第十五話 人まばらな動物園は夕陽に染まっている
「春人、さっきから何ぼーっとしてんの?」
目の前で手を振られ、俺はようやく顔を上げた。
ベンチの前に立つ篠崎が、呆れたようにこちらを見下ろしている。その背後では、親子連れが大きな動物のイラストが描かれた案内板を覗き込んでいた。
「別に、ぼーっとしてない」
「してたって。入って五分でベンチに座って虚空を見つめる高校生、初めて見た」
「お前が園内マップを見たいって言ったから待ってたんだろ」
「それにしたって顔が怖い。子供が二人くらい遠回りしてたよ」
「それは普段からだ」
「悲しいこと言わないでよ」
篠崎が笑い、俺の隣へ腰を下ろした。
土曜の夕方。
篠崎に連れてこられたのは、駅からバスで少し行ったところにある市営動物園だった。
なぜ高校生二人で動物園なのかと聞いたところ、夕方からは入場料が割引になるらしい。閉園までの時間は短くなるものの、昼間より客が少なく、落ち着いて見て回れるのだと篠崎は得意げに説明していた。
確かに、園内を歩く人影はまばらだった。
幼い子供を連れた家族も帰り始め、昼間の賑わいが少しずつ遠ざかっている。傾いた日差しの中、木々の間を吹き抜ける風には昼間の熱がわずかに残っていた。
「せっかくあたしがデートに誘ってあげたのに、他の女のこと考えてた?」
「デートとは聞いてない」
「男女が休日に二人で動物園を回るのは、だいたいデートでしょ」
「お前が一人で来るのは寂しいから付き合えと言ったんだろ」
「そこは都合よく忘れなよ」
篠崎が肩をぶつけてくる。
俺は小さく息を吐き、手元の園内マップへ視線を落とした。
御影とは、今朝も普段どおりに話した。
けれど、東条と話して以来、以前と同じ調子で接しているつもりでも、どこかに余計な間が生まれてしまう。
御影が変わったわけではない。
おかしくなっているとすれば、たぶん俺のほうだった。
「やっぱり何かあったんじゃん」
篠崎が俺の顔を覗き込む。
「なんでもない」
「その顔で言われても説得力ないんだけど」
「こんな顔は生まれつきだ」
「顔つきじゃなくて表情の話ね」
篠崎は俺の額を指先で軽く小突くと、勢いよく立ち上がった。
「まあいいや。せっかく来たんだから、閉まる前に回ろ」
「どこから行くんだ?」
「大型動物はもう中に戻る時間が近いから、先にそっち。春人、立って」
「子供みたいにはしゃぐな」
「動物園で冷静ぶってるほうが損でしょ」
そう言って、篠崎は俺の手首を掴んだ。
周囲から見れば、やはりデートに見えるのかもしれない。
もっとも、篠崎にとって、この程度の距離はいつものことだ。
俺は引かれるまま立ち上がり、閉園時刻までの短い園内巡りを始めた。
◇◆◇◆◇
「でかっ」
象を見た篠崎の第一声が、それだった。
「小学生でももう少し気の利いた感想を言うぞ」
「実物見たら、結局それしか出てこなくない?」
「鼻が長いとかあるだろ」
「春人、感想の水準が小学生以下じゃん」
「お前に合わせたんだ」
柵の向こうでは、一頭の象がゆっくりと鼻を揺らしていた。
来園者が少ないせいか、前列を取り合う必要もない。篠崎は柵の前へ陣取り、何枚も写真を撮っている。
その後も、キリンを見ては首が疲れそうだと言い、カバを見ては意外と脚が速いらしいと俺へ知識を披露した。
陽気で騒がしい篠崎にとって、動物園は少し意外な選択だった。
もっと華やかな店や、人の集まる場所を好むと思っていた。
「お前、動物好きだったのか」
「結構好きだよ。文句言わないし」
「急に重い理由を足すな」
「半分冗談」
「残り半分が本気じゃねえか」
篠崎は小さく笑うと、キリンの放飼場へ視線を戻した。
「学校だとさ、誰かと一緒にいるだけで変な意味をつけられるじゃん」
