正体の分からない恐怖
息が詰まる感覚で、目を覚ました。
暗闇。
天井。
見慣れた染み。
「……」
自分の部屋だ。
御言はしばらく、呼吸だけに集中した。
肺が動く。胸が上下する。痛みは――ない。
ゆっくりと、胸に手を当てる。
何もない。
穴も、血も、傷跡も。
「……なんなんだ」
呟いた瞬間、唐突に“思い出した”。
胸を貫かれた感覚。
心臓を掴まれた感触。
息が止まり、視界が暗転していくあの瞬間。
むせ返るほど口内に充満する鉄の匂い。
生暖かく、べたつく血液の感触。
「っ……」
胃が裏返る。
御言は飛び起き、洗面所へ駆け込んだ。
便器に手をつき、吐き戻す。
胃の中身が空になっても、えづきは止まらなかった。
「はぁ……っ、はぁ……」
蛇口をひねり、口をすすぐ。
鏡に映った自分の顔は、ひどく青白い。
「ここは……現実、だよな」
誰にともなく問いかける。
部屋はいつも通りだ。
安物の家具。散らかった床。閉め忘れたカーテン。
窓から陽光が差し込み、薄暗い室内を照らし出している。
現実だ。
少なくとも、見た目は。
押し寄せる痛みの記憶と、正体の分からない恐怖。
それらを振り払うように、御言は首を振った。
「……大丈夫だ」
ゆっくりと自分に言い聞かせる。
「きっと、悪い夢だ」
そうでなければ困る。
部屋に戻り、何気なく自分の服を見る。
そこで、違和感に気づいた。
シャツの胸元。
心臓の位置に、はっきりと穴が空いている。
「……は?」
恐る恐る指でなぞる。
布は裂けているのに、下の肌は無傷だ。
これを夢だと断じるには、現実的すぎた。
御言は呼吸を整え、壁に掛かった時計を見る。
時刻は、朝の六時。
いつも通りの時間だ。
「……予定、確認しよう」
震えそうになる指で、スマホを手に取る。
午前中は大学。
講義が二つ。
昼は友人と学食。
他愛もない予定。
昨日と、何も変わらない一日。
「……行ける」
そうだ――行かなければならない、ではない。
行ける、だ。
まだ日常が続いているなら、自分も続かなければならない。
でなければ、この非現実を受け入れなければならなくなってしまう。
御言は着替えを済ませ、穴の空いたシャツをゴミ袋の奥底に突っ込んだ。
後は考えない。
考え始めたら、戻れなくなる。
玄関を出ると、朝の空気が冷たかった。
現実は、相変わらず無遠慮だ。
「おはようございます! 神代様」
横合いから急に声をかけられ、身体が跳ね上がる。
視線を声の方向に向けると、微笑みながらこちらを見つめる少女の姿があった。
「あー⋯⋯昨日の、宗教の⋯⋯」
朝から面倒くさい手合いに絡まれてしまった。
わざわざ表札を確認し、名前を呼んで距離を詰めてくるところがより面倒くさい。
「宗教ではありません。天使です」
少女は少し不満そうに口を尖らせる。
自らを天使と自称する銀髪の少女、正直関わり合いになりたくはない。
「心の準備は整いましたか?」
「いえ、まずは7日間ほど滝で身を清めて心を洗い流す必要があるのでまだかかります」
再度適当なことを言って足早に立ち去る。
やはりこういう手合は、まともに相手をしないようにするのが一番だ。
自称天使から逃れ、大学へ向かう途中友人と合流する。
「神代おはよ。なんか顔色悪くない?」
軽くこちらの顔を覗き込むと、友人――伊藤奏汰はそう言った。
「寝不足」
軽く手を振って挨拶をしながらぶっきらぼうに答える。
「またかよ、何があったんだ? また夜通しゲームでもしてたのか?」
笑い合う。
適当に返事をする。
いつもの日常。
その後も講義を受け、ノートを取り、くだらない話をする。
世界は、何事もなかったかのように回っている。
御言も、それに合わせて回る。
――この時は、まだ思っていた。
あれは夢だった、と。
現実は、ちゃんとここにある、と。
講義が終わり、夕方になる。
キャンパスを出る頃には、朝の違和感は意識の底に沈んでいた。
完全に消えたわけじゃない。
ただ、触れなければ静かでいてくれる程度には収まった。
「神代」
背後から声をかけられる。
振り返ると、奏汰が手を上げていた。リュックを片方の肩に引っ掛け、いつも通りの軽い足取りだ。
「今日のバイト、シフト誰が入ってたっけ?」
スマホを取り出してカレンダーアプリを起動する。
「今日は……伊藤兄妹と、店長」
俺がそう答えると、奏汰は一瞬固まってから、露骨に顔を歪めた。
「マジかよ。俺、今日休みだと思ってたわ」
奏汰は慌てたようにスマホを取り出して時間を確認し、舌打ちする。
「悪い、急いで帰って支度しねーと」
「おう」
俺は手を振りながら応じた。
「あ、そうだ。俺、返却するものあるから、後でよろしくな」
一瞬の間。
奏汰はニヤッと笑った。
「アダルトか?」
「違ぇよ」
そう言い終わる前に、奏汰は逃げるように走り出す。
「じゃーな! また後でな!」
その背中に、思わず舌打ちをした。
「……あいつ」
少しムカつく。
でも、不思議と嫌な気分じゃなかった。
こういうやり取り。
くだらない冗談。
何も考えなくていい時間。
胸に手を当てる。
朝みたいな痛みは、もうない。
「……悪くないな」
小さく呟いて、俺は帰路についた。
この時はまだ、この“悪くない”という感覚が、身近な存在としてあった。




