ハンティンググラウンド
「……21人」
ドームの境界を越え、その内側へ踏み込もうとする御言たちの背中に、アリアの声が鋭く突き刺さった。
まるで引き留めるかのような、重い警告を孕んだ響きに御言の足が自然と止まる。
「……何がだ?」
振り返ることなく、御言が低い声で問う。
「この漆黒の森に閉じ込められた人間の数よ」
こともなさげにアリアが答える。その淡々とした口調が、かえって事態の異常さを際立たせていた。
「それが、どうした」
要領を得ない押し問答に苛立ちを覚え、御言の声色はさらに険しくなる。
「あなたの友達は、今この狩場の中で戦っているの」
ハンティンググラウンド――このおぞましい森を、彼女はそう呼んだ。
だが、御言が何よりも聞き捨てならなかったのは、その後に続いた言葉だった。
「戦ってる? 誰と?」
御言はたまらず振り返り、アリアを射抜くような目で見つめる。あの奏汰が、たった一人で何かと対峙しているというのか。
「自分の中にある獣と……」
アリアの瞳に、わずかな憂いにも似た陰が落ちる。
その瞳の奥に何があるのか、御言には知る由もなかった。だが、彼女の言葉が嘘ではないことだけは、肌を刺すようなこの場の空気から嫌というほど伝わってくる。
「人で在ろうとする彼と、宵闇の申し子の本能……今はまだ、完全な獣にはなっていない。でも……」
アリアの言葉が、霧のように立ち込める森の闇に重く沈んでいく。
「獲物を……人を喰らい、その血を啜り終えた時、彼は完全に獣へと変わるわ」
アリアは視線をドームの奥、さらに深く暗い森の深淵へと向けた。
「抗おうとしているからこそ、この森は今、これほどまでに猛っているのよ。彼が自分の獣に屈するのか、それとも……」
言葉の続きを待つまでもなく、御言の体は弾かれたように動き出していた。
奏汰が、今もどこかで自分自身と、そして逃げ場のない本能と孤独に戦っている。
その光景が脳裏に浮かび、心臓を強く締め付ける。
「行くぞ!」
御言の叫びが、澱んだ森の空気を切り裂いた。
背後からはルトと陽菜の、焦燥を孕んだ足音が追随してくる。
展開された透明な境界――ドームに触れた瞬間、拒絶されるかと思った感覚は裏切られ、身体は抵抗もなく虚無をすり抜けた。
「案内するわ……」
アリアが、重力から切り離されたように地面を滑り、横を並走する。
この女の真意も、その正体も依然として闇の中だ。だが、今はその得体の知れなさを疑う余裕すら惜しかった。
しかし、侵食された街の深部へ踏み込もうとしたその時、世界が”声”に埋め尽くされた。
『……お前が死ねばよかったんだ』
心臓を冷たい指で直接撫でられたような感覚に、御言の足が止まる。
それは、どこから聞こえるというものでもなかった。腐った土の下から、黒く変色した街路樹の隙間から、濁流のように溢れ出してきたのだ。
『この人殺し』
『あんたみたいな化け物……』
剥き出しの刃物のような悪意。
陽菜は恐怖に顔を強張らせ、ルトは鋭く周囲を睨みつける。
だが、何よりも御言を戦慄させたのは、その声が”あの奏汰”の糾弾であると同時に、奏汰自身の内に秘めたられた闇の断片でしかないであろうことだった。
一歩、足を踏み出そうとするたびに、声は質量を持って御言たちの肩にのしかかる。
「……これ、私の時と⋯⋯」
自身の内にある闇を思い出したのか、陽菜が引き攣った息を漏らし、震えながら呟く。
「そうよ、ここは彼の精神世界でもある……」
一人、渦巻く怨嗟に気圧されることなくアリアが応じる。彼女の瞳は、この空間の底に沈殿する濁りを見通しているようだった。
(俺は、生きてちゃいけない……)
『俺は、殺さなくてはいけない』
時折二重に重なって響く奏汰の声。
それは、人としての絶望と、宵闇の申し子としての本能が、互いの肉を食らい合うような凄惨な戦いを示していた。
「よォ……奇遇だナ、神代」
突如、頭上から降り注ぐ声。
「奏汰か!?」
御言は空に向かって叫ぶ。だが、返事はない。ただ、空気の密度が一段と増し、頭上の闇が重くのしかかってくる。
「御言、恐らくこれは……」
ルトが制止の言葉を紡ぎ終えるより早く、空から人影が舞い降りた。
茶色に染めた髪に、どこか軽薄さを感じさせる親しみやすい笑顔。そこには、探し求めていたはずの”日常”の奏汰が立っていた。
「神代、どうしタ? ソンナ怖い顔しテ」
奏汰はいつもの陽気な笑顔を浮かべ、親しげに、無防備に、御言に向かって歩き出す。
「御言――!」
ルトが再度、警告を込めて叫ぶ。
だが――その瞬間、御言の拳が空気を切り裂き、目の前の奏汰の顔面を正面から殴りつけていた。
激しく肉を撃つ鈍い音が響く。
「誰だお前」
低く、地這うような怒りを込めた声。
御言は、呆気にとられた表情でたじろぐ奏汰の腹部を、容赦なく蹴り飛ばした。
「奏汰は俺の前では、そんな張り付けたような笑い方しないんだよ」
地面を転がる”奏汰の姿をしたもの”を見下ろす御言の瞳には、友を侮辱されたことへの苛烈な怒りだけが宿っていた。
しかし、奏汰はこともなさげに起き上がる。
「そうかイ……じゃア、黒崎と言ったカ。あの女ハどうかナ?」
奏汰の皮を被った”それ”が、裂けたような口角で歪な笑みを浮かべる。
直後、足元の地面からどす黒い血が噴き出し、濁流となって偽物の身体を包み込んだ。
噴き出した血が地面へと吸い込まれていくと、そこにはもう”奏汰”の形をしたものは残っていなかった。
「まずいわね……獣の方が優勢になってきたみたい」
呟くアリアの声から、完全に余裕が消えていた。
「どういうことだ」
御言が食ってかかる。アリアは忌々しげに、消えた血溜まりの跡を見つめたまま答えた。
「彼は今、自分を制御できていない。……いいえ、それどころか、あなたたちまで標的にし始めたわ」
御言達や、黒崎店長を狙う――。
それは、奏汰をこの世界に繋ぎ止めていたはずの”親愛”や”絆”までもが、獣の本能によって反転し、食い散らかすべき獲物への執着に変質してしまったことを暗に示していた。