「お前は特にな」
「否定できないのが腹立つ」
「普段の距離感を少し考えろ」
「春人にだけは言われたくないなあ」
「なんでだ」
「女の子二人の生活を面倒見てる男が、距離感を語ってるから」
「面倒見てるわけじゃない。片方は契約で、もう片方は親父に押しつけられただけだ」
「はいはい。事情を知らない人にも、今の長いやつ全部説明して回れば?」
「すでに似たようなことはやってる」
「ご苦労さま」
心底楽しそうに笑いやがる。
だが、篠崎の言うとおりだった。
事情を知らない人間から見れば、俺と御影や小鳥遊の関係は随分と奇妙に映るらしい。最近は話しかけられるたびに、必要のない弁解をさせられている。
「でも、ここなら誰もあたしのこと知らないし」
篠崎は両腕を大きく伸ばした。
「誰と歩いても、誰と喋っても、明日には変な噂にならない。だから楽」
明るい口調だった。
しかし、その横顔は笑っていなかった。
「……そうか」
「何、その気遣ってますみたいな返事」
「別に」
「春人、そういうとこ下手だよね」
「お前が余計なことまで読み取るんだろ」
「長い付き合いだからね」
篠崎はそう言うと、今度こそ普段どおりに笑った。
「あ、喉渇いた。何か飲もうよ」
「さっき自販機があっただろ」
「違う。期間限定のコラボドリンクがあるの。動物のカップに入ってるやつ」
「味は普通だろ」
「こういうのは雰囲気に金を払うんです」
「金持ちの発想だな」
「夕方割引で入った女に言う?」
確かに説得力はなかった。
篠崎は近くに立てられた案内看板を確認すると、園内の売店を指差した。
「春人は何がいい?」
「アイスコーヒー」
「せっかくのコラボなのに一番つまんないやつ選ぶじゃん」
「喉が渇いたんだろ。飲みたいものを買え」
「じゃあ、勝手に選んでくる。そこにいて」
「俺も行くぞ」
「座ってなよ。午前中も用事だったんでしょ」
篠崎は俺を近くのベンチへ押しやると、そのまま一人で売店へ向かった。
あれだけ人に気を遣うなと言っておきながら、こいつも大概だと思う。
俺はベンチへ腰を下ろし、遠ざかっていく後ろ姿を見送った。
◇◆◇◆◇
十分ほど経っても、篠崎は戻ってこなかった。
売店までは、ここから歩いて二、三分ほどしかない。客もそれほど並んでいなかったはずだ。
混んできたのかとも思ったが、閉園を知らせる園内放送が流れ始めている。そろそろ戻らなければ、最後に見たいと言っていた動物へ間に合わない。
俺はベンチから立ち上がった。
売店へ向かうと、少し手前に篠崎の姿が見えた。
両手には、動物のイラストが描かれた紙カップを持っている。
その前を、大学生くらいの男二人が塞いでいた。
「だから、高校生だって言ってるじゃん」
「高校生なんだ。大人っぽいから全然見えなかった」
「このあと暇? 俺たち車だから送るよ」
「人を待たせてるから無理」
「彼氏?」
「違うけど」
「じゃあいいじゃん。ちょっとだけ付き合ってよ」
離れた場所からでも会話が聞こえた。
篠崎は笑っていた。
ただし、いつもの笑い方とは違う。相手を刺激しないように口元だけを緩めた、薄い笑顔だった。
断っているのだから、そこで引けばいいものを。
男の一人が篠崎の手からカップを取ろうとした。
俺はその手首を横から掴んだ。
「それ、俺のなんで」
「うわっ」
男が驚いて振り返る。
目が合った途端、二人とも動きを止めた。
俺は別に睨んだつもりはない。
ただ、向こうからすれば、身長百八十七センチの人相の悪い男が突然背後に立っていたことになる。しかも、普段どおりの顔をしているだけで、機嫌が悪そうに見えるらしい。
「遅いから来た。何してる」
「ナンパされてた」
「それは見れば分かる」
