闇で象られた醜悪な揺り籠
べたべたと粘つく怨嗟の声が、御言の足首に絡みつく。
それは彼女を守るための防壁か、あるいは、外の世界へ逃がさないための鎖か。
「あの伊東陽菜って子、なんか浮いてるよね」
「わかるー。話しかけても、私はあなた達とは違いますー、ってオーラ出してくるし」
先ほどとは違う、刺々しい少女たちの声。
教室の隅で、無意識に、あるいは意図的に投げつけられた言葉の礫。
「みんなに合わせなきゃ。楽しそうに笑わなきゃ……」
それに答えるように、伊東さんのか細い声が重なる。
「あれ……? 私って、どんな顔で笑ってたんだっけ?」
その呟きは、彼女自身の輪郭を溶かしていく。
「御言――来ます」
ルトの鋭い声と同時に、足元の闇が蠢いた。
地面が脈打ち、影が泥のように盛り上がり、急速に「形」を手に入れ始める。
現れたのは、伊東陽菜に似た「何か」だった。
背格好、着古した制服。
それは間違いなく彼女の模倣。
けれど――顔が、無かった。
本来あるべきはずの場所に闇の渦が巻いている。
鏡を見失い、自分を定義できなくなった彼女の成れ果て。
「なんだありゃ……」
「陽菜の闇から作り出された化性。彼女が捨てた『自分』の残骸のようなものです。倒してしまっても、本体に影響はありません」
ルトが平然と、事務的なトーンで言い切る。
倒す。あの伊東さんの姿をしたものを。
どうやって――そう問いかける前に、顔のない化け物が跳ねた。
ルトが御言の前に割り込み、無造作に手をかざす。
展開された光の障壁が、化け物の鋭い爪を火花散らしながら弾き返した。
「御言、急いで欲しいのですが⋯⋯」
「言われなくても! でも、どうやって戦えってんだ!」
ルトは光の障壁を維持したまま、わずかに首を傾げた。
そして、何でもないことのように付け加える。
「伝え忘れていました。ここは精神世界――あなたの言葉は、理を超えて本来の力を発揮します」
相変わらず、この天使の説明は抽象的で不親切だ。
「御言は”そうあれ”と『定義』すればいいのです。あなたが望めば、あなたの手が届く範囲は、そのように書き換えられます」
理屈じゃない。
自分の内側にあるイメージを、現実として出力しろということか。
御言は右手を虚空へ突き出し、強く、その輪郭を脳裏に描く。
「――剣よ、あれ」
掌に熱い光の渦が奔る。
それは瞬時に粒子を凝縮させ、鉄の重みと鋭利な刃を持つ「形」へと変貌した。
手応えはある。
完成と同時に、御言は前傾姿勢で爆発的に地面を蹴った。
ルトの横をすり抜け、無貌の化け物へ肉薄する。
一閃。
振り下ろした刃が、グネグネとした闇の肉を断ち切る確かな感触。
顔のない化け物は、断末魔すら上げることなくもとの闇へと還っていった。
「悪いな。これでも魔物退治には慣れてるんだ」
――夢の世界で、だけどな。
小さく独り言を付け足し、手にした剣を払う。
この不条理な世界で、ようやく自分の足で立っている実感を得た気がした。
剣を消し、御言はルトと共に闇の深層へと突き進む。
道中、幾度も「形を失った悪意」が這い寄ってきたが、そのすべてを断ち切り、踏み越えていった。
やがて、その場所に行き着く。
それは、闇で象られた醜悪な揺り籠だった。
どろりとした黒い粘液が血管のように脈打ち、外界を拒絶するように幾重にも絡みついている。
その歪な中心で、彼女は眠っていた。
膝を抱え、小さく、今にも消えてしまいそうなほど頼りない姿で。
「伊東さん!」
御言が声を張り上げる。
その声に反応するように、少女の長い睫毛が微かに揺れた。
ゆっくりと、焦点の定まらない瞳が御言を捉える。
「……神代、さん?」
夢でも見ているかのような、虚ろな声。
なぜ彼がここにいるのか。それを疑問に思うよりも先に、凍えきった彼女の表情に、微かな――本当に微かな安堵が灯った。
見つけてくれた。
こんな底の底まで、彼は来てくれた。
だが、その安らぎは瞬時に塗り潰される。
『期待外れ』
『死ねばいいのに』
『お前の代わりなんて、いくらでもいる』
周囲から溢れ出した怨嗟が、鋭い刃となって彼女を突き刺す。
「あ、……ああ……」
「違う……違うの……」
それでもその声は、どこか自分の声に似ていた。
陽菜は弾かれたように自分の肩を抱き、耳を塞いだ。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
私なんかが生きていて、ごめんなさい。
それは、彼女が心の奥底に沈めていた、ありのままの絶望。
自分を「罪」だと定義してしまった少女の、逃げ場のない叫びだった。
「伊東さん、落ち着け! それはお前の声じゃない!」
御言が手を伸ばし、一歩踏み出す。
その瞬間、陽菜の瞳に言いようのない恐怖が走った。
見られたくない。
こんな、汚くて、壊れた自分を。
これ以上、失望されたくない。
「いやっ! 見ないでっ――!」
悲鳴が闇を爆発させた。
揺り籠から放たれた漆黒の衝撃波が、暴力的な質量を持って御言とルトを襲う。
「――っ!?」
抗う術もなく、二人の身体は後方へと吹き飛ばされた。
「伊東さん――!」
伸ばした指先が、空を切り裂く。
叫んだ名前は、逆巻く闇の轟音にかき消され、彼女にはもう届かない。
揺り籠はさらに分厚い闇を纏い、御言との間に絶望的な断絶を作り上げていった。




