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街に漂い始めた”歪み”

 まだ戸惑いを隠しきれない御言と陽菜だったが、背後から響く鋭い声に意識を引き戻された。


「うるさいぞ! 何をそんなに騒いでるんだ」


 事務所の奥から、黒崎店長が少しいらだったような表情で立っていた。長い髪を乱暴にまとめ上げ、鋭い眼光の下には、はっきりと刻まれた隈が浮かんでいる。


「すみません、ちょっと虫がいたみたいで」


 御言が咄嗟に頭を下げる。

 嘘だ。しかし、本当のことを言ったところで、事情を知らない黒崎店長に正しく伝わるとは到底思えなかった。


「はい、私がちょっと驚いちゃって……すみません!」


 御言の嘘に陽菜が必死な様子で合わせ、勢いよく頭を下げる。


「……」


 ルトは、頭を下げている二人をぽかんと交互に眺めていたが、店長と目が合うと、思い出したようにワンテンポ遅れてぺこりと頭を下げた。


「……ったく。そんな大声出すなよ、心臓に悪いだろ」


 黒崎店長は、深々と頭を下げる二人を見て拍子抜けしたように溜息を吐くと、それ以上追及することなく事務所の奥へと戻っていった。


「……行ったか」


 御言が顔を上げると、そこにはまだ恐怖で顔を強張らせた陽菜と、何事もなかったかのように佇むルトの姿があった。


「ルト。さっきの、現実を侵食してるって言ったよな。……どういうことだ?」


 御言の声は、自分でも驚くほど低く沈んでいた。窓の外には、再び商店街の平凡な夜が戻っている。

 だが、一度”それ”を見てしまった以上、何もなかったことにはできなかった。


「……あれは」


 ルトが口を開こうとした、その時。


「すみませーん」


 静まり返った店内に、カウンターから客の呼ぶ声が響いた。

 そのあまりにも日常的な響きが、かえって御言の神経を逆撫でする。


「悪い、続きは帰ったらな。ルトは陽菜を家まで送ってあげてくれ」


 御言は思考を強制的に仕事モードへ切り替え、短く告げてカウンターへと戻っていく。

 背後で、戸惑いを隠せない陽菜の気配を感じながら。


「わかりました。行きましょう、陽菜」


 ルトは小さく頷くと、迷いのない動作で陽菜の手を取った。


「あ、うん……お疲れ様でしたー」


 陽菜は、ルトに引かれるまま、どこか上の空で御言の背中に声をかけた。


 自動ドアが開き、二人の姿が夜の街へと消えていく。

 御言は客の応対をこなしながら、二人が出ていったばかりの扉を盗み見た。

 そこにあるのは、相変わらずの街灯と、少し湿ったアスファルト。

 

