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異様な状況

 カーテンの隙間から差し込む朝日は、昨日までの不穏な闇を忘れさせるほどに明るい。


 けれど、重く蓄積した精神的な疲労はそう簡単には拭えず、御言はベッドの中で抗いようのない眠気とまどろみに身を任せていた。


「おはようございます、御言」


 不意に、至近距離で静かな声が響く。


 まどろみは一瞬で霧散した。

 目を開けると、当然のような顔をして勝手に戸を開け、室内に侵入してきたルトが立っていた。


「だから、勝手に入っちゃダメですってば!」


 慌てたような声に目を向けると、ルトの服の裾を掴んで必死に制止しようとしていたであろう陽菜の姿があった。

 陽菜は御言と目が合うと、寝起きの姿を晒させてしまった気恥ずかしさと申し訳なさで、顔を真っ赤にして何度も頭を下げる。


 休日の朝から、既に色々と面倒くさい。


「……ルト。お前、プライバシーの尊重とやらはどうした」


 重い溜息を吐き出しながら、上体を起こしてルトを睨む。


「プライバシーの尊重とは、他人から干渉や監視されず、安心して生活できることです」


 辞書を読み上げるような淡々とした口調で、ルトが答える。

 その瞳には”自分は一切間違っていない”という確信めいた光さえ宿っていた。


「勝手に部屋に入るのも過度な干渉だと思うが」


 御言が低く指摘すると、ルトは意外な答えを聞いたと言わんばかりの表情でこちらを見つめてきた。

 どうやら彼女の思考回路においては、自分と御言の間には干渉という概念すら存在していなかったらしい。


 これ以上何かを言うのも、それを説明して理解させるのも、今の頭ではあまりに労力がかかりすぎる。


「……もういい。飯にしよう」


 御言は反論する気力さえ失い、のろのろとベッドを抜け出してダイニングへと向かうことにした。


 「陽菜、一応ご両親に連絡は……」


 出来立てのトーストを口に運びながら、御言はさりげなく尋ねた。


 正直なところ、彼女に家族の話題を振るのは気が引ける。

 だが、未成年の女子が無断外泊したとなれば、世間一般では大問題だ。

 故に、確認しないわけにはいかなかった。


「しては、ありますが……特に何も、言われては、ない……ですね」


 陽菜は視線を落とし、言葉を絞り出すようにぽつり、ぽつりと漏らした。


 怒られたわけでも、心配されたわけでもない。

 勝手にしろ、とさえ言われなかった。


 その淡白すぎる反応に、彼女の家庭の冷え切った空気が透けて見える。


 これ以上、他人が口出しすることではないだろう。

 ただ、もし後で問題になるようなことがあれば、適当に話を合わせる。


 そう心に決めて、御言はこの話題を切り上げた。


「……それで、ルト。昨日のは何だ?」


 ずっと胸の奥に支えていた、一番の疑問をルトにぶつけた。

 陽菜も、箸を動かす手を止めてルトをじっと見つめる。


「私にもよくわかりません。ですが、あの森が出現する直前、何者かが境界に触れた気配を感じました」


 ルトはスープの湯気を見つめながら、感情の読めない声で言った。


「陽菜の時みたいに、それが誰かわかるんじゃないのか?」


 御言がふと疑問を漏らす。


「はい、通常であれば……ですが、昨日の気配はどこか違うものでした」


 そう言ったルトの表情は、不安なのか、焦燥なのか、それとも無関心なのか、どれともつかないものだった。


「そうしたら手の打ちようが無いな」


 御言は朝食を食べ終えて、皿を重ねて席を立つ。


 それを見た陽菜が「あ、私がやります!」と言って慌てて立ち上がり、御言から食器を受け取って洗い場へと向かった。


 昨夜の恐怖がまだ完全には消えていないはずだが、彼女なりにこの場に馴染もうとしているのが伝わってくる。


