5:07
朝。
まだ夢の底に沈んでいた意識を、無遠慮な電子音が引きずり上げた。
ピンポーン。
間を置かず、もう一度。
ピンポーン、ピンポーン。
「……っ」
御言は布団の中で眉をしかめる。
チャイムの連打。時計を見るまでもなく、非常識な時間だと分かる。
ピンポーン。
考えている間にも無遠慮に音が割り込んでくる。
御言は舌打ちを一つして体を起こした。
枕元のスマートフォンを手に取る。
5:07。
普段はまだ寝ている時間だ。
「……ふざけんな」
こんな時間に訪ねてくる友人はいない。宅配にしても早すぎる。
となれば、決してありがたい来客ではないことは間違いないだろう。
御言はベッドから降り、寝癖のついたままインターホンへ向かう。
モニターの電源を入れる。
映し出された人物を見て、眉間の皺がさらに深くなった。
銀色の髪。
透き通るような青い瞳。
白を基調とした服装。
ここ最近、家の近所をうろついている――自称天使。
正確には、宗教勧誘と思われる不審者。もしくは頭の残念そうな女だ。
「……最悪」
またか。
朝から。
しかも五時台。
御言はため息を吐き、通話ボタンを押した。
「⋯⋯間に合ってます」
それだけ言って、指を離しかける。
「あのっ……!」
モニター越しに、銀髪の少女が身を乗り出した。
「伊東陽菜さんのことで、お話があります!」
その言葉に御言の手が止まる。
伊東陽菜。
なぜその名前が出る。
まさか、知り合いか?
そんな事を考えている間に、追い打ちをするかのように銀髪の少女が畳み掛ける。
「このままでは、伊東陽菜さんが⋯⋯!」
インターホン越しに、銀髪の少女は必死な顔をしていた。昨日までの胡散臭い微笑みではない。
どこか焦りを滲ませた、切羽詰まった表情。
「……何の話だ」
通話は切らないまま、低く問う。
「ここでは話せません。時間が、あまりないんです」
「は?」
「彼女は“見えてしまった”んです。昨日、あのお店で」
そう言われて、昨日の事を思い出す。
蛍光灯の明滅。
青ざめた伊東さんの顔。
胸の奥が、嫌な音を立てる。
「……何を」
「境界です」
即答だった。
「あなたも、過去に触れて⋯⋯いえ、乗り越えた事がありますよね?」
ぞわり、と背筋に寒気が走る。
頭の奥に、あの“もう一つの世界”が、浮かび上がる。
いや――
ありえない。
あれは俺しか知らない。
この少女がその事を知っているはずがない。
「妄想なら帰れ」
「妄想ではありません」
銀髪の少女は真っ直ぐにカメラを見上げた。青い瞳が、異様に澄んでいる。
「伊東陽菜さんは、昨晩から“ズレ”はじめています」
御言の指が、無意識にドアの解錠ボタンにかかる。
「……ずれてるって、何だ」
「この世界から、少しだけ」
意味が分からない。
だが――完全に否定もできない。
五年前の自分が、それを許してはくれない。
死にたいと願い、自分の世界に閉じ籠もり。
死ねないと嘆き、自分の世界を諦めた。
それでも、最後には生きるしか無いと理解した。
あの時の記憶を、意志を、俺は否定出来ない。
「⋯⋯証拠は」
「彼女、今日アルバイトに行きません」
間を置かずに少女が答える。
「体調不良だろ」
少し呆れたように返す。
「いいえ。出勤はします」
迷いのない即答だった。
「……は?」
「でも、誰も彼女を認識しません」
沈黙。
五時過ぎの住宅街は静まり返っている。
遠くで新聞配達のバイクの音がした。
「今なら、まだ戻せます」
少女は言う。
「あなたが――神代御言さんが、そう望むのであれば」
言葉の意味は分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
こいつは、俺や伊東さんの名前を教えてもいないのに知っている。
「……五分待て」
気づけば、そう言っていた。
通話を切る。
玄関へ向かいながら寝癖を整え、舌打ちする。
「なんで俺が」
だが足は止まらない。
鍵を開け、ドアを開く。
朝焼けの薄い光の中、銀髪の少女が立っていた。
間近で見ると、年は伊東さんと同じか、少し下。
白いワンピースに、見慣れない意匠のペンダント。
自称天使の背中に羽はない。
「……それで、なんだっけ。アンタが天使?」
皮肉を込めて言う。
少女には通じていないのか、真面目な顔で小さく首を振った。
「私の名前はルト――正確には、観測者です」
「もっと胡散臭くなったな」
思わず鼻で笑う。
「時間がありません。まず確認を」
少女は一歩近づく。
「昨日、店で照明が明滅しましたね?」
御言が頷く。
「その時、伊東陽菜さんは“自分の死”を視ました」
ドクン。
その言葉に、何故か胸の鼓動が、強く鳴る。
少女の青い瞳が、まっすぐ御言を射抜く。
「境界は、まだズレているだけです」
境界、観測者、天使、理解の出来ない話が展開されていく。
しかし、それを全て理解できないからといって、嘘や妄想と断じることは出来なかった。
朝の静寂の中。
日常が、音もなく軋み始めていた。