 だが、自分の影がいつもより少しだけ濃く、長く伸びているような気がして、御言は無意識に拳を握りしめた。


 その後、バイトは何事もなく過ぎていった。

 先ほどの異質な空気が嘘のように、客は途切れ途切れに現れ、御言は淡々とレジを打ち、返却されたDVDを棚に戻した。

 あまりの”いつも通り”さに、先ほどの森は白昼夢だったのではないかとさえ思えてくる。


 深夜、最後の一人となった客を見送り、御言はレジを締め終えた。

 静まり返った店内に、レジの集計レシートを印字する機械音だけが虚しく響く。


「……店長、お先に失礼します」


 事務所のドアを軽く叩くと、中から「ああ」と短く返事があった。

 黒崎店長は、まだデスクでモニターと睨み合っていた。

 その横には、いつの間にか飲み干された空のコーヒーカップが三つ、積み重なっている。


「戸締まり、頼んだぞ」


「はい。……店長も、あまり根詰めないでくださいね。流石に働きすぎです」


 御言が少し遠慮がちに言うと、店長は一瞬だけキーボードを叩く手を止め、椅子をギシリと鳴らして背を向けた。


「わかってる。……それでも、こうして手を動かしてないと、どうも落ち着かなくてな」


 店長はそう言って、自嘲気味に口の端を上げた。

 その視線はどこか遠く、モニターの向こう側にある”何か”を見ているような、ひどく虚ろなものだった。


「……おやすみなさい、店長」


「ああ、おやすみ。神代、夜道は気をつけろよ。今日はなんだか、空気が嫌に重い」


 店長のその一言が、御言の背筋に冷たい粟を生じさせた。


 彼女は怪異を見たわけではないはずだ。

 それでも、極限まで摩耗した彼女の感覚は、この街に漂い始めた”歪み”を無意識に感じ取っているのかもしれない。


 店を出てシャッターを下ろすと、深夜の冷気が肺の奥まで入り込んできた。


 街灯の下、御言は自分の足元を見た。

 アスファルトに落ちる影は、やはりさっきよりも少しだけ、濃く、深い黒に染まっているような気がした。


 御言は、街灯の乏しい夜道を急いだ。

 背中にまとわりつくような、湿り気を帯びた空気を振り払うように。


 商店街を抜け、いくつかの角を曲がり、ようやく見慣れたブロック塀が御言を出迎える。

 ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。カチリ、と硬質な音が夜の静寂に響いた。


「ただいま……」


 独り言のように呟きながら、重い玄関の扉を押し開ける。


「あ、お帰りなさい!」


 暗い部屋の奥から、そんな明るい声が返ってきた。


 御言は、扉を掴んだまま硬直した。

 聞き慣れた、けれど、今この家にいるはずのない声。


「……陽菜?」


 思わず、その名前が口をついて出る。

 暗がりに目が慣れてくると、そこには、ルトに連れられて帰宅したはずの陽菜が、当たり前のような顔をして立っていた。


「えっと、ルトちゃんに連れてこられて……」


 御言と同じように、あるいはそれ以上に戸惑いの色を隠せない陽菜を見て、御言は深く、重い溜息を吐き出した。


「ルト。なんでお前が家に送ったはずの陽菜が、ここにいるんだ?」


 陽菜の隣で、まるで非の打ち所がない仕事を完遂したと言わんばかりの顔で立っているルトに尋ねる。

 彼女は一点の曇りもない瞳で御言を見つめ返し、不思議そうに首を傾げた。


「……? 陽菜を家に送りましたが」


 一点の迷いもない回答だった。

 なるほど、確かにここは”家”だ。嘘は言っていない。

 ただ、その前に”俺の”という接続詞がつくことに、致命的な違いがあるだけで。


 御言は指先で強く眉間を抑えた。


「……お前、送る家を間違えたとか、そういう次元じゃないだろ」


「何か問題がありましたか? 私は彼女を安全な場所……つまり、この『家』まで送り届けましたが」


 悪びれる様子もなく、むしろ”正解”を導き出したかのようなルトの態度に、御言の脱力感はピークに達した。

 隣では、陽菜が申し訳なさそうに、けれど少しだけ助かったような複雑な表情で立ち尽くしている。


「陽菜、悪かったな。遅くなったけど、今から家まで送るよ……」


 半ば諦め気味に目を伏せた御言だったが、すぐに頭を振って気を取り直し、目の前の少女に謝罪した。疲れ果てているのは自分だけではない。


「えっと……あの、この時間だと、多分もう鍵が開いてないので……」


 陽菜が申し訳なさそうに、消え入るような声で言った。

 一瞬、「鍵くらい持っていないのか」という言葉が喉元まで出かかったが、御言は昨夜見た彼女の精神世界を思い出し、その言葉を飲み込んだ。


(……持っているわけがないか)


 娘の存在を「いらない」と吐き捨てるような親が、わざわざ鍵を買い与え、居場所を保障するような真似をするはずもない。


「……そっか。ごめん、また変なこと言わせたな」


 御言は再度、今度はより深く陽菜に謝罪した。そして、隣で状況を飲み込めているのかいないのか、ぼんやりとこちらを見ているルトに視線を向ける。


「悪いけど、今日はもう遅い。陽菜、もしよければ……今日はルトの部屋に泊まっていってくれ。ルト、それでいいな?」


 御言の提案に、ルトは「ええ、問題ありません」と即座に、やはりどこか間の抜けた調子で頷いた。


「駄目だ、疲れた……色々あったし、今日はもう休もう」


 御言は、こわばった肩の力を抜くように小さく息を吐いた。

 店での異変、黒崎店長の不穏な言葉、そしてルトの間の抜けた”家”間違い。

 精神的な摩耗は、もはや限界に近い。


「明日は祝日だし、陽菜も休みだろ? ……詳しい話は、明日、頭がはっきりしている時にしよう」


 今は、黒い森の正体も、現実を侵食する理屈も、考えるだけで思考が霧に包まれるようだった。


「はい……。ありがとうございます、神代さん。おやすみなさい」


 陽菜はどこか救われたような表情で頷いた。


「おやすみなさい、御言。良い夢を」


 一方のルトは、やはりどこかズレた、穏やかすぎる声を残して陽菜を部屋へと促した。


 パタン、と扉が閉まり、リビングに静寂が戻る。


 自室に戻り、一人になった御言は重い体をソファに預け、天井を見上げた。


 静かすぎる。

 

 ふと、店長に言われた”空気が重い”という言葉が脳裏をよぎったが、御言はそれを無理やり振り払うように目を閉じた。


 眠りにつく直前、窓の外で風に揺れる街路樹の音が、まるで墨をぶちまけた黒い枝が壁を這う音のように聞こえた気がしたが、御言がそれを確かめることはなかった。

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