表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/24

この世界から、零れ落ちる。

 夕方になり、御言はバイト先のレンタルビデオショップへ向かった。


 家に帰ってからルトにいろいろ聞くつもりだったが、それどころではなかった。

 常識のなさに戸惑うばかりで、話を整理する余裕すらない。


 文句を言おうと父に電話をかけたが、コール音が鳴り続けるだけで繋がらなかった。

 結局、夕方までにできたのは、別々の部屋で寝ることと、風呂とトイレにはついてこないように納得させることだけだった。


「ったく、頭が痛くなる」


 重い息を吐き、後ろを振り返る。


「頭痛がするのであれば、安静にされるべきですよ?」


 淡々とした声が返ってくる。

 頭が余計に痛くなる。

 誰のせいだと言いたいが、言っても通じないだろう。


「うるさい。行くぞ」


 御言はそれ以上何も言わず、店の自動ドアをくぐった。


 軽い電子音が鳴り、プラスチックケースの匂いが鼻をかすめる。

 棚に並ぶ色とりどりのパッケージと、夕方特有のどこか緩い空気が二人を出迎える。


「おっ、神代じゃーん。今日も休みじゃなかったっけ」


 気さくな声で奏汰が話しかけてくる。


「働け」


 軽くいなしながら、御言は店内に視線を巡らせる。

 伊東さんはもう出勤しているはずだ。


「神代御言さん。あそこに……」


 ルトが静かに指を差す。


 カウンターの奥。

 塞ぎ込むように、うずくまる伊東さんの姿。

 聞き取れないほどの小さな声で、何かを繰り返している。


「伊東さん?」


 声をかける。

 ゆっくりと顔が上がる。


 目が合った。

 縋るような、何かを期待するような表情。


「ん? 急に伊藤さんだなんてよそよそしいぞ、神代」


 なぜか奏汰が笑う。

 その瞬間、伊東さんの表情が崩れた。

 希望が、音もなく消える。


「お前じゃない」


 低く返す。


「え、じゃあ他に誰が?」


 奏汰は首を傾げる。

 すぐ目の前にいるはずの伊東さんを、一度も見ていない。


 視線すら向けない。

 まるで――最初から、そこに誰もいないかのように。


「神代御言さん」


 ルトが淡々と告げる。


「境界に堕ちた人間は、同じく境界に触れた者か、観測者にしか認識されません」


 静かな声。

 事実を述べているだけの響き。


「……なるほどな」


 喉がひどく乾く。

 “消える”という言葉を聞いたときは、実感がなかった。


 だが、今は違う。


 見えないのではない。

 聞こえないのでもない。

 存在を、初めから無かったことにされる。


 この世界から、零れ落ちる。


 その残酷さが、嫌というほど分かる。

 震えながらうずくまる伊東さんに、手を伸ばそうとした瞬間――。


「うるさいぞ伊藤奏汰!」


 怒鳴り声とともに店長が現れる。


「神代か……。連日どうした、暇なのか?」


 黒崎店長が不機嫌そうに睨む。

 御言は軽く会釈する。


「伊藤奏汰、事務所まで来い! ……あ、陽菜ちゃん。体調悪いなら神代にシフト代わってもらいなよ」


 何気ない口調。

 黒崎は奏汰を引きずるようにして奥へ消える。


 ――陽菜ちゃん。


 確かに、そこにいる。

 だが、誰の視線も届いていない。


「ルト、今の……」


 思わず漏れる。


「ええ。彼女も境界に触れてしまっているようです」


 やはり淡々としている。


「ですが、今は――」


 ルトの視線が、伊東さんに向く。


「ああ、わかってる」


 わかってはいる。

 でも、どうしたらいい?


 この状況で俺に何ができる。


 声をかける?

 触れてみる?


 何が正解なのか、答えが出ないままルトに視線を向ける。


「伊東陽菜。彼女は死にたいと願いました」


 ルトがこちらを見上げる。


「そして今、彼女は現実世界から薄れかけています」


 無表情のまま続ける。


「あなたから見てこれは、福音ですか。それとも――」


「呪いだ」


 即答だった。

 死にたいと願ったのは伊東さんだ。

 理由なんて知らない。


 だが、分かることがある。


 本当は、生きたい。

 許されるなら、ここにいたい。


 それが叶わないと思うから、消えたいと願う。

 ――だからって、消えていいわけがない。


「ふざけるな」


 低く吐き捨てる。


「ならば、どうしますか?」


 ルトが問う。

 その表情が、ほんのわずかに柔らいだように見えた。


「俺が聞く。苦しみも、悲しみも、全部だ」


 言葉が落ちた瞬間。

 ルトの背に光が集まる。

 細い光の粒子が、呼吸をするように明滅し、やがて形を結ぶ。


 白い羽根。

 空気が震える。


「父と子と聖霊の御名において――かくあれ」


 羽根がひらりと広がる。

 次の瞬間、青白い光が視界を塗りつぶした。


 次に訪れたのは暗闇だった。

 世界は、果てしなく広がる漆黒に変わっていた。


 御言は足元を確かめながら歩く。

 周囲の気配はほとんどなく、ただ自分とルトの存在だけがここにある。


「ここが……伊東さんの精神世界、ですか」


 ルトは淡々と頷く。表情は変わらない。


 奥から声が響いた。

 低く、しかし確実に存在感のある声。

 そして御言の知らない女性の声。


「あんたなんて産まなければ良かった」

「あんたなんかいらない」


 御言は息を止め、眉を潜める。

 声の主は誰か、誰の記憶から出ているのか。


 答えは考えるまでもなく、わかっていた。 


「……伊東さん」


 小さく名前を呼ぶ。

 しかし、答えは返ってこない。


 闇は広がり、声だけが揺れもなく響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