篠崎が悪びれもせず答える。
男二人は俺と篠崎を交互に見た。
「……彼氏いるんじゃん」
「彼氏じゃないって言ってるでしょ」
「もういいだろ。行こうぜ」
一人が小声で促し、もう一人も俺の手を振りほどくと、気まずそうにその場を離れていった。
去り際に何度かこちらを振り返っていたが、追いかけるつもりはない。
「お前な」
「何?」
「もう少し早く断れなかったのか」
「断ってたじゃん。何回も」
「彼氏はいないなんて、余計なことまで正直に答える必要はないだろ」
「嘘つくの嫌なんだもん」
「相手による」
「じゃあ、春人が彼氏ってことにすればよかった?」
「そういう意味じゃない」
即答すると、篠崎は唇を尖らせた。
「そこまで全力で否定しなくてもよくない?」
「話をややこしくするな。それより、触られてないか」
「大丈夫。飲み物も無事」
篠崎が両手のカップを掲げる。
片方にはライオン、もう片方にはペンギンの絵が描かれていた。
「春人はこっち」
差し出されたのは、ペンギンのほうだった。
受け取って口をつけると、苦味より甘さが先に広がった。
「これ、コーヒーじゃないだろ」
「コーヒーゼリー入りミルク」
「俺はアイスコーヒーと言ったよな」
「動物園まで来て普通のコーヒーを飲む春人が悪い」
「聞いた意味がないだろ」
「でも美味しいでしょ?」
「……まあな」
認めると、篠崎は満足そうに笑った。
それから俺の隣へ並び、いつものように腕を絡めようとして――途中で手を止めた。
先ほどの男たちを気にしているのかもしれない。
「行くぞ。もう時間ないんだろ」
俺は篠崎の頭を軽く小突き、そのまま歩き出した。
「待ってよ」
数歩遅れて、篠崎が追いかけてくる。
今度は腕に絡む代わりに、制服の袖を指先でつまんだ。
「何してる」
「またナンパされたら困るから」
「さっきの連中はもういないだろ」
「別のが来るかもしれないじゃん」
「動物園をなんだと思ってるんだ」
「春人避けの効果は絶大だったし」
「虫除けみたいに言うな」
振り払おうとしたが、篠崎は袖を離さなかった。
代わりに、歩く速度を俺へ合わせてくる。
「でも、迎えに来てくれてありがと」
「遅かったから見に来ただけだ」
「そういうのでいいよ」
横目で見ると、篠崎はコラボドリンクを飲みながら前を向いていた。
その頬がわずかに緩んでいたのは、たぶん気のせいではない。
◇◆◇◆◇
閉園間際、俺たちは篠崎が最後に見たがっていたレッサーパンダの展示場へたどり着いた。
客はほとんど残っていない。
一匹のレッサーパンダが木の枝に腹を預け、垂れ下がった尻尾を気だるそうに揺らしていた。
「かわいすぎる……」
「ほとんど動いてないぞ」
「そこがいいんじゃん。見て、このやる気のなさ」
「お前は何を求めて動物園に来たんだ」
「日々に疲れた心を癒やしに」
篠崎は柵へ手を置き、飽きることなくレッサーパンダを眺めていた。
やがて、俺のほうを見ないまま口を開く。
「それで、何かあった?」
「何がだ」
「玲奈ちゃんとのことで」
俺は思わず篠崎を見た。
「お前、いつから名前呼びになった。しかも、ちゃん付けまでして」
「いや、勝手に呼んでるだけ」
「本人の許可は?」
「取ってないけど」
「ほら、距離感がおかしいだろ」
以前から散々注意してきたことを指摘すると、篠崎は一瞬きょとんとしたあと、可笑しそうに笑いだした。
「あはは、確かに。これに関しては春人が正しいかも」
「これに関しては余計だ」
「でも、御影さんって呼ぶと堅すぎるじゃん。今度会ったら本人にも聞いてみるよ」
「最初からそうしろ」
篠崎はまだ笑いながら、再び展示場へ顔を戻した。
「それで、玲奈ちゃんと何かあったの?」
「呼び方を直す気はないんだな」
