この世界から、零れ落ちる。
夕方になり、御言はバイト先のレンタルビデオショップへ向かった。
家に帰ってからルトにいろいろ聞くつもりだったが、それどころではなかった。
常識のなさに戸惑うばかりで、話を整理する余裕すらない。
文句を言おうと父に電話をかけたが、コール音が鳴り続けるだけで繋がらなかった。
結局、夕方までにできたのは、別々の部屋で寝ることと、風呂とトイレにはついてこないように納得させることだけだった。
「ったく、頭が痛くなる」
重い息を吐き、後ろを振り返る。
「頭痛がするのであれば、安静にされるべきですよ?」
淡々とした声が返ってくる。
頭が余計に痛くなる。
誰のせいだと言いたいが、言っても通じないだろう。
「うるさい。行くぞ」
御言はそれ以上何も言わず、店の自動ドアをくぐった。
軽い電子音が鳴り、プラスチックケースの匂いが鼻をかすめる。
棚に並ぶ色とりどりのパッケージと、夕方特有のどこか緩い空気が二人を出迎える。
「おっ、神代じゃーん。今日も休みじゃなかったっけ」
気さくな声で奏汰が話しかけてくる。
「働け」
軽くいなしながら、御言は店内に視線を巡らせる。
伊東さんはもう出勤しているはずだ。
「神代御言さん。あそこに……」
ルトが静かに指を差す。
カウンターの奥。
塞ぎ込むように、うずくまる伊東さんの姿。
聞き取れないほどの小さな声で、何かを繰り返している。
「伊東さん?」
声をかける。
ゆっくりと顔が上がる。
目が合った。
縋るような、何かを期待するような表情。
「ん? 急に伊藤さんだなんてよそよそしいぞ、神代」
なぜか奏汰が笑う。
その瞬間、伊東さんの表情が崩れた。
希望が、音もなく消える。
「お前じゃない」
低く返す。
「え、じゃあ他に誰が?」
奏汰は首を傾げる。
すぐ目の前にいるはずの伊東さんを、一度も見ていない。
視線すら向けない。
まるで――最初から、そこに誰もいないかのように。
「神代御言さん」
ルトが淡々と告げる。
「境界に堕ちた人間は、同じく境界に触れた者か、観測者にしか認識されません」
静かな声。
事実を述べているだけの響き。
「……なるほどな」
喉がひどく乾く。
“消える”という言葉を聞いたときは、実感がなかった。
だが、今は違う。
見えないのではない。
聞こえないのでもない。
存在を、初めから無かったことにされる。
この世界から、零れ落ちる。
その残酷さが、嫌というほど分かる。
震えながらうずくまる伊東さんに、手を伸ばそうとした瞬間――。
「うるさいぞ伊藤奏汰!」
怒鳴り声とともに店長が現れる。
「神代か……。連日どうした、暇なのか?」
黒崎店長が不機嫌そうに睨む。
御言は軽く会釈する。
「伊藤奏汰、事務所まで来い! ……あ、陽菜ちゃん。体調悪いなら神代にシフト代わってもらいなよ」
何気ない口調。
黒崎は奏汰を引きずるようにして奥へ消える。
――陽菜ちゃん。
確かに、そこにいる。
だが、誰の視線も届いていない。
「ルト、今の……」
思わず漏れる。
「ええ。彼女も境界に触れてしまっているようです」
やはり淡々としている。
「ですが、今は――」
ルトの視線が、伊東さんに向く。
「ああ、わかってる」
わかってはいる。
でも、どうしたらいい?
この状況で俺に何ができる。
声をかける?
触れてみる?
何が正解なのか、答えが出ないままルトに視線を向ける。
「伊東陽菜。彼女は死にたいと願いました」
ルトがこちらを見上げる。
「そして今、彼女は現実世界から薄れかけています」
無表情のまま続ける。
「あなたから見てこれは、福音ですか。それとも――」
「呪いだ」
即答だった。
死にたいと願ったのは伊東さんだ。
理由なんて知らない。
だが、分かることがある。
本当は、生きたい。
許されるなら、ここにいたい。
それが叶わないと思うから、消えたいと願う。
――だからって、消えていいわけがない。
「ふざけるな」
低く吐き捨てる。
「ならば、どうしますか?」
ルトが問う。
その表情が、ほんのわずかに柔らいだように見えた。
「俺が聞く。苦しみも、悲しみも、全部だ」
言葉が落ちた瞬間。
ルトの背に光が集まる。
細い光の粒子が、呼吸をするように明滅し、やがて形を結ぶ。
白い羽根。
空気が震える。
「父と子と聖霊の御名において――かくあれ」
羽根がひらりと広がる。
次の瞬間、青白い光が視界を塗りつぶした。
次に訪れたのは暗闇だった。
世界は、果てしなく広がる漆黒に変わっていた。
御言は足元を確かめながら歩く。
周囲の気配はほとんどなく、ただ自分とルトの存在だけがここにある。
「ここが……伊東さんの精神世界、ですか」
ルトは淡々と頷く。表情は変わらない。
奥から声が響いた。
低く、しかし確実に存在感のある声。
そして御言の知らない女性の声。
「あんたなんて産まなければ良かった」
「あんたなんかいらない」
御言は息を止め、眉を潜める。
声の主は誰か、誰の記憶から出ているのか。
答えは考えるまでもなく、わかっていた。
「……伊東さん」
小さく名前を呼ぶ。
しかし、答えは返ってこない。
闇は広がり、声だけが揺れもなく響いていた。




