純粋な愛の残滓
見慣れていたはずの商店街は、今や跡形もなく黒い森に侵食されている。
その中でもライズアップがあるアーケード内は、巨大な生物の胎内を思わせる、粘膜質で赤黒い蔦に覆い尽くされていた。
シャッターの下りた店先、街灯の残骸。それら僅かに残る”日常”の輪郭が、かえってこの空間の異様さを際立たせていた。
やがて、視界の先にひときわ色あせた看板が闇に浮かび上がる。
レンタルビデオショップ《ライズアップ》。
どこか懐かしい、プラスチックと少し古い紙の匂いのする店。
御言や奏汰にとっては、単なるバイト先以上の、放課後の溜まり場のような、温かい居場所だったはずの場所だ。
「……ここだ」
御言の足が止まる。
だが、目に映る光景は記憶の中のそれとは無惨にかけ離れていた。
看板の「ライズアップ」という文字は、まるで腐った血を塗りたくられたようにどす黒く変色している。
その惨状に、思わず店内に目を向ける。黒い染みのようなものに覆われた窓ガラスの向こう、新作映画のポスターが踊っていたはずの場所には、無数の黒い手形が内側から押し付けられたようにびっしりと張り付いていた。
「……店長、中に居ますか!?」
陽菜が震える声で呼びかける。だが、返ってくるのは不気味な静寂だけだった。
「入るわよ」
痺れを切らしたようにアリアが指を鳴らす。
次の瞬間、自動ドアのガラスに無数の亀裂が走り、結晶となって砕け散った。
店内に一歩足を踏み入れると、腐敗した静寂を切り裂くように、どこからともなく声が聞こえてくる。
『奏汰⋯⋯あなただけでも、生きて』
それは、どこか優しげで、心に灯がともるような暖かさを覚える女性の声だった。
澱んだ闇に支配されていた店内に、その声が僅かな、けれど凛とした光を落とす。
「これは⋯⋯」
思わず御言は声を漏らす。聞き覚えのない声。
だが、その響きには奏汰に向けられた純粋で深い情愛が宿っており、この場に似つかわしくないほどに澄んでいた。
「命を賭した祝福、ですか。であれば⋯⋯」
ルトが感嘆したような声で呟くと、光が落ちた場所に静かに跪き、深く祈りを捧げる。
すると、足元に落ちていた光が呼応するように再び輝きを増し、ゆっくりと、波紋のように広がっていった。
光が触れるたび、粘つく蔦は剥がれ落ち、壁を覆っていたどす黒い染みは、まるで浄化されるように消えていく。
「……空気が、変わった?」
陽菜が驚いたような声をあげる。
什器や棚の一部は歪んだままで、完全に元の店内に戻ったわけではない。しかし、肺を圧迫していたあの重苦しい空気は、春の風にさらわれたかのように消え去っていた。
そこには、かつての《ライズアップ》が持っていた、どこか懐かしい日常の残り香が確かに漂っている。
「今の声……それに、この光は一体……?」
御言の問いに、祈りを終えてゆっくりと立ち上がったルトが静かに口を開いた。
「これは、お母様の声です。……奏汰さんの」
「奏汰の、母さん……?」
御言が言葉を失う。奏汰からは、もうずいぶん前に亡くなっていると聞いていた。
「ええ。死してなお息子を守ろうとする、あまりに強く、純粋な愛の残滓……。自らの魂を賭してまで、彼女は息子に『祝福』を遺した。それがこの歪な森の中で、唯一、彼が人の心を繋ぎ止めておける安息地を作り出していたのでしょう」
ルトの言葉には、同じく祈りに生きる者としての深い敬意が籠もっていた。
母親の願いが、獣に堕ちゆく奏汰を闇の淵で引き留める、最後の一線となっていたのだ。
だが、その光の届かないカウンターの最奥――。
一段と深い闇が溜まった場所に、何かが蠢く気配を、御言の肌が鋭く感じ取った。
「……した、奏汰。……んだ」
その気配の先、事務所の奥から黒崎店長が誰かと話している声がする。
奏汰――そう聞こえた。恐らく、あの獣だ。
御言は迷うことなくカウンターを飛び越え、事務所の扉を勢いよく開ける。
扉の向こうには、偽物の奏汰の背中と、それと対峙する黒崎店長の姿があった。
「よォ、神代⋯⋯今店長と大事ナ話をしてルから、待ってテくれヨ」
背中越しでもわかる、仮面を張り付けたような奏汰の笑顔。
やはり⋯⋯こいつは偽物だ。
「黒崎店長! 何を言ってるかわからないかも知れませんが⋯⋯こいつは!」
御言の言葉を遮るように、黒崎店長が手で制す。
「偽物だろう? 言われなくても分かる」
ため息混じりに、黒崎店長が奏汰の偽物を睨みつける。その瞳には、恐怖よりも深い苛立ちと、静かな怒りが宿っていた。
「お前はアイツよりバカみたいだな⋯⋯私の前で奏汰のフリをするとは、もう少しマシな演技をしろ。……それで、お前は何が目的だ?」
突き放すような冷徹な言葉。
偽物の「奏汰」は、その言葉を受けた瞬間、ピキピキと音を立てて首を不自然に傾けた。
「ナ、ゼ⋯⋯?」
店長に一蹴された偽物の声が、獣の唸りに似た濁音へと変わる。
奏汰の姿がメリメリと不快な音を立てながら歪み、膨れ上がっていく。肌を突き破って硬い毛が全身を覆い、口角は耳元まで裂け、その隙間から鋭利な牙が覗く。
赤黒く血走った瞳が、飢餓感に満ちた光を放った。
それは、古い伝承や創作の中でしか見たことのない姿。
「人狼とはな、面白い」
御言が言葉を失う中で、黒崎店長が内心を読み透かしたように低く呟いた。
変貌を遂げ、飛びかかろうとした「それ」に対し、彼女は微塵も動じない。
店長は最短の動きで踏み込むと、重心の乗った鋭い一蹴を、その獣の腹部へと叩き込んだ。
ドォォン! という肉を撃つ音と共に、巨躯を誇る人狼が紙屑のように吹き飛び、事務所の奥の棚を粉砕する。
「なっ……!?」
「店長……!?」
あまりの光景に、御言も陽菜も驚きのあまり声がまともに出ない。
か弱い一般人だと思っていた彼女が、化物と化した存在を真っ向から蹴り伏せたのだ。
粉塵の中、店長は乱れた前髪を無造作にかき上げ、唖然とする御言たちの方をゆっくりと振り返った。
「いい女ってのは、秘密がつきものだろ?」
悪戯っぽく、けれど有無を言わせぬ凄みを湛えて、彼女は不敵に微笑んだ。




