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禍々しい森の元凶

 玄関を飛び出し、駅前の商店街へ向けてひた走る。

 目的地に近づくにつれ、大気は淀み、肌にまとわりつくような不快な重圧が増していった。


 視界の先、駅前を中心に広がる光景は、もはや見慣れた街のものではなかった。

 アスファルトの隙間から、あるいは建物の影から、禍々しい黒い森が急速に這い出し、街そのものを飲み込もうと侵食を広げている。


 そして、その異様な領域を包み込むようにして、巨大な透明のドーム状の膜が展開されていた。


「何が、起きてるんだ……?」


 御言が呟く。


「わかりません。ただ、境界に誰かが触れた気配はありませんでした」


 ルトが隣で冷静に答える。

 さらに広がり続けようとする黒い森を、ドーム状の膜が内側へ押さえ込んでいる。その拮抗する力の軋みが、微かな震えとなって周囲の空気を震わせていた。


 御言はこのドームに心当たりがあった。


「アリア……」


 思わずその名を口にする。


「あら、覚えていたのね」


 ドームの膜の中から、少女が姿を現した。

 アリア――彼女は侵食し続ける森と、それを抑え込む膜の境界に、平然と佇んでいた。


「これは、お前がやっているのか?」


 侵食され続ける街の無惨な光景を前に、御言が低く問いかける。

 アリアは、街を飲み込もうとする黒い森を背に、不敵な微笑を浮かべて答えた。


「半分は正解」


 その曖昧な肯定に、ルトの瞳が鋭く細められる。彼女は一切の油断なく、アリアを射抜くような目で見つめ、その一挙手一投足を注視していた。


「どういうことだ」


 御言がさらに踏み込んで尋ねる。しかし、アリアの表情は揺るがない。

 彼女はドームの境界に手を触れ、まるで見世物でも眺めるような無邪気さで口を開いた。


「よかれと思ってしたことが裏目に出ることって、あるじゃない?」


 その言葉が、澱んだ大気の中に溶けていく。

 問いに対する答えとしてはあまりに不透明な、そして他人事のような物言いに、御言とルトの間に強い警戒が走った。


 広がり続ける森と、それを力ずくで押さえ込む透明なドーム。その歪な拮抗が、周囲に嫌な震動を響かせている。


 誰も言葉を発しないまま、重苦しい沈黙がわずかな間、三人の間に流れた。

沈黙を破り、はじめに動いたのはアリアだった。


「やめましょ、今は時間がないの……彼の精神を救いたいのなら、ね」


 彼女からは、明確な敵意は感じられない。

 だが、御言はその言葉に含まれた”彼”という響きに、拭い去れない引っかかりを覚えた。


「そう、伊藤奏汰⋯⋯。この森を作り出しているのは彼よ」


 思考の先回りをするかのように、アリアが淡々と告げる。


「奏汰さんが!?」


 後ろでずっと様子を伺っていた陽菜が、衝撃に耐えかねたように思わず声を上げた。


「どういうことだ」


 呼応するように、御言がアリアを厳しく問い詰める。

 奏汰がこの禍々しい森の元凶だという、到底信じがたい事実に、彼の声には焦燥が混じっていた。


「彼、伊藤奏汰は自分の死を願った。そして、私は彼の願いを叶えるために手を貸したつもりだった」


 アリアは、遠く過ぎ去った時間を思い返すように言葉を紡ぐ。その声には、先ほどまでの不敵さはなく、どこか空虚な響きが混じっていた。


「でも、やり方を間違えてしまったみたい……彼を目覚めさせてしまったの」


 ふと、その瞳が憂いを帯びているようにも見えた。

 自嘲気味なその表情は、彼女が”良かれと思って”行ったことの結果が、今まさに目の前で街を侵食しているという事実を突きつけている。


「嘘ですね。奏汰は境界に堕ちていません。触れた気配すらしません」


 きっぱりとした、温度の低い言葉でルトがそれを否定した。

 彼女の銀の瞳は一点の曇りもなく、アリアの放つ言葉の矛盾を正確に射抜いている。


「……私の目と感覚が、彼がまだこちら側に留まっていると告げています」


アリアはルトの言葉にたじろぐわけでもなく、ついた嘘がバレたといった様子も見せない。

 ただ、困った子供を諭すような、あるいは手詰まりを感じた時のようなため息をひとつ、吐いた。


「それが、人であれば……そうかもしれないわね」


 人であれば――そうでなければ、あいつは何だと言うんだ。


 御言の中に生じた困惑を余所に、アリアは淡々と、しかし決定的な言葉を続ける。


「彼は人ではない。……いえ、正確には半分が人じゃない、ってところかしら」


 さらなる困惑、そして核心をはぐらかすような曖昧な返答に対し、御言の内に苛立ちがせり上がる。自然と、その語気は強くなった。


「……だったら、なんだって言うんだ!」


 剥き出しの敵意を孕んだ御言の視線。

 だが、アリアはそれを気にする素振りも見せず、静かに御言へと向き直った。


「宵闇の申し子と人のハーフ。それが、伊藤奏汰よ」


 その言葉が投げ落とされた瞬間、周囲の空気が一層冷たく、重く沈んだように感じられた。

 親友だと思っていた男が、自分たちと同じ”人”ではない。その事実は、御言の理解を遥かに超えていた。


 ルトはアリアの言葉を聞き、その瞳に宿る銀色の光をさらに強くした。彼女の中で、目の前の異常な光景と、アリアの告げた事実が一つに結びついていく。


「……だから、境界に触れることなく、この領域を作り出せているというのですか」


 ルトの問いかけに、アリアはただ、物悲しげな、それでいてどこか突き放したような微笑を返すだけだった。


「奏汰さんが……人間じゃないなんて、そんなこと……」


 陽菜が震える声で零す。その隣で、御言は拳を強く握りしめていた。


「だからなんだ」


 御言の低い声が、淀んだ空気を切り裂くように響いた。


「だから、何が変わるって言うんだ……奏汰は、奏汰だ。……何も変わらない」


 それは、自分に言い聞かせるための言葉ではなかった。突きつけられた衝撃的な事実を、真正面から叩き伏せるための確かな意志だった。

 人であろうとなかろうと、共に過ごしてきた時間は偽物にはならない。


「ルト! 俺は奏汰を助けたい、いや……あいつの馬鹿みたいな笑い声が、俺の日常には必要なんだ!」


 叫びに似た御言の願い。その熱に当てられたのか、不敵に笑っていたはずのアリアが、一瞬だけ、救われたような優しげな微笑みを浮かべた気がした。


 その直後、ルトが静かに一歩前へと踏み出した。

 彼女の周囲に、これまでとは比較にならないほど澄み渡った、神聖なまでの銀色の輝きが渦巻き始める。


「わかりました⋯⋯父と子と精霊の御名において――かくあれ」


 ルトの凛とした詠唱と共に、彼女の手から放たれた光の波動が、アリアの展開する透明なドームへと接触した。


 拮抗していた力と力が共鳴し、侵食し続ける黒い森を真っ向から押し広げ、御言たちの前に一本の光り輝く道を作り出していく。


「行きましょう。あなたと、彼の日常を取り戻しに」


 ルトは御言を振り返ることなく、その光の道へと迷わず足を踏み入れた。

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