――消えてなくなりたいと、思ったはずなのに。
今日もまた、朝がやってくる。
スマホのアラームに急かされ、制服に袖を通す。
鏡の中の私は、いつも通りだ。
階段を降りる。
「……おはよう」
母はテレビを見ている。
返事はない。
いつも通り。
「行ってきます」
家を出る。
空気は少し冷たい。
駅までの道。
前から来た人と、軽く肩が触れた。
「すみません」
小さく言う。
相手は振り向かない。
まるで私が居なくなったみたい。
そんな事を考えてくすりと笑う。
電車に乗る。
通勤や通学で車内は混雑し、座席は空いていない。
倒れてしまわないよう吊革を掴む。
揺れた拍子に、隣の人の肘が当たる。
ごめんなさい――。
さっきの事を思い出し、その言葉を飲み込んでみる。
何も起きない。
少し胸が軽くなる。
いつものように校門をくぐる。
朝日奈さんがこちらに視線を向ける。
私は笑って手を振り返す。
目が、少しだけずれた気がした。
おはよう。
その言葉は無かった。
違和感を感じたまま教室に入り、席に座る。
前の席の子が振り向く。
「昨日のドラマ見た?」
私は一瞬遅れて頷く。
でも、その子は隣の子と続きを話し始める。
……あれ?
私に、聞いたんじゃなかったっけ。
でも。
たぶん、最初から隣の子に向けた言葉だった。
それだけ。
そう思うことにして、前を向く。
授業が始まる。
ノートを開く。
先生の声が教室に響く。
黒板に文字が並んでいく。
いつもの日常。
でも、それに私は緩やかに自分が削られていくような感覚を感じる。
それもいつもの日常。
死にたい、そんな言葉をノートの隅に小さく書いて消す。
隣の席の子が消しゴムを落とす。
拾ってあげようと手を差し出す。
しかし、その子は私を無視するように自分で拾い直す。
昼休み。
ガタガタと机を寄せる音がする。
笑い声が弾ける。
私は席に座ったまま、弁当箱を開く。
誰とも目が合わない。
声をかけられない。
いつもとは違う日常。
それでも、胸は不思議と静かだった。
もしかして、私は消えてしまったんじゃないだろうか。
そんな事を考えてみる。
無理に笑わなくていい。
相槌を打たなくていい。
崩れない角度を意識しなくていい。
――楽だ。
午後の授業も、静かに終わった。
チャイムが鳴る。
教室がざわめく。
私は席を立つ。
誰にもぶつからない。
誰にも触れられない。
誰にも、見られない。
そのまま校門を出る。
胸が、軽い。
私は、笑っていた。
もう、取り繕わなくていい。
いないなら、いないでいい。
そのまま、駅へ向かう。
商店街を抜け、お店の自動ドアの前に立つ。
心はいつもより晴れやかだった。
誰も気にしなくていい。
何も気にしなくていい。
いっそ鼻歌でも歌ってしまおうか。
いけない、これからお仕事だった。
気持ちを切り替えて頑張らないと。
深呼吸。
事務所に入り、エプロンをつける。
何も言われない。
誰も、こちらを見ない。
ロッカーの扉が閉まる音だけが響く。
(あれ――?)
カウンターに立つ。
奏汰さんが棚の前で何かを話している。
伊東さん――いつもなら笑顔で挨拶をしてくれる。
わざとらしく音を立てて見る。
それでも、いつまでたっても呼ばれない。
お客さんがレジに並ぶ。
「すみません」
声は、奏汰さんに向けられる。
私の前を、すり抜ける。
(おかしいな――)
手を伸ばす。
届かない。
バーコードを読み取る音が鳴る。
私の手元ではない。
奏汰さんの手元だ。
私は、ここにいる。
いる、はずなのに。
「……奏汰さん」
声が、出た。
でも、届かない。
振り向かない。
笑い声が遠くなる。
(誰か、気づいて――!)
店内の照明が、ぱちりと瞬く。
床が、ひび割れるように見えた。
音はしない。
けれど、確かに。
視界の端から、世界が裂けていく。
胸の奥が、音を立てて崩れた。
楽だと思ったはずなのに。
――消えてなくなりたいと、思ったはずなのに。
違う。
違う。
違う。
私は――本当は消えたくなんて、なかった。
誰かに、居てもいいよって、言ってもらいたかった。
(それだけだったのに⋯⋯)
ぱきり、と。
音はしなかった。けれど確かに、何かが割れた。
世界から、私は切り離された。
暗い。
暗い。
まるで黒で塗り潰されたように、暗い。
押し潰されたように肺から冷たい息が漏れ出る。
ここにあるのは、私の吐く呼吸の音。
そして――けたたましいくらいに鳴り響く、甲高い金属音だけだった。




