彼女を、この世界に繋ぎ止めてください
御言はルトの話を冗談と切り捨てることができず、結局家の中へ招き入れた。
別に伊東陽菜と特別に親しいわけではない。
だが、昨日見たあの怯えた表情が、妙に引っかかっている。
キッチンテーブルを挟んで向かい合う。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、ルトの銀髪を淡く照らしていた。作り物のように整った横顔が、不自然に静かだ。
「それで」
御言が口を開く。
「伊東さんは、このままだとどうなる」
“ズレる”と言われても実感がない。
そんな曖昧な言葉で言われても実感がわかない。
ルトは少し視線を落とし、それから静かに言った。
「このまま境界に引かれ続ければ――」
一拍。呼吸を整えるような間。
「彼女は、狭間に落ちます」
「狭間?」
聞き返しながらも、胸の奥がわずかにざわつく。
「わかりやすく言えば、消えます」
御言は眉を寄せた。
「消えるって、転校とかそういう比喩じゃなくて?」
「その存在が希薄になります」
曖昧な言い方に苛立つ。
はぐらかされている気がした。
「具体的に」
短く促す。
「人の認識から外れていきます」
ルトは続ける。その声は淡々としている。
「最初は違和感程度です。名前が出てこない、顔を思い出せない。次に、そこにいるはずなのに気づかない」
御言の脳裏に、昨日の蛍光灯の明滅がよぎる。
あの一瞬、確かに何かが歪んだような気がした。
「最終的には?」
自分でも驚くほど低い声だった。
「“いなかったこと”になります」
言葉が落ちる。
部屋の空気がわずかに冷えた気がした。
朝のはずなのに、背筋に薄い汗が滲む。
「……なんでそんなことが起きる」
ルトは御言を見る。
青い瞳の奥に、ほんのわずかな迷いが揺れた。
「彼女は、強く願っています」
「何を」
喉が、わずかに張りつく。
「“死にたい”と」
御言の指が止まる。
死にたい、その言葉に。
テーブルの木目が、妙に鮮明に見えた。
「その程度で世界が壊れるわけないだろ」
あえて吐き捨てるように言う。
それを認めたくなかった。
”その程度で世界が壊れるわけがない”
嘘だ。
かつての自分がそれを否定する。
しかし、頭では理解していた。
「普通は、起きません」
即答だった。
「ですが、今回は違う」
「何が」
「彼女の感情に応じた“何か”がいます」
無意識に、息を止める。
「何か?」
「人の希死念慮に寄る存在です」
ルトは言葉を選ぶように続けた。
「それは直接命を奪うことはしません。ですが、境界を揺らします」
御言は自分の鼓動を意識する。
「境界ってのは⋯⋯」
「この世界と、意識の世界の隔たりです」
ルトが質問を先読みするかのように答える。
その説明は抽象的なのに、妙に現実味があった。
「彼女は今、その境目を行き来しています」
「行き来……?」
「身体はここにある。けれど意識は半分、向こう側にある」
ルトは御言を見つめる。
そのまっすぐな瞳に全てを見透かされているような感覚を覚える。
「だから観測できる者にしか、彼女は鮮明に映らない」
「観測……」
「あなたのように」
静かに、しかしはっきりとした断定。
その瞬間。
御言の胸の奥で、鼓動が鳴った。
ドクン。
はっきりと、重く。
「俺は、何も見えてない」
否定は弱い。
「見えています」
ルトは首を横に振る。
「あなたは一度、境界を越えた」
五年前の記憶が、嫌でも蘇る。
暗く、静かで、どこまでも沈んでいく感覚。
「越えて、戻ってきた」
ルトは小さく息を吐いた。
「だから、あなたはまだ“こちら側”に立っていられる」
御言は視線を逸らす。
窓の外の朝焼けが、やけに遠く感じた。
「つまり」
低く言う。
「伊東さんは、戻れなくなるってことか」
ルトは静かに頷いた。
そして判断を御言に委ねるような視線を向ける。
「信用するかどうかは別として、話はわかった。」
御言は深く息を吐く。
思い出すのはあの世界の光景。
思い浮かべるのは伊東陽菜の笑顔。
彼女がもし、あの時の自分と同じなのであれば助けてあげたいとも思う。
「それで、なんで俺なんだ?」
ルトがきょとんとした表情で首を傾げる。
「俺には見える、それもわかった――それで、俺に何が出来るって言うんだ?」
「今は詳細を説明できません」
即答だった。
「は?」
御言は眉を潜めてルトを睨む。
「説明する権限がありません」
意にも介さない様子でルトが答える。
「便利な言葉だな」
苛立ちを隠さずに吐き捨てる。
「ですが、助けられる可能性があるのはあなたしかいません」
可能性。
また曖昧な言い方だ。
「それで納得できると思うか?」
御言の声が低くなる。
それでも、ルトは感情を揺らさずに答えた。
「納得されなくても構いません」
間を置かない。
「あなたが動かなければ、伊東陽菜はこの世界から永久に失われます」
淡々としている。
脅しているわけでもない。
ただ事実を告げる口調。
その無機質さが、逆に癇に障る。
「流石天使様だな」
御言は皮肉を込める。
「下界の女子高生が一人消えようが、統計の誤差ってわけか」
ルトは瞬きを一つした。
「どうでもよいわけではありません」
「そうは聞こえないな」
今度は御言が即答する。
「私は選択を迫る役目です。決めるのはあなたです」
御言は舌打ちを飲み込む。
選択。
たいして親しくもないバイト仲間のために動くかどうか。
昨日の蛍光灯の下。
あの、何かに怯える目。
「……伊東さんは、今どうなってる」
口から出た瞬間、自分で少し驚く。
ルトの視線がわずかに和らぐ。
「まだ戻れます」
心なしか、言葉にわずかに暖かみをはらんでいるような気がした。
御言は天井を見上げる。
正義感なんて大層なものはない。
恋愛感情もない。
知らないことのほうが多い相手だ。
それでも。
目の前で消えると分かっていて、何もしない自分を想像すると――妙に後味が悪い。
「……俺は何をすればいい」
ルトは静かに答える。
「彼女を、この世界に繋ぎ止めてください」
ルトが当たり前のように答える。
「だから、具体的に」
抽象的な言葉に苛立ちを隠せない。
自然と語気が強くなる。
「あなたが伊東陽菜を定義する――」
ほんの少しの間。
何かを考えるようなルトの表情。
「伊東陽菜の存在を容認⋯⋯いえ、彼女に伝えてください」
「何を」
やはり意味がわからず即答する。
「”死を想え”と」
ドクン――。
胸の鼓動が一段と強くなる。
「拒否、しますか?」
ルトの問いは静かだ。
「まだ決めてない」
だが、その言葉とは裏腹に、胸の奥ではもう答えが傾き始めていた。




