世界に暗闇が、落ちてくる。
かつて死にたかった自分が、生きるしか無いと奮い立った自分が、今の自分を見たらどう思うだろうか。
大学生活が始まったからといって、世界が変わるわけじゃない。
講義に出て、ノートを取り、適当に相槌を打ち、終わればアパートに帰る。夕方になったらレンタルビデオショップへ行き、レジに立って、返却されたケースを拭く。
それだけだ。
変化があるとすれば、両親が海外に行ったことくらいだろう。
盛大な事を言って、それでも何も変わらないのもまた現実。
くだらないと息巻いた所で何か変わるわけでもない。
アメリカ人の父と日本人の母は、大学入学と同時にあっさり日本を離れた。今は一人暮らしだ。静かで、気楽で、少しだけ広すぎる家。
絶望しているわけじゃない。
かといって、希望に満ちているわけでもない。
五年前に比べれば、だいぶマシだ。
それだけは確かだった。
それでも日常と言う化け物は、誰にでも平等に襲いかかる。
逃げる事は出来る、でも逃げないと決めた。
その日の夕方、バイトに出かけようと玄関の扉を開けた瞬間、鈍い音がした。
「――っ」
柔らかい感触と、間の抜けた声。
扉の向こうには、少女がいた。
「……あ」
どうやら、俺が勢いよく開けた扉が、彼女の額に直撃したらしい。少女はしゃがみ込み、両手で頭を押さえている。
「えっと、すみません⋯⋯」
反射的に謝ると、少女はゆっくり顔を上げた。
小柄で、白いワンピース。年は十代半ばくらいだろうか。妙に整った顔立ちをしている。
日本ではあまり見ない銀色の髪に青色の瞳。
謝ったはいいが、言葉は通じているだろうか。そんな不安が頭の中を走る。
「いえ、大丈夫です。私が近づきすぎていました」
そう言って立ち上がり、姿勢を正す。そして、やけに流暢な日本語で言った。
「始めまして。私は見習い天使のルトです。貴方に、助けてほしい人達が居ます」
一秒ほど、理解に時間がかかった。
「……は?」
見習い天使。
助けてほしい人達。
ああ、なるほど。そういう手合いか。
「間に合ってます」
俺は靴を履きながら言った。
「親父が神父なんで」
これは嘘ではない。
ただし、今のところそれを有効活用する気はなかった。
ルトと名乗った少女は、慌てた様子で首を横に振る。
「いえ、そういう意味ではなくて! 本当に、私は天使で……!」
「はいはい」
頭の中で、宗教勧誘という文字がくっきり浮かんだ。
正直、今は相手をしている余裕はない。
「詳しい話はまた今度にしてください。準備が必要なんで」
俺は少女の顔を見ずにそう言うと家の鍵を閉める。
「準備、ですか?」
「ええ。心の」
適当に言い残し、俺はその場を離れた。
自称天使が背後から何か言っていた気もするが、聞かなかったことにする。
その日のバイトはいつも通りだった。
客は少なく、閉店間際には暇を持て余していた。
バイト仲間と新作のゲームや、彼女が欲しいなどのくだらない話をしながら時間を潰す。
たまにやってくるマネージャーにさえバレなければ何してても怒られることはない、ある意味最高の職場だ。
深夜二時半。
他のバイトを先に返し、一人で締めの作業を終わらせて店を出た。
外はいつの間にか雨が振っていて、傘を持ってこなかった事に軽く舌打ちをする。
家に向かう道を歩いていると急に違和感を感じる。
理由は分からない。ただ、胸の奥がざわつく。
俺はフードを深くかぶり、雨の中を走った。
そして、急に雨が止んだ。
「……?」
不思議に思って立ち止まり、空を見上げる。
雲はある。雨雲だ。なのに、俺の周囲だけが濡れていない。
よく見ると、空気が歪んでいる。
透明なドームのようなものが、辺り一帯を覆っていた。雨粒が、それに弾かれて流れ落ちている。
止んだ、というより――遮られている。
「やっと見つけた」
背後から声がした。
振り返ると、少女が立っていた。
さっきのルトとは違う。背が低く、黒い服を着ている。赤い瞳が、じっと俺を見つめていた。
「……誰だ」
「ウガツヒ、貴方を探していたの」
少女は俺をそう呼んだ。
誰だそれ、知らない名前だ。
「⋯⋯人違いでは?」
少女が微笑む。
心臓が嫌な音を立てた。
「やっと見つけた」
少女が一歩、こちらへ近づく。
直感が警鐘を鳴らす。
ここにいてはいけない。
俺はゆっくり後ずさった。
「待ちなさい」
声は穏やかだが、逃げ道はないと理解した。
一瞬の隙を見つけ、背を向けて走る。
「はあ……」
ため息。
次の瞬間、指を鳴らす音がした。
虚空からパタパタと激しく雨が叩きつける音がする。
いや――何もない空間から無数のコウモリが飛び出していた。
黒い塊が一気に押し寄せ、俺は逃れようと腕を振り回した。
「くっ……!」
視界が塞がれた、その瞬間。
胸に、冷たい衝撃が走った。
少女の手が、俺の胸を貫いている。
心臓を、掴まれている。
息ができない。
激しい痛みが、全身を支配する。
「――――」
声にならない声を上げたところで、意識が途切れた。
世界に暗闇が、落ちてくる。