「本人に止められるまでは仮採用で」
「なんだそれは」
呆れながら、俺も柵へ背中を預けた。
「別に、御影と何かあったわけじゃない。今朝も普段どおりだった」
「じゃあ、春人の問題?」
「……たぶんな」
俺自身がどこまで関わるべきなのか。
今の関係を続けることが、本当に御影のためになるのか。
頭の中にはいくつもの問いが浮かんでいたが、どれも篠崎へ具体的に話せることではなかった。
「自分よりも、御影に合ってるやつがいるかもしれないと思っただけだ」
「合ってるって、何が?」
「いろいろだ。育った環境とか、立場とか。そいつなら、俺より上手く御影を支えられるかもしれない」
「ふうん」
篠崎は短く答え、展示場の柵へ頬杖をついた。
「それで春人は、その人に任せて自分は離れたほうがいいって考えてるの?」
「そこまでは言ってない。ただ、それが御影のためになるなら――」
「春人が考え抜いて出した結論なら、いいんじゃない」
高槻はハッと顔を上げた。
「前にも言ったけど、春人は玲奈ちゃんのことを背負いすぎだと思ってるし。少し距離を置いたほうがいいって考え自体は私も持ってるよ」
そう言ってから、篠崎は木の上のレッサーパンダへ目を戻した。
返ってきた言葉はあっさりしていたが、柵をなぞる指先だけが、所在なさげに何度も同じ場所を往復している。
「たださ」
わずかに唇を尖らせ、篠崎が続ける。
「あとになって、その人が現れたから仕方なかったとか、玲奈ちゃんのためだったとか、誰かのせいにするくらいならやめたほうがいいんじゃない」
「誰かのせいにするつもりはない」
「今はね」
篠崎は横目で俺を見た。
「離れるのも、今までどおり関わるのも春人の自由。でも、どっちを選ぶにしても、自分で選びなよ。後悔したときに、他の誰かを理由にしなくて済むように」
「……随分と大人びたことを言うんだな」
「春人が子供みたいにうじうじしてるからでしょ」
「そこまで言うか」
篠崎は不満そうに顔を背けてぼそりと呟いた。
「せっかく二人で動物園に来たのに、ずっと他の女のことで悩まれてるこっちの身にもなってよ」
「ん、何か言ったか?」
「別に、何も言ってないよ」
篠崎が溜息をついたところで、閉園を知らせる音楽が園内へ流れ始めた。
木の枝に寝そべっていたレッサーパンダも、ようやく顔を上げる。
「あ、こっち見た!」
篠崎が嬉しそうにスマートフォンを構えた。
数枚撮影すると、今度は俺の袖を引く。
「春人も一緒に撮ろ」
「レッサーパンダを撮りに来たんじゃないのか」
「せっかく二人で来たんだから、一枚くらいいいでしょ」
近くにいた係員へスマートフォンを渡し、俺たちは展示場の前へ並んだ。
篠崎は当然のように距離を詰め、俺の腕へ自分の腕を絡ませる。
「お前、さっき自分でも距離感がおかしいって認めたばかりだろ」
「写真を撮るときは例外」
「お前の例外は多すぎる」
「ほら、春人も笑って」
「急に言われて笑えるか」
そんなやり取りをしているうちに、シャッターが切られた。
写真には楽しそうに笑う篠崎と、困ったような顔をした俺が写っていた。肝心のレッサーパンダは、すでにこちらへ背を向けている。
「いい写真じゃん。あとで送って」
「分かった」
出口へ向かおうとスマートフォンで時刻を確認し、俺は足を止めた。
「……やばい」
「どうしたの?」
「スーパーの特売が始まっちまう」
「この流れで気にするのがそれ?」
「今日は卵が安いんだ。遅れたらなくなる」
「春人、やっぱりオカンじゃん」
「誰がオカンだ。お前も急げ」
「はいはい。卵のために走る高校生、初めて見た」
「うるさい」
呆れながらも楽しそうに笑う篠崎と並び、俺は閉園間際の動物園をあとにした。




