呪詛の合唱
一歩踏み出すたびに、粘り気のある闇が足首に絡みつく。
この世界には、御言とルトの足音しか存在しないように思えた。
いや、それは間違いだ。
ここに来てからずっと、声が、鳴り止まない。
まるで、無数の針を心臓に突き立てるような、呪詛の合唱。
「――産まなければ良かった」
その言葉が響くたび、空間が歪む。
誰の記憶か。誰の悪意か。
考えるまでもない。
これは伊東陽菜という少女を形作ってきた、彼女にとっての”世界のすべて”だ。
振り返っても、そこには誰もいない。
ただ、彼女が飲み込み続けてきた怨嗟だけが、黒い霧となって視界を塞いでいる。
「わかってる。私が……私がダメだから」
不意に、少女のか細い吐息が混じる。
それは反論ではなく、ただの受容だった。
降り注ぐ悪意を当然の報酬として受け入れ、自らを消去しようとする静かな儀式。
独白。
そう呼ぶにはあまりにも虚しく、救いがない。
「……伊東さん」
小さく名前を呼んでみる。
返るものはない。
ただ、握りしめた自分の拳が、みしりと音を立てた。
何も言わず、ルトが隣に並ぶ。
背中の羽根は既に消えているが、彼女がまとう空気には、神の使いとしての説得力が宿っていた。
「神代御言さん。これが彼女の『内側』です」
淡々と告げられる事実が、逆に胸を締め付ける。
どんな言葉も、届かない。
どんな励ましも、今は砂に吸われる水のように消えていく。
この圧倒的な”死への渇望”の前で、自分という存在があまりに矮小に感じられた。
だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
「ルト……『定義』するって、どうすればいい」
震える声を抑えて問いかける。
ルトは視線をわずかに上げ、感情を削ぎ落とした声で答えた。
「あなたが、あなたの意志で、彼女の『境界』を確定させるのです」
それは、向き合うこと。
そして、彼女をただ哀れむことではない。
死を願う彼女の意志さえも飲み込んだ上で、彼女が何者であるかを、外側にいる俺が決めることだ。
肺が痛むほど、深く息を吸う。
周囲から這い寄る絶望の声に押しつぶされそうになりながらも、御言は手を伸ばした。
ゆっくりと、闇のさらに奥へ。
「伊東さん。聞こえるか」
届くはずのない問いかけ。
それでも、御言は指を伸ばし続ける。
「神代御言さん」
ルトが名を呼ぶ。
「それでは、届きません」
静かだが、突き放すような響き。
「まだ、私たちは彼女に会えてすらいない――あなたが今触れているのは、彼女を否定する『外側』の残響に過ぎない」
ルトの指し示す先。
闇のさらに深淵、ドロリと脈打つ”核”がそこにはあった。
「その殻を壊し、彼女が何者であるかをあなたが『決定』しない限り――彼女は、今ここであの世界から剥がれ落ちます」
剥がれ落ちる。
どこに――?
遠くで伊東さんらしき人影が、闇の中で沈まぬように藻掻くのが見える。
「ここ、か」
思わず声が漏れる。
ルトが無言で頷いた。
「行くか――」
正直、彼女を救う高尚な理由も、義理もない。
ただ、この胸の内にある得体の知れない感情が、御言を前に進ませる。
「気に入らないな」
何が、ではない。
ただ、この光景が、状況が、気に入らない。
それだけで、充分だった。
「⋯⋯ルト」
隣に立つ天使の名を呼ぶ。
「はい、神代御言さん」
ルトが答える
「何もこんな世界に合わせて、俺達まで暗くなる理由もないだろ?」
ルトがきょとんとした表情を見せた。
「と、いうと⋯⋯?」
彼女は、そのままの表情で首を傾げてみせる。
「気楽に行こうぜってこと」
あえて笑顔を作って見せる。
この絶望に満ちた空間に対する、精一杯の反抗だった。
「……かしこまりました」
ルトが頷く。
「まだ、かたいな。……あとお前、人の名前をフルネームで呼ぶのをやめろ」
溜息混じりに文句を言ってみせる。
「なぜです?」
ルトは不思議そうに、その無機質な瞳をこちらへ向けた。
悪意もなければ、好奇心すらない。ただ純粋な、知識への欠落を埋めようとする問い。
「なんか慣れない。こそばゆい」
正直に答えると、彼女は数秒、思考を巡らせるように間を置いた。
「なるほど――では。御言、と」
暗闇を侵食する、ルトの無機質な言葉。
今まで張り詰めていた空気が、その一言でわずかに揺らぎ、形を変える。
「……ああ。それでいい」
自分の名が、余計な尾ひれを捨てて響く。
それだけで、背負わされていた奇妙な重圧が少しだけ軽くなった気がした。
ここは彼女の絶望が作り出した檻だ。
まともに取り合えば、こちらの精神まで泥の中に引きずり込まれる。
「さて、御言。気楽に行くには、少々この『殻』は硬すぎるようですが」
ルトが前方を指し示す。
そこには、幾重にも重なった負の感情が、物理的な障壁となって渦巻いていた。
「あんたなんて」「いらない」「消えて」
鋭利な礫となって飛び交う言葉の数々。
それが陽菜という核心を守るように、あるいは閉じ込めるように、絶対的な拒絶の壁を成している。
「だろうな。……でも、俺はバイトの客とトラブルを起こす奴には慣れてるんだ」
神代御言は、一歩。
闇を切り裂くように、力強く踏み出した。
「マニュアル通りの対応なんて、最初から期待してないだろ? 伊東さん」
声を張る。
周囲の怨嗟が、一瞬だけひるんだように見えた。
「行くぞ、ルト。定義ってやつを、俺のやり方で書き換えてやる」
ルトは淡く光る瞳を細め、主に従う騎士のように、あるいは無邪気な守護者のように、その隣に並んだ。
「御言がそう望むなら。――この虚飾の夜を、終わらせましょう」
ルトがゆっくりと息を吸い込み、祈りを捧げるように跪く。
光が闇を斬り裂くかのように顕現する。
「神の依代たる、御言葉のままに――」




