黒い森
大学の講義を終え、駅への道すがら御言はふと足を止めた。
「あ……ルト、どうしてっかな」
家に置いてきた天使の顔が脳裏をよぎる。常識があるのかないのかも怪しいあいつのことだ。
電子レンジを爆発させていないか、あるいは掃除と称して余計なものを壊したりしていないか。
一瞬、嫌な予感が背筋を走る。
「……まあ、いいか」
これ以上考えを巡らせるのも億劫になり、御言は思考を強制終了させた。
今はただ、日常の義務をこなすことだけを考えよう。
隣町の駅で電車を降り、夕暮れに染まる商店街の裏路地を抜けて店に入る。
「いらっしゃいませーっ!」
自動ドアが鳴ると同時に、陽菜の張りのある声が飛んできた。
昨夜の悪夢が嘘のような、いつもの彼女のトーンだ。
「陽菜、お疲れ」
「あ、神代さん! お疲れ様です!」
軽い挨拶を交わして事務所に入り、狭い更衣室でバイト用のエプロンを締める。
「神代か。まだ少し早いぞ」
デスクの上の古いパソコンと格闘しながら、黒崎店長が声をかけてきた。
「店長、相変わらず忙しそうですね」
「ああ……この前なんて、あまりの忙しさにAIに『分身の術のやり方』を聞いたくらいだ」
はっきりと刻まれた目の下の隈。
乾いた笑い声が、彼女の精神状態が限界突破していることを物語っている。
「それで、なんて言われたんですか?」
「『それは限界のサインです。休息を取ってください』だと。正論ほど役に立たないものはないな」
どこまで本気か判別不能な黒崎店長を置いて、御言はカウンターへと出る。
フロアでは、陽菜が山積みにされた返却ケースの山と格闘している最中だった。
「あ、神代さん! 助かります、これ……もう何がなんだか」
御言の姿を見るなり、陽菜は安心したように眉を下げた。手元のワゴンには、まだ棚に戻せていないDVDが溢れんばかりに積まれている。
「いいよ、代わる。」
御言がDVDを受け取ると、陽菜は「あはは……力不足で」と少し力なく笑った。
「残りはやっとくから。陽菜はカウンターで接客をしてくれ」
「はい! ありがとうございます!」
陽菜がカウンターに向かうのを見送り、御言は無心でケースを手に取る。
「御言さん、あの……」
だが、ふと彼女が申し訳なさそうにカウンターの隅を指さした。
「……あと”アレ”の返却も溜まってて……」
陽菜が顔を赤らめて指したのは、いわゆる大人のDVDだ。年齢制限と防犯上のルールで、女子高生の彼女はそのコーナーの奥まで入って作業をすることができない。
「了解。あとでやっとく」
思春期の少女にそれ以上気を使わせるのも酷だと思い、御言は短く応じた。
それから一時間。溜まったDVDを棚に戻し、店内の整理を一通り終える頃には、陽菜のシフトが終了する時間になっていた。
「お疲れ様でーす!」
弾けるような声で陽菜が店を出ていく。
入れ替わりに冷たい夜の空気が入り込み、静まり返った店内に自動ドアの閉まる音が響く。
――はずだった。
バタバタと騒がしい、焦燥に満ちた足音が床を叩く。
銀髪を振り乱し、一人の少女が店内に駆け込んできた。
「御言、大変なことが起きています」
それは、家で”ルスバン”しているはずのルトだった。
銀髪を激しく乱し、その端正な顔はかつてないほどの焦燥に染まっている。
「……ルト? お前、なんでここに」
驚く御言だったが、異変はそれだけではなかった。
一度店を出たはずの陽菜が、顔を真っ青にして、何かに追い立てられるように再び店内に飛び込んできたのだ。
「か、神代さん! ……外が、外が変なんです!!」
ただならぬ気配に、御言はカウンターを飛び出し、窓越しに店の外を覗き込んだ。
そこにあるはずの商店街の街灯も、アスファルトの道も、見慣れた看板も――すべてが消失していた。
代わりに広がっていたのは、墨をぶちまけたような不自然なほどに黒い森。
昨夜見た陽菜の精神世界と似ているが、決定的な違和感が御言の肌を粟立たせた。
闇を吸って成長したかのように、木々は枝の一本一本に至るまでどす黒く、幹に走る血管のようなものが脈動しているのが見える。
「何が、起きてるんだ……?」
光を寄せ付けない漆黒の樹木が、ビデオショップという文明の箱舟を包囲するように、どこまでも深く、重く連なっている。
店内の蛍光灯の青白い光が、窓を境にしてその”黒い森”に吸い込まれていく。
御言の呟きは、不気味なほど静まり返った絶望的な闇の中へと消えていった。
「ルト、これも誰かの精神世界なのか?」
御言は、窓を叩くように押し寄せる漆黒の枝を見つめながら問いかけた。
ルトは小さく、しかし重苦しく頷く。
「ええ、ですが……これは現実をも侵食しています。先ほどまでは、誰かが境界に触れた程度の希薄な気配でしたが、これはあまりにも強固で……」
ルトの眉間には深い皺が刻まれ、その淡い瞳は未知の事象を解析しようとするかのように細められている。彼女自身の理解すら追いついていないのか、唇が細かな考察をぶつぶつと、祈りのように紡いでいた。
「御言、このままでは――」
ルトが最悪の予測を口にしかけた、その瞬間だった。
視界が強烈な目眩を伴ってぐにゃりと歪んだ。
ビデオショップの床が液体のようにうねり、黒い森の輪郭が激しくブレる。
次の瞬間、耳を打ったのは、日常という名の「雑音」だった。
ガヤガヤと遠くで聞こえる通行人の話し声。
商店街のスピーカーから流れる、ブツブツと途切れ途切れの間の抜けたBGM。
そして、アスファルトの上を走る車の走行音。
瞬きをひとつした間に、窓の外にはいつもの見慣れた、少し汚れた裏路地の景色が戻っていた。
「……消えた?」
御言が呆然と呟く。
冷え切っていたはずの店内の空気が、湿り気を帯びた生温かい夜のそれへと、一気に書き換えられていた。
「今の、何だったんでしょう……」
膝を突き、震える声で陽菜が零した。
その問いに答えを出せる者は、ここには誰もいなかった。
窓の外には、さっきまでそこにあったはずの”黒い森”の欠片も残っていない。
街灯の光。
遠くで聞こえる救急車のサイレン。
アスファルトの匂い。
戻ってきた日常のあまりの鮮明さが、かえって先ほどの光景の異質さを際立たせていた。
ルトは未だに警戒を解かず、空色の瞳を虚空へ向けたまま立ち尽くしている。
御言もまた、ただ呆然と自分の掌を見つめることしかできなかった。
何かが起きている。
自分たちの預かり知らぬところで、世界の歯車が決定的に狂い始めている。
静まり返った店内に、古びた空調の低い駆動音だけが空虚に響き渡っていた。




