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このクソったれた世界に――光あれ

 拒絶。

 それは、あまりに無慈悲で、一片の容赦もない回答。


「御言――」


 ルトが、思わずといった様子で差し伸べようとした手を、御言は鋭い視線ひとつで制した。


 吹き飛ばされた衝撃。左腕はあらぬ方向に曲がり、力なくぶら下がっている。

 肺からせり上がった鉄錆の味が、口内を支配していく。


 それでも、御言は立ち上がる。


 震える右腕で泥濘ぬかるみを押し上げ、溜まった鮮血を吐き捨てた。

 

 痛みは、ある。

 意識を白く塗り潰すほどの激痛が、神経を焼き焦がしている。


 だが――。


「ってーな……クソが」


 それよりも、底から沸き上がる感情が勝った。

 純粋な、そして行き場のない怒り。


 伊東陽菜を蝕み続けるこの世界が。

 自分で自分をゴミのように定義する伊東陽菜が。


 そして何より、そんな彼女に同族嫌悪に似た共鳴をしてしまう自分自身が、堪らなく許せなかった。


「伊東さん――」


 呼びかけて、一度言葉が止まる。

 こんな自分が、一体何を言おうというのか。

 人にしたり顔で説教を垂れ流せるほど、自分は立派に生きてきたのか。


 ふと浮かんだ迷いを、御言は力任せにねじ伏せた。


「陽菜、聞いてくれ……。俺だって、死にたいと思っていたことがある」


 僅かに、闇の揺り籠が震えた気がした。

 返事はない。それでも、独白を続ける。


「朝、目が覚めるのが嫌だった。目を閉じたまま、二度と呼吸が戻らなければいいと思ってた」


 唇の端を吊り上げる。自嘲の笑み。


「理由なんて大したもんじゃない。誰かに嫌われただとか、生きる意味がわからないとか、その程度のありふれたもんだ」


 血が喉に絡み、激しく咳き込む。

 視界が明滅する。それでも、言葉を止めるわけにはいかなかった。


「でもな……それでも、俺は生きてる」


 誇らしげな宣言でも、力強い励ましでもない。

 ただ、心臓が動いているというだけの、残酷な事実。


「泥の中だよ。抜け出せたわけじゃない。今もずっと、汚れたままだ」


 御言は一歩、前へ。

 踏み出した足元が、自らの血で赤く滲む。


「でもさ……一人で沈むなよ」


 怒鳴りはしなかった。優しくもなれなかった。

 ただ、絞り出す声が、微かに震えている。


「俺も沈んでる。同じ泥だ。……違うのは、そこで手を伸ばすかどう。それだけだ」


 隣で、ルトが息を呑む気配がした。

 揺り籠を構成する闇が、軋むような音を立てる。


「お前が自分を『いらない』と定義するなら、俺はそれを否定してやる」


 痛みが限界を超え、景色が白く遠のいていく。

 薄れゆく意識を繋ぎ止め、ただ一点を見据えた。


「俺は、お前が嫌いじゃない」


 祈るような静寂。


「だから、勝手に消えるな」


 世界が、張り詰めた弦のように鳴った。

 限界だった。御言の膝が崩れ、重く地面に落ちる。

 それでも、折れかけた首を上げ、視線だけは逸らさなかった。


「……選べ」


 息も絶え絶えに、最後の定義を突きつける。


「死にたいなら、止めない。でも、それはお前自身の意志で選べ。……クソみたいな他人の言葉に、自分の終わりを預けるな」


 滴り落ちる血が、闇の地面を叩く。

 朦朧とした視界の中で、御言は確かに笑った。

 誰よりも弱く、泥に塗れた顔のままで。


「本当に――?」


 陽菜を乗せた揺り籠が、静かに闇の深淵へと沈み込む。


 代わって目の前の闇が醜く盛り上がり、そこから陽菜が這い上がるように姿を現した。


 彼女は、縋るような手つきで御言に指を伸ばす。


「じゃあ、神代さんは私を必要としてくれる?」


 その瞳には、狂気にも似た切実な光が宿っていた。


「私の傍に……ううん、私と結婚してくれる?」


 結婚。

 誰も自分を必要としていないと感じてきた彼女にとって、契約という絶対的な証こそが、唯一信用に値する「居場所」の定義なのだろう。


「断る」


 御言は、その震える手を無造作に振り払った。


「私がいらないっていうのを否定してくれるんでしょ? ……嘘だったの?」


 裏切られた、という絶望が彼女の顔を歪ませる。

 呼応するように地面から闇が棘となって突き出し、御言の脇腹を容赦なく貫いた。


「――っ。嘘じゃ、ねえよ……」


 御言は苦痛に顔を歪ませながらも、退かずに陽菜を見つめ返す。


「でも……結婚とか、付き合うとか、そういう条件付きの話じゃないだろ?」


 陽菜は理解できないという顔をして、御言の顔を覗き込む。


「こうだから、一緒にいる。何かをしてくれるから、居ても許される……。そんな、対価を求められるくだらない世界に、お前は絶望してたんじゃないのか?」


 ぱきり、と世界に最初の亀裂が走った。


「俺はお前と結婚はしない。だが、俺はお前がお前のまま、何もしてくれなくても、俺を喜ばせてくれなくても――嫌ったりはしない」


 亀裂は蜘蛛の巣のように広がり、闇の世界が形を崩し始める。


「俺たちは、死にたくても死ねなかった。なら、傷を舐め合ってでも、惨めに生きているしかない」


 歪みが限界に達し、頭上の闇が剥がれ落ちていく。


「御言!」


 それまで静観していたルトが、鋭く名を呼んだ。

 御言は口の端に溜まった血を拭い、苦笑して頷く。

 

 絶望の殻を破る、最後の一言を口にする。


「このクソったれた世界に――光あれ」


 ルトが静かに瞳を閉じ、その場に跪いた。

 彼女の指先から、純白の粒子が溢れ出す。


「父と子と聖霊の御名において――」


 歌うように、聖句が告げられる。


「かくあれ」


 直後、世界は白一色の閃光に塗り潰された。

 怨嗟の声も、呪詛の霧も、すべてが光の奔流に飲み込まれ、浄化されていく。


 不意に、鼻を突くアルコールの匂いと、規則正しい電子音が耳に届いた。


 目を開ければ、そこは見慣れたビデオショップのカウンター前。

 先ほどまでの闇が嘘だったかのように、三人は元の現実に立ち尽くしていた。

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