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誰か、俺を殺してくれ

(それで?)


 頭の奥底で、冷たく問いかける声は未だに俺に興味があるようだった。


「俺は死ぬべきだったんだ」


 俺は心の中でそっと答える。


(でも、お前には死ぬ権利もない)


 そうだ、死ぬべきだったのは、俺。

 でも、生き残ってしまったのも、俺。


 だから、母を犠牲にしてしまった俺が死ぬなんて許されない。

 俺はこの日常を、過不足なく受け入れ続けていればいい。それだけのことだ。


 午後の講義が始まる前の、少しだけ重たい空気。

 ふと視線を上げると、少し先を歩く見覚えのある背中を見つけた。


(……神代だ)


 その瞬間、胸の奥で燻っていた泥のような感情が、一気に静まっていった。

 神代の隣へ行けば、俺は自然に”奏汰”でいられる。


 あいつは俺に何も期待しない。

 俺が明るくても、暗くても、あいつはただ”そこにいる”ことを許してくれる。


 その淡白な温度が、今の俺にはどんな救いよりも心地よかった。


「どしたん、神代。また一段と憂鬱そうな顔して」


 声をかけた瞬間、俺は自分でも驚くほど自然に笑っていた。


「奏汰か。……いや、今日のバイト面倒だなって思っただけだ」


 教科書に視線を落としたまま、神代がいつもの平熱なトーンで答える。

 そのぶっきらぼうな態度が嬉しくて、俺はつい余計なことまで口にする。


「今日は神代と陽菜ちゃんだっけ?」


 スマホを取り出し、慣れた手つきで共有のシフト表を呼び出した。

 神代と陽菜。二人ともいいやつだ。俺が消えたら、こいつらは惜しんでくれるだろうか。


(母親みたいに、か?)


「あと、黒崎店長な」


「うわぁ……あの人、これで14連勤だっけ? マジで漆黒ブラックな働き方してるよなー。死ぬぞ、普通」


 そんな軽口を叩きながら、俺はふと思った。

 今日、店に行って神代と陽菜に言っておこう。


(そうだな、ニュースで知るのは嫌だろうしな)


 ……いや、あいつなら言わなくても察してくれるだろうか。


 ――その時だった。

 手元でスマホが、心臓を直接掴まれたような激しい振動を上げた。


「……ん?」


 何気なく画面を覗き込んだ瞬間、指先から血の気が引くのがわかった。


 表示された文字が、網膜に焼き付く。


(さあ、決意しろ⋯⋯)


 視界がぐにゃりと歪み、周囲の喧騒が遠ざかる。

 今朝から足元に絡みついていた粘り気のある影が、一気に俺の心臓まで這い上がってきたような感覚。


 俺は、逃げなきゃいけない。

 (お前は、殺さなくてはいけない)


 今朝から感じていた、”ケジメ”をつけろという何かの呼び声が、鼓膜の奥で爆音となって鳴り響いた。


「……悪い、神代。急用だ」

(そうだ、大事な“用事”だ)


 神代が何かを言いかける前に、俺は椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。


 すまない、神代。

 お前の前では、最後まで“普通の友人”でいたかったんだけど。


 俺は一度も振り返ることなく、光の差し込む教室の外へ、真っ黒な獣の影を連れて飛び出した。


 ポケットの中で、スマホがなおも激しく震え続けている。


 画面を見ずともわかる。

 お祖母さんの、あのヒステリックな声が、俺のなけなしの平穏を土足で踏みにじろうとしているのだ。


 向かう先は決まっている。


(ああ、決まっている)


 そうだ。やる事も、既に決まっていた。

 これから俺は、解放されるために――。


「あいつらを」

(殺しに行く)


 キャンパスを全力で駆け抜け、駐輪場に止めてあった自転車をひったくるように掴む。

 ペダルを漕ぐ足が異様に軽い。全身の血管を、どろりとした黒い熱が駆け巡っている。


 あの家へ。

 母さんの命を奪ってまで生き残った俺を、今日まで生かしてくれたあの地獄みたいな場所へ。

 

 俺は、お祖母さんを殺す。

 俺をゴミと呼ぶおじいさんも、一緒に殺す。

 そして最後に、俺自身も終わらせる。


 それが、母さんへの唯一の供養だ。

 それが、俺に許された唯一の「ケジメ」だ。


 視界が真っ赤に染まり、街の景色が歪んでいく。


 背後で長く伸びた影が、もはや俺自身の意志など無視して、獲物を追い詰める獣のように低く這い回っていた。


 ペダルを漕ぐ足が異様に軽い。全身の血管を、どろりとした黒い熱が駆け巡っている。

 辿り着いたのは、母の死と引き換えに俺が繋ぎ止められた、地獄のような”家”だった。


 門を突き破るような勢いで中へ入ると、玄関先には既にお祖母さんが立っていた。その顔は怒りに歪み、手に持ったスマホを俺に突きつける。


「やっと帰ってきたのかい! なんで電話に出ないんだ! この、恩知らずが……っ」


 罵声が鼓膜を打つ。いつもなら縮み上がるその声が、今はひどく滑稽に聞こえた。俺は無言で、ただ彼女を射抜くように睨みつける。


「……何だい、その目は」


 お祖母さんの声が震えた。

 彼女は気づいたのだ。俺の背後、西日に照らされた地面で、影がもはや人の形を保っていないことに。

 それは、獲物を追い詰める漆黒の狼のような獣の姿に変貌し、低く、低く唸りを上げながら這い回っていた。


「……ば、化け物! 何なんだい、あんたは!」


(そうだよ。俺は、化け物だ)


 俺は心の中で独白し、一歩、彼女へ踏み出す。

 復讐でも、憎しみでもない。ただこの”生”を終わらせるための義務として、俺はその細い首に手をかけようとした――。


 その時。

 

 唐突に、世界の音が消えた。

 風も、お祖母さんの叫びも、揺れる木々も。すべてが絵画のように静止する。

 その白んだ静寂の闇を割いて、一人の少女が姿を現した。


 黒い服。淡い金髪。そして、すべてを見透かすような赤い瞳。

 あまりの異常事態に、動くことすら忘れた俺を余所に、少女は静かに問いかけてくる。


 少女は至近距離で奏汰を見つめ、魂の奥底を暴くように、静かに、重く問いかけた。


「あなた。本当は、どうしたいの?」


 その問いは、奏汰が自分自身にさえ隠し続けてきた闇を、見透かしているように思えた。

 激しい動揺が脳内をかき乱すが、少女は構わず白く細い手を伸ばし、奏汰の頬にそっと触れる。


 その氷のような冷たさが伝わった瞬間、奏汰の唇が、本人の意志を無視して勝手に動き出した。


「俺は、死にたいんだ。……もう、許されたい」


 零れ落ちたのは、血を吐くような本音だった。

 それを聞いた少女の赤い瞳に、一瞬だけ、憐憫とも悲しみとも取れる色が過る。


「ごめんなさい。それは私にはできないわ。……けれど、可能性を高くすることは、できる」


 困惑する俺を見つめ、少女は鈴の音のような声で微笑んだ。


「大丈夫。同族のよしみで、助けてあげるわ」


 少女が、俺の目の前でお祖母さんの首にそっと手を触れる。

 まるで、愛しいものに触れるような手つき。その直後、逃げる暇も抗う術もなく、彼女の首は無慈悲に握りつぶされた。


「……っ!?」


「もう一つ、ね」


 少女は短く告げると、流れるような動作で奥の部屋へと姿を消した。数秒後。壁を隔てた向こう側から、おじいさんの、掠れた苦しそうな声が一度だけ聞こえ――そして、止まった。


 急に身体の自由が戻る。

 俺は弾かれたように奥の部屋へ走り、そこで血まみれになって横たわる祖父の姿を見つけた。


 静寂が、家を満たす。

 憎んでいたはずだった。殺したいと願っていたはずだった。


(それでも、家族だった……)


 なのに、肉親の死を目の当たりにして、俺の心は驚くほどに凪いでいた。

 それどころか、心の奥底から”解放された”という狂おしいほどの喜びが湧き上がってくる。


(……ああ、やっぱり。俺は……)


 自分への吐き気と、自由への歓喜。

 矛盾する二つの感情に、自我がミシミシと音を立てて崩壊していく。


「やっぱり……俺は、生きることなんて許されていないんだ」


 ポツリと溢れた呟きとともに、俺の内側から”闇”が決壊した。

 それはどろりとした漆黒の奔流となり、家の壁を突き破り、庭を飲み込み、街へと溢れ出していく。


 闇は瞬く間に広がり、周囲を漆黒の森へと変えていった。

 その森の中にいる、あらゆる生き物の鼓動、体温、怯え――。

 そのすべての気配が、手に取るように分かる。


 まるで、獣が自分の狩場にいる獲物を探知するように。


(……ハハッ。そうか。やはり俺は、化け物だったんだな)


 ならば、もういい。

 溢れ出す闇の衝動に身を任せ、化け物としてこの世界を蹂躙してやる。


 そう思った、その時だった。


 俺の”狩場”の隅に、二つのよく知る気配が触れた。


(……っ! 神代、それに、陽菜ちゃん……!?)


 脳裏に浮かぶのは、大学での平穏な時間。

 あいつらが俺を”奏汰”として受け入れてくれた、あの温度。

 

 あいつらを、こんな影に巻き込むわけにはいかない。

 俺は必死に、暴走しようとする自分の中の闇を、爪を立てるようにして抑え込んだ。


「……だめだ……っ、だめなんだよ……!」


 焦燥と絶望に苛まれながら、俺は闇の森の深淵で、誰にも届かない声を絞り出す。


「……誰か。……誰か、俺を殺してくれ」


 その願いに応える者は、まだ誰もいない。

 ただ、奏汰から溢れた闇の森だけが、夜の静寂の中で音もなく広がり続けていた。

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