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8 What’s in a name?

 歓楽街の入り口。夜で静まる日常と、輝く非日常の境目を往来する雑踏。――その中に、『英雄』ジョンはいた。


 工事の泥が付着した作業着をそのまま身にまとい、冬の寒さに背中を丸めて歩く姿は、仕事終わりの労働者そのものだった。


「さて……来たはいいものの、何から始めればいいのやら」


 ジョンは白いため息を吐く。ジョンの目的は、A Manの幹部への接触だが、裏社会の大物は、やすやすと近づけるような存在ではない。まずは組織の関係者を探し、末端の構成員に取り次いでもらい、それから――


 思考を巡らせながら歩くジョン。先行きの長さに目眩がし、仕事を引き受けたことを僅かに後悔し始めたその時――ジョンの思考を一気に吹き飛ばすものが、視界に入った。


「……なんだ、あの二人は」


 それは、たった二人の人間だった。黒いコートに身を包み、杖をつく白髪の男と、艶を帯びた笑みを浮かべる黒髪の女。


 親密に腕を組んで歩くその男女は、夜の闇の中でひときわ目立つ、否、闇に溶け込みすぎてむしろ目立ってしまっているような、そんな存在感を放っていた。


 二人は、通り沿いの寂れた酒場に入っていく。ジョンの勘が告げていた。二人を追えば、闇の奥深いところへ一気に飛び込めると。


 作業帽を目深に被り直し、ジョンは二人を追って酒場へ入る。拍子抜けに、酒場自体は何の変哲もない場所であるらしかった。そうであるがゆえに、カウンターに座っていた二人の存在感がより一層際立っていたのだが。


 ジョンは女の側から少し離れたカウンターに座る。店主が近づいてきた。


「注文は?」


「ワインを」


 ジョンがワインを頼むと、ワインがやや粗雑に注がれ、目の前に差し出される。ジョンはそれを一気に呷った。そして、ちらりと黒衣の二人へ意識を向け、耳をそばだてる。


 店主が小声で二人に話しかけた。しかし、ジョンの鋭敏な耳はその言葉を正確に聞き取る。


「ブレインさん、アームさん、お食事は……」


「遠慮しておこう。長居はしない」


 ――彼が、ブレイン。そして、隣の女性も幹部の一人らしい。グラスを握る手に、僅かに力がこもる。


 ジョンは一瞬のうちに激しく思考を巡らせた。このまま聞き耳を立て続けるべきかどうか。


 自分は諜報の訓練を受けてきた訳ではない。聞き耳はいつかは露見し、悪い印象を与えかねない。ならいっそ――


 ジョンは意を決し、二人の方に身体を向けた。


「あ、あの……ブレインさんですか? A Manの……」


 相手によってはこの質問だけで殺されかねない危険な賭けだった。実際、アームは黒いコートの内側に手を入れ、何かを掴んでいる。しかし、ブレインはそれを手で制し、ジョンに返答した。


「そうだが。何か用かな? 何か困り事でも?」


 思いのほか、友好的な返答だった。本当に、困りことを言えば手を差し伸べてくれそうな。ジョンは僅かに身体の力を抜き、続ける。


「僕はヴェンっていいます。運河工事で食ってるんですが……いや、正直思ったほど稼げなくて。で、こっちで別口を探してたら、A Manって名前を耳にしまして」


 そこまで言ったところで、ジョンはブレインの纏う空気が揺らいだように感じた。しかし、それも一瞬だった。気のせいかと思い、ジョンはさらに続ける。


「僕も組織に入れていただけないかなぁと思い、こうしてお目にかかった次第です。どうか、よろしくお願いします」


 ジョンが言い終わると、無言が場を支配した。ブレインは無機質な瞳でジョンを眺め、ジョンは緊張に満ちた瞳でブレインを見つめる。無言を終わらせたのは、アームだった。


「――あなた、とても濃い血の香りがするわ」


 ジョンは固まり、アームへとぎこちなく視線を移す。白魚のような指がジョンに向けられていた。


「ただの工夫から、どうしてこんなにも血が香るのかしら。興味があるわ。聖人君子のような顔をして、とんだ遊び人ね」


 アームは見せつけるようにマチェーテを引き抜き、ジョンの目と鼻の先に突きつける。


 店の中に緊張が走った。他の客は不自然に視線を逸らし、店主は黙々とグラスを拭き続け、助けになりそうにない。


 もはや、これまで。ここからは自らの腕で切り抜けるしかない。ジョンはそう覚悟した。


 ――しかし、その覚悟は無駄なものとなった。


「まぁ、待て」


 ブレインがマチェーテを握るアームの腕を制し、ゆっくりと下ろさせたのだ。


「俺が思うに彼は……帰還兵、なのではないだろうか」


 突然の助け船。ジョンはこれ幸いと助け船に乗る。


「え、ええ、僕は帰還兵です。戦争から帰ってきたばかりで」


「ふ~ん? なら、なんで最初に帰還兵だって言わなかったの? 犯罪組織に入ろうとする上で、とても有利に働く経験だと思わない? ――人殺しの経験は」


 アームはまだ疑いを無くしてはいないようだった。艶やかな笑みの中で鋭くジョンを貫く瞳。それを真っ直ぐに見据え、ジョンは答える。


「戦場で人を殺した経験は決して誇れるようなものじゃないと、そう思っていたもので」


 そう言った瞬間、ブレインの纏う空気が、またも揺らいだように感じた。だが、やはりそれも一瞬のもので、ブレインはアームの肩に手を置き、口を開いた。


「アーム、彼は俺に任せてほしい」


「……ええ、我が頭脳の仰せのままに」


 ブレインの言葉を聞いたアームは、即座にマチェーテを納める。ブレインは次いでジョンに話しかけた。

 

「彼女が失礼をした。詫びに酒を振る舞わせてはくれないだろうか? そして、ついでと言ってはなんだが君と酒を酌み交わさせてほしい。帰還兵という人種に興味があってね」


 ブレインの提案に、ジョンはどうやら賭けに勝ったらしいと感じる。そして、礼の言葉をブレインに伝えるべく口を開いた。


「話は聞いてくださるってことですか? ありがとうございます……! 奢ってもくださるなんて……いやぁ、助かりますよ。安酒を飲むのにも苦労する懐具合でしてね」


「それは奢り甲斐があるな……聞いたとおりだ。今夜は彼と過ごす。後のことを頼めるか」


「あら、私は混ぜてくれないの?」


「たまには男二人で飲んでみたいんだ。悪いな」


 そう言ったブレインに対し、肩をすくめながらもアームは頷き、引く。


「では、行こうか」


「……? ここで飲むのでは?」


「込み入った話をするには、この店は向かない。少し歩くが、良い酒を飲める場所があるんだ。案内する」


 ブレインはさっさと店の外へと歩き出した。その歩みの先に待っているものを、ジョンは予想することもできなかった。しかし、立ち止まることはもうできはしない。


 ジョンも覚悟を決め、夜の闇へと足を踏み出す。

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