崩れない角度で。
「あんたなんて産まなければ良かった」
頭の奥で、母の声が反響する。
ごめんなさい――。
どうして、私が謝らなきゃいけないんだろう。
産んでほしいなんて言っていない。
生まれたいと願った覚えもない。
勝手に産んで、理想と違うからいらないと吐き捨てる。
理不尽だ。
「産んでくれなんて、言ってない」
心の中でだけ、言い返す。
口にすれば、その先がある。
その先を想像するだけで、胸が詰まる。
だから、言わない。
言えない。
早朝。
薄暗い部屋。
ベッドの上で膝を抱える。
夜に部屋へ逃げ込んでから、朝までのわずかな時間。
それだけが、私に許された静寂だった。
ピピピッ――
アラームが鳴る。
現実が、容赦なく差し込んでくる。
起きなきゃ。
今日も一日が始まる。
何も変わらない一日が。
制服に袖を通し、階段を降りる。
「おはよう」
母は新聞から目を上げない。
一瞥だけ。
返事はない。
「……行ってきます」
靴を履き、玄関を出る。
まだ早い時間。
でも、家に長くいる理由がない。
あそこに、私の居場所はないから。
電車に揺られながら、スマホを開く。
アプリを起動しては閉じる。
意味もなくスクロールする。
そして、検索欄に指を置く。
――消えてなくなりたい。
表示されるのは、優しい言葉。
あなたは一人じゃない、と書かれた文章。
助けを求めて、と並ぶ電話番号。
どれも正しいのだと思う。
でも。
乾いた笑みが浮かぶ。
私は画面を閉じ、スマホを鞄に押し込んだ。
電車を降りる。
重い身体を引きずるように、校門をくぐる。
「陽菜、おはよー」
朝日奈さんが手を振る。
私は口角を上げる。
鏡で何度も練習した、崩れない角度で。
「おはよう、朝日奈さん」
胸の奥が、ちくりと痛む。
それでも、笑う。
廊下でも、階段でも、同じやり取りを繰り返す。
そうして教室へ辿り着く。
席に座る。
あとは無難に一日をやり過ごすだけ。
それが出来れば、今日も合格。
出来なければ、なんて考えない。
夕方。
チャイムが鳴り、教室がざわめきに包まれる。
私は人の波に紛れるように校門をくぐった。
部活動はしていない。
やりたいことが、特にない。
何かに打ち込めるほど、心に余白がない。
今日はアルバイトの日だ。
週に三回。
放課後の数時間だけ。
あそこでは、名前を呼ばれる。
指示を受ける。
役に立てば「ありがとう」と言われる。
それだけで、十分だった。
そこだけが――
私がいても、邪魔にならない場所。
駅までの道を、いつもの速度で歩く。
夕方の空は、薄く群青に滲んでいる。
イヤホンはつけない。
街の音があるほうが、余計なことを考えずに済む。
見慣れた商店街を抜ける。
自動ドアの前で、深く息を吸った。
事務所でエプロンをつけ、仕事用の顔に切り替える。
レンタルの返却が一段落つき、カウンターを拭く。
アルコールの匂い。
規則正しく並ぶケース。
決まった音量で流れるBGM。
ここは、いつも同じだ。
だから、落ち着く。
そう思っていた。
自動ドアが開く。
軽い電子音。
反射的に顔を上げる。
「あっ、神代さん。今日はどうしたんですか?」
自然に出た声。
作り慣れた、少し明るめのトーン。
カウンターの向こうに立っていたのは、同じアルバイトの神代御言さん。
神代さんは大学生だ。
落ち着いていて、無駄に騒がない。
同じ大学だという奏汰さんとは、正反対のタイプ。
奏汰さんは、この店でもよく騒いでいる。
神代さんは、少し離れた場所からそれを見ていることが多い。
「伊東さん、お疲れ。ちょっとこれを返却しに来ただけだよ」
カウンターにDVDが置かれる。
ケースの角が少し欠けている。
細かいところが気になるのは、職業病だろうか。
「はーい、かしこまりました!」
バーコードを読み取る。
ピッ、という音。
この音は好きだ。
正しく処理できた証みたいで。
「奏汰は? サボり?」
神代さんが店内を見回す。
私は小さく笑う。
「奏汰さんは店長に呼ばれて、事務所の奥にいますよ」
たぶん、また怒られている。
外の灰皿で、エプロン姿のままタバコを吸っていたのだろう。
「またか」
「ええ、またですねぇ……」
意識せずに軽く笑う。
ここでは、こうして笑える。
「神代さん、今日はシフトじゃないですよね?」
DVDを拭きながら問いかける。
「今日は返却だけだね。期日はまだあるけど、もう見終わったしさ」
律儀だな、と思う。
「真面目ですねー」
「奏汰が不真面目なだけだろ」
ふ、と笑いが零れる。
この瞬間だけは、胸が少し軽い。
平日の夕方。
客はまばら。
棚に並ぶ古い映画の背表紙。
変わらない。
ここは、変わらない。
だから、安心できる。
……はずだった。
ぱち、と。
店内の照明が、ほんの一瞬だけ瞬いた。
気のせいかと思うほどの揺らぎ。
けれど――
その瞬間。
胸の奥が、ひどく冷えた。
「――っ」
息が詰まる。
視界の端で、何かが歪んだ気がした。
「どうした?」
神代さんの声。
いつも通りの声。
私は、瞬きを一つして、首を振る。
「……いえ。今、ちょっと」
言葉が続かない。
何かが。
何かが、こちらを見ていた気がする。
そんなはず、ないのに。
その後は何事も無かったように、アルバイトの時間は終わった。
エプロンを外し、ロッカーに掛ける。
鏡の中の自分と目が合う。
顔色が、少し悪い。
疲れているだけだ。
前髪を整えて、目を逸らす。
店を出る。
夜の空気は、昼よりも静かだ。
今朝と同じように重い身体を引きずりながら家路を辿る。
特に何かあるわけでもないが胸が締め付けられる。
ああ――消えてなくなりたい。