「はい、今の所は……」


 遅れてルトが小さく、申し訳なさそうに視線を伏せた。

 彼女にしては珍しく、自分の力不足を自覚しているような、少しだけしおらしい態度だった。


「分からないことを気にしてても仕方ない」


 慰めるつもりはない。

 だが、終わりの見えない謎に立ち止まっているほど、今の御言には心の余裕がなかった。


 気持ちの切り替えは、日常を守るための生存戦略でもある。


「さっぱりとした性格してますよね、神代さん」


 洗い物を終えた陽菜が戻ってきて、感心したように椅子に座る。


 ――違う、そうじゃない。

 消えた両親のこと、アリアのこと、昨夜の黒い森。

 そして、当然のように横に居座るルト。


 考えなければいけない問題が、許容量を超えて積み上がっている。

 それを一つずつ処理する気力も枯渇して、ただ”棚上げ”しているに過ぎない。


 足元の泥沼から目を逸らしながら、御言は他人事のように口を開いた。


「まあ、なるようにしかならないだろ」


 そう言って御言がコーヒーの残りを飲み干した時だった。


 テーブルの上で、彼のスマホが唐突に激しく震えだした。

 三人の視線が、震える端末に集中する。表示されている名前は”黒崎店長”。

 昨夜のあの疲弊しきった彼女の姿と、別れ際の「空気が重い」という言葉が、嫌な予感となって御言の胸をよぎった。


「……店長だ。ちょっとごめん」


 御言は短く断り、通話ボタンを押した。


「おはようございます、店長。どうしたんですか、今日は休みの……」


『すまない神代、今時間はあるか?』


 遮るように聞こえてきた黒崎の声は、いつもの凛々しさが影を潜め、ひどく掠れていた。

 周囲の雑音が一切聞こえない静寂が、かえって彼女の置かれている異様な状況を際立たせている。


「ええ、まあ。家でゆっくりしてたところですけど……何かあったんですか?」


『……悪いが、今すぐ店に来てくれないか。』


 黒崎店長の声はどこか遠く、スマホからは時折不可解なノイズが走っている。


「かまわないですけど⋯⋯何があったんですか?」


『奏汰が店に、来ない』


 その名前が出た瞬間、御言は思わず天井を仰ぎそうになった。


 奏汰。言わずとも知れた、陽気なことが取り柄のお調子者。

 そして、周知の事実として“遅刻常習犯”である。


「……またあいつですか。店長、落ち着いてください。どうせまた二度寝でもして、今ごろ焦って自転車漕いでますよ。少し待てば、間の抜けた顔して出勤してきますって」


『違うんだ、神代。あいつは朝、ちゃんと店に来ていたんだ。防犯カメラには、鍵を開けて中に入る姿が映っている。なのに、店内のどこを探してもいないんだ。バックヤードも、トイレも、どこを探しても……!』


 ノイズが一段と激しくなり、店長の悲鳴に近い声が途切れ途切れに響く。


『警察にかけようとしても、なぜか店内の電話もスマホもどこにも繋がらない……。神代、お前、あいつとは一番仲が良いだろ? あいつから何か聞いてないか? やっとお前に繋がったんだ、頼む、今すぐ来てくれ……!』


 そして、ブツッ、という不吉な音と共に、通話は強制的に切断された。


 店長は電話も繋がらない異常事態の中、唯一繋がった”奏汰の友人”である御言に、藁をも掴む思いで助けを求めたのだ。


「……っ!」


 御言は上着をひったくるように掴むと、靴を履くのももどかしく玄関へ向かった。


「御言? 状況が変わりましたか?」


 ルトの問いかけに、御言は振り返ることなく叫んだ。


「店長が危ないかもしれない。……それに、奏汰が店の中で消えた。ルト、行くぞ!」


「了解しました」


 背後で陽菜が息を呑む気配を感じながら、二人は階段を駆け下りた。

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