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妙な胸騒ぎ

 カーテンの隙間から差し込む容赦のない陽光が、御言の瞼を内側から焼き、眠りの幕を強引に引き剥がした。


「……ん」


 どこか遠くで、小鳥のさえずりが聞こえる。

 住宅街の朝を絵に描いたような、あまりに平和で、あまりに穏やかな目覚め。


 昨夜、あの暗闇の中で聞いた呪詛の合唱や、脇腹を貫いた棘の感触――それらすべてが、質の悪い悪夢だったのではないかと錯覚しそうになる。


 御言は重い身体をのろのろと起こし、ベッドの端に腰を下ろした。


「おはようございます、御言」


 鼓膜を揺らしたのは、鳥の声よりも澄んだ、しかし温度の低い声。

 視線を向ければ、部屋の隅、逆光の中にルトが佇んでいた。


 彼女は昨夜と変わらぬ、どこか超然とした佇まいでこちらを見つめている。


「……ああ。おはよう、ルト」


 寝ぼけ眼を擦りながら、御言は自分の脇腹を掌でなぞった。

 分かっていたが、痛みはない。傷跡ひとつない。

 

 だが、肌の下にこびりついた「死」の予感だけは、朝の光の中でも消えずに残っている。


「安心してください。御言の心拍数、体温、共に安定しています」


 ルトが淡々と報告を口にする。

 

「そうかよ。……ってお前、何でそんな所に居るんだ?」


 御言は大きく伸びをして、凝り固まった関節を鳴らした。

 視界の端にずっと居座っている異物――もとい、神の使いに眉をひそめる。


「昨晩、御言は家に帰るなりベッドに倒れ込み、そのまま眠りに落ちてしまいましたので。容態を観察していました」


 ルトは事も無げに答え、わずかに、本当にわずかに眠気を払うように目を擦った。その仕草に、彼女もまたこの世界のことわりに多少なりとも縛られていることを感じさせる。


「ああ……悪い。次からは隣の部屋を使ってくれ。勝手に使っていいから」


 申し訳なそうに御言が言うと、ルトは気にしていないといった素振りで首を振る。


「わかりました。以後プライバシーの尊重に気を遣うようにします」


 想定外の答えが返ってきたことに御言は頭を抱える。


「……頼むわ。さて、今日は大学の後にバイトか」 

 

 独り言のようにスケジュールを吐き出す。

 窓の外では、今日も昨日と変わらず世界が回っている。


 昨夜の吸血鬼も、精神世界の泥濘も、今はどこにも見当たらない。

 ただ、平穏を装った日常が、じわじわと真綿で首を絞めるような違和感を伴って、御言の全身を包み込んでいた。


 支度を済ませ、重い腰を上げて家を出る。

 背後からは、規則正しい、けれどどこか浮世離れした足音が一点の乱れもなく続いてくる。


「……何でお前までついてくるんだ?」


 足を止め、振り返りざまに御言が睨みつける。


「御言が、大学に行くと言ったので」


 ルトは至極当然のことを聞いたと言わんばかりに、不思議そうに問いを返してきた。


「大学に行くのは俺だけだ。……当たり前だろ」


 呆れを通り越し、天を仰ぎながら御言が返す。

 神の使いともあろう者が、まさか二十歳を過ぎた男の通学にまで付き添うつもりだったのか。


「では、私はどうすれば?」


 その瞬間、ルトが目に見えて愕然とした表情を浮かべた。

 自分の存在理由を突然見失ってしまったような当惑が、その瞳に溢れていた。


「……どうすればって。適当に家で留守番してりゃいいだろ」


「ルスバン……。それは、御言が戻るまで、私は一人でここに居ろということですか?」


 ルトの声が、心なしか心細げに響く。

 感情の起伏が乏しい彼女にしては珍しく、拒絶されたことへの小さな動揺が、その指先にまで滲んでいた。


「ただテレビでも見て、ゆっくりしてろってことだよ。たまには一人で羽を伸ばすのも悪くないだろ。……あ、羽はもう無いんだっけか」


 御言が少し茶化すように言うと、ルトは数秒間、その「ルスバン」という未知の概念を噛みしめるように黙り込んだ。


「……承知しました。では、御言の帰りを、私はここで待つことにします」


 どこか納得しきれない様子ながらも、ルトは静かに頷いた。

 玄関の扉の向こう側、取り残される一人の少女のような背中に、御言はわずかな罪悪感を覚えつつも、朝の住宅街へと歩き出した。


「ったく、調子が狂う」


 ただでさえここ数日、非日常が濁流のように押し寄せて心身ともに摩耗しているのだ。そこへ来て、訳の分からない天使の子守まで追加されてしまった。

 重い溜息を吐きながら、御言は大学までの道を、自分を律するようにゆっくりと歩く。


 だが、キャンパスの門を潜れば、そこには拍子抜けするほどに「いつもの日常」が広がっていた。


 教授の抑揚のない声が子守唄のように響く、退屈な講義。

 廊下ですれ違う学生たちの、中身のない他愛もない会話。

 

 かつては死ぬほど飽き飽きし、早く抜け出したいと願っていたはずの平坦な毎日。

 それが、今は絵画で見た外国の景色の様に遠く、懐かしく感じられた。


 ノートの隅に無意識に描いた、不格好な羽根の落書き。

 それを指先で塗り潰しながら、御言は自分の居場所が少しずつ、しかし確実にあちら側の世界へ引きずり込まれていることを自覚していた。


 どんなに平穏を装っても、隣にいたはずの冷たい気配がないだけで、視界が妙に広く、心細い。


「……あいつ、何してんだろ」


 ポツリと漏れた独り言。

 周囲の喧騒に掻き消されたその声は、かつてないほどに”日常”から浮き上がっていた。


「どしたん、神代。また一段と憂鬱そうな顔して」


 突如、背後から緊張感のない声が降ってきた。振り返るまでもない。御言の数少ない友人、奏汰だ。


「奏汰か。……いや、今日のバイト面倒だなって思っただけだ」


 嘘ではない。だが、その”面倒”の中身が、異界の怪物や天使の世話まで含んでいるとは口が裂けても言えなかった。御言は適当にあしらうように、視線を教科書へ戻す。


「今日は神代と陽菜ちゃんだっけ?」


 奏汰が手慣れた様子でスマホを取り出し、共有されているシフト表を画面に呼び出した。


「あと、黒崎店長な」


 付け加えるように御言が言うと、奏汰は顔をしかめて「うわぁ」と声を漏らした。


「あの人、これで14連勤だっけ? マジで漆黒ブラックな働き方してるよなー。死ぬぞ、普通」


 そんな軽口を叩きながら、奏汰が何かを言いかけようとした、その時だった。


 机の上に置かれた奏汰のスマホが、激しいバイブ音と共に震えだした。


「……ん?」


 画面を覗き込んだ奏汰の眉間が、一瞬で険しく寄る。

 先ほどまでのふざけた空気は一変し、彼はいつになく真剣な、どこか冷や汗を隠しきれないような表情でスマホを握りしめた。


「……悪い、神代。急用だ」


 それだけ言い残すと、奏汰は御言の返事も待たずに、弾かれたように教室を飛び出していった。

 

 残されたのは、不自然に断ち切られた会話と、妙な胸騒ぎだけ。

 御言は、奏汰が消えていった扉の向こう側を、ただ無言で見つめるしかなかった。

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