やり直し。
腹部に走る鈍い衝撃で、意識が強制的に引きずり出された。
まどろみを切り裂いたのは、投げつけられた分厚い雑誌。
それが床に落ちる乾いた音を聞きながら、手探りで自分の体を確かめる。
ああ、朝か。
いつもと何も変わらない、平穏な朝だ。
何か言葉を投げかけられる前に、反射的に体を起こす。
そうしなくては、次に何が起きるか分かっている。より”辛いこと”を避けるための、体に染み付いた処世術。
(何が辛い――?)
……間違えた。今のなし、やり直し。
何かを言われる前に起き上がる。
今日も最高に楽しい一日が始まるんだ。
(そうだ、それでいい。それが正解だ)
低い天井に頭をぶつけないよう、慎重に”寝床”から這い出る。
戸が外され、物置と化した押し入れの下段。
それが俺に与えられた唯一の場所だった。
「おはようございます」
寝癖を直す間もなく、端座して丁寧に頭を下げる。
食卓に座る祖父と祖母に、昨日と寸分違わぬ角度で挨拶を。
足元に落ちた雑誌を拾い、元の場所へ返しておくことも忘れない。
「…………」
祖父が一度だけ、値踏みするようにこちらを横目で見た。だが、すぐに興味を失ったように手元の新聞に目を落とす。
よし。今日は特に、俺への「用事」はないらしい。
「ゴミ、出しといて」
こちらを見ることさえせず、祖母が部屋の隅にある膨らんだゴミ袋を指差した。
「わかりました。すぐに行ってきます」
よかった。今日は二人とも、驚くほど機嫌が良いようだ。
ゴミ袋を掴み、勝手口から外に出る。
肺に流れ込んできた朝の空気は、あの狭い押し入れの中よりもずっと冷たくて、けれどどこか現実味に欠けていた。
ゴミ捨て場までの短い道のり。
自分でも気づかないうちに、指先が微かに震えている。
「……あれ?」
ふと、自分の影が目に入った。
アスファルトに落ちたそれは、朝日の角度にしては妙に長く、そして、獣のような姿で、ドロリとした粘り気を持っているように見えた。
(大丈夫。今日も、いい日だ。そう決めたんだ)
影から目を逸らし、無理やり口角を上げる。
いつもの、誰からも好かれる”陽気な奏汰”の顔を作る。
ゴミ出しを終えて、祖父母の家に戻る。
うるさくして”ルール”を破らないよう、ゆっくりと玄関を閉めた。
「ん……」
お祖母さんが、玄関で俺を待っていた。差し出されたシワだらけの手、何かを催促しているように見えた。
(何だ……? ああ、そうだった。忘れるところだった)
慌てて財布を取り出し、中から紙幣を数えてお祖母さんに手渡す。
「はい、先月のバイト代です」
お祖母さんは、俺の手からお金をむしり取るように受け取ると、手慣れた様子で枚数を数え始めた。
これがこの家で俺が生活するための、”家賃”みたいなものだ。
数え終えたお祖母さんが背を向ける。その背中を、なんとなく眺めていた。
「なんだい、その目は」
(しまった!)
不意に振り返ったお祖母さんの顔が、不機嫌そうに歪む。
しまった、不用意に見つめるのは失礼だった。
彼女が怒るのは、当然だ。
「置いてやってんだ、文句でもあるなら出ていきな」
舌打ち混じりに吐き捨て、お祖母さんは廊下に置いてあった俺のバッグを放り投げた。
バッグの角が少し顔を掠めたけれど、これでお出かけの許可が出たようなものだ。
「文句なんてとんでもない、気を悪くさせてすみません」
バッグを器用にキャッチして、明るい声で返事をする。
「行ってきます!」
今日も家においてもらえたし、お祖母さんにお金も渡せた。うん、幸先のいいスタートだ。
(本当か――?)
ふいに、思考にノイズが走る。
(お前はどうして、こんな生活を受け入れているんだ?)
後頭部の奥で、知らない誰かが囁いたような気がした。
(お前は今、本当に幸せなのか?)
大学へ向かう道すがら、その声に強く引きずられるようにして、一つの記憶が浮上する。
胸の奥に何重にも鍵をかけてしまい込んだはずの、あの温かくて、眩しすぎた日常。
小学校低学年の頃、伊藤奏汰には母がいた。
母親くらい誰にでもいるだろうと思われるかもしれない。
だが、奏汰にとっては違う。
”いる”のではない。”いた”のだ。
母はとても明るく、向日葵のような笑顔が素敵な人だった。
それゆえに誰からも愛され、誰からも大切にされていた。
祖父母もまた、母のことを溺愛していた。幼い頃から、それこそ過保護と言われるほどに、彼女を可愛がっていたらしい。
奏汰にとっても、優しくて美人な母は、友人から羨ましがられる自慢の存在だった。
しかし、そんな完璧だった母親も、人生で”二つ”だけ過ちを犯した。
一つは、父親がわからない子供を身ごもったこと。
母はある日、いつの間にか奏汰を妊娠していた。
相手を尋ねても彼女は頑なに答えず、結局、父親を名乗る男が会いに来たことはこれまで一度もなかった。
それでも、できてしまったものは仕方ない。
命は、もう元には戻らないのだから。
そして、もう一つの過ち。
激しい炎が家を包んだあの日。
家の中に一人取り残された息子を助けるため、彼女は火の中に飛び込んでしまったこと。
そのせいで、母は死んだ。
代わりに、価値のない奏汰が生き残ってしまった。
それ以来、あんなに優しかったはずの祖父母にとって、奏汰は孫ではなく、最愛の娘を奪った”仇”になった。
(それで?)
無機質で、冷酷なまでに平坦な声が、再び思考の隙間に割り込んでくる。
まるで、ありふれた三流の悲劇を聞かされた観客が、退屈そうに続きを促すかのような響き。
「それだけ」
俺は誰に聞かせるでもなく、心の中でそう呟いた。
そう、それだけで充分だ。
理由なんて、それで完結している。
だって、それ以外は必要ないだろ?
死ぬべきなのは、俺だったんだから――。
その言葉を認めた瞬間、胸の奥に溜まっていた泥のような重みが、すとんと腑に落ちた。
愛する娘を奪った、忌々しい”おまけ”の命。
それを置いてやって、生かしてやっている。
祖父母が俺に向ける暴力も、搾取も、無視も。
それは正当な罰であり、俺がこの世に留まるために支払い続けなければならない”代償”なのだ。
だから、あの押し入れは俺にちょうどいい。
狭い。暗い。息が詰まる。
でも、文句は言えない。
言えない、はずだ。
ほら、やっぱり今日は最高の一日だ。
「俺はまだ生きることを許されている」
(俺はまだ死ぬことをみとめられていない)
……また間違えた。今のなし、やり直し。




