ」
「でも、また余計なことを言ったら」
「そのときは、また怒られればいいのでは?」
「簡単に言いますね」
「ええ。怒られるのは私ではありませんから」
榊原さんは、にこりと微笑んだ。
やはり他人事だった。
けれど、不思議と腹は立たなかった。
明日の朝も、御影は隣の席で本を読んでいるだろう。
俺はいつもどおり、おはようと声をかける。
そのあとに何を言えばいいのかは、まだ分からない。
ただ、もう一言くらいは、何かを足してみてもいいのかもしれなかった。




