すべてを見透かすような真紅の双眸
戻ってきた。
そう実感するよりも先に、御言を襲ったのは奇妙な違和感だった。
口内に充満していた鉄臭さは霧散し、全身を焼き焦がしていた激痛も、嘘のように消え失せている。
「精神世界での負傷は、現実の肉体には影響しません」
不思議そうに自身の身体を確認する御言へ、ルトが淡々と告げる。
「もちろん、精神の磨耗に心が耐えきれず、死を選ばなければ……の話ですが」
付け加えられた言葉の意味を、御言は即座に理解した。
「心が死ななきゃ、肉体も死なないってわけか。……便利だな」
ルトは肯定するように、小さく頷いた。
そんな二人のやり取りを、ただ呆然と見つめていた陽菜が、震える声を上げる。
「えっと……? 私は、どうなって。神代さん、と……その、隣のあなたは」
困惑を隠せない様子で、御言とルトを何度も交互に見つめる陽菜。
あの「殻」の向こう側にいたときのような、虚無感に満ちた瞳ではない。
「あー……説明はバイトが終わってからな」
ぽん、と。
御言は陽菜の頭に軽く手を置くと、あとで待ってるとだけ言い残して店を出た。
少し遅れて、ルトが静かな足取りでその後を追う。
陽菜のシフト終了まで一時間も残っていない。御言は近くのコンビニで時間を潰すことにした。
喫煙所の前でタバコに火を点け、紫煙と共に空を仰ぐ。
群青に染まり始めた空が、緩やかに夜の訪れを知らせようとしていた。
「喫煙は、喫煙者自身の癌リスクを著しく高めます」
ルトがパッケージの注意書きをなぞるような、無機質な言葉を投げてくる。
「知ってる」
一瞥し、興味なさげに煙を吐き出す。
「受動喫煙は、周囲の人間に対しても重篤な悪影響を及ぼします」
御言は軽く舌打ちをした。
「……お前、天使だろ」
なるほど、と。ルトは何かを納得したような表情を見せる。
「訂正します。受動喫煙は、周囲の天使の気分を著しく害します」
(それはただの、お前の主観だろ)
喉まで出かかったツッコミを、煙と一緒に飲み込む。
「じゃあ、どっか行ってろ」
御言は再びタバコの先を見つめ、思考を巡らせる。
今日起きたこと。そして、これからのこと。
自分に一体何をしろというのか。
自分に一体何ができるというのか。
結局、確かな答えは出ないまま、短くなったタバコを灰皿に押し付けた。
「……まあ、関係ないか」
誰に何を強制されるわけでもない。自分がやりたいと思うことをやる。
それだけが、今の御言に出せる唯一の答えだった。
「あのっ、神代さん……!」
遠慮がちな声に、意識を現実に引き戻される。
振り向くと、私服に着替えた陽菜がそこに立っていた。
「伊東さん、お疲れさま」
御言が労うと、陽菜は少しだけ不満げに頬を膨らませた。
「……”陽菜”でいいです」
唐突な要求に、御言の脳裏に一つの懸念が浮かぶ。
「言っとくが、結婚はしないぞ」
念を押すように言ってみる。
「あれは! その、忘れてください!」
顔を真っ赤にして慌てる様子に、御言は確信する。やはり彼女は、あの精神世界での出来事をすべて鮮明に覚えているらしい。
「冗談だよ。とりあえず――家まで送る」
駅までの道すがら、御言は静かに話をしていった。
自分自身のこと、ルトのこと。
そして、天使から、あるいは両親から告げられた”異能”という不条理な現実について。
「……なんだか、アニメみたいですね!」
陽菜がすべてをどこまで理解したのかは分からない。だが、彼女の瞳はかつてないほどに輝いていた。
(そう言えばこいつ、アニメの話になると止まらないタイプだったな……)
興奮気味にルトへ質問攻めを仕掛ける陽菜を見つめながら、御言は軽くため息を吐く。
けれど、その騒がしい光景に、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
幸せな余熱を孕んだ夜の静寂が、唐突に”断絶”された。
話し続けていた陽菜の声が消え、街の喧騒も、風の音も、まるで再生を停止されたかのように消失する。
この場に流れるのは、生命の気配を感じさせない絶対的な静寂。
「御言。――来ます」
ルトの声が鋭く響く。
陽菜が怯えたように御言の背後に隠れるのと同時に、その少女は現れた。
アスファルトの冷たい路上。
街灯の光を反射して、神々しいまでの金髪が夜闇に溶けず浮き上がっている。
少女はゆっくりと顔を上げた。
そこにあるのは、すべてを見透かすような真紅の双眸。
その赤眼と視線がぶつかった瞬間、御言の脳裏に激しい既視感が走った。
「お前は……」
いつ、どこで会ったのか。
思い出そうとするよりも先に、本能が警鐘を鳴らす。
目の前に立つその少女から放たれるのは、ルトの静謐な神気とは対照的な、傲慢なまでの威圧感だった。
「あら……勿体ない。その娘、影が戻ってるじゃない」
静寂を裂いたのは、あまりに場違いなほど軽やかな少女の声だった。
陽菜を一瞥した謎の少女が、心底つまらなそうに肩をすくめて呟く。
(影が、戻る――?)
御言の脳裏に、あの精神世界での光景がフラッシュバックする。
周囲の認識から零れ落ち、泣きながら闇に沈んでいった陽菜の姿。
あのまま彼女が消滅していれば、少女の言う”影”とやらはどうなっていたのか。
勿体ない、だと。
喉でも頭でもない。
身体の奥底、魂のさらに深い場所から、どろりとした怒りが沸き上がってくる。
「誰だ、あんた」
低く、地這うような声で御言は少女を睨みつけた。
「忘れたの?」
少女はくすりと艶やかに微笑むと、手元でワイングラスを掴むかのような優雅な仕草を見せつける。
その瞬間、御言の全身から嫌な汗が噴き出した。
心拍が跳ね上がり、呼吸が浅くなる。
(そうだ。こいつは――)
なぜ忘れていられたのだろう。
目の前に立つ少女は。先日、バイト帰りの道中で御言の前に現れ、そして。
何の意味もなく、御言の心臓を握り潰した存在だ。
「……夢じゃ、なかったのか」
掠れた声が漏れる。
胸の奥、一度死んだはずの場所が、逃れようのない恐怖に激しく疼き始めた。




