28-2
事件が起こったのは、ナミとソニアがシファーレンに出発して二週間ほど過ぎた頃だった。
僕は夕食を食べ終え、ヴァネッサ達との団らんの後、書斎へ向かう。
日課の兵法書の写し書きをするためだ。
窓の外は、すでに闇に包まれ、静けさだけが支配している。
「ウィル」
「わかってる」
遅い時間になると、リアンが呼びに来てくれる。
これが、終了の合図。
彼女は書斎には入らず、開け放たれたドアの向こうから、じっと僕を見つめている。
その瞳には、僕の体調を気遣う、心配の色が微かに宿っていた。
「怒らないでよ」
「怒ってないけど?」
「ほんと?」
彼女が怒るのは、僕の体調を心配しているから。
いつもなら早く寝なさい、と怒られるけど、今日は違った。
「ウィルは叱っても、直そうしないから諦めた…」
彼女の言葉に、僕は思わず笑いをこらえながら、散らかった机の上を片付け始めた。
リアンの諦めたような口調が、どこか可笑しかった。
「それに…」
「それに?」
「それに最近は、私が声をかければ、すぐにやめてくれるし」
すぐにやめるのは、彼女の機嫌を損ねたくないからだ。その本心は、もちろん言わない。
「リアンがそろそろ来るかなって、思うとだいたい来るんだ」
「私が来る前に、寝てほしいんだけど…」
片付けを終え、ドア付近で僕を待つリアンに近づく。
彼女の表情は、どこか不満げだったが、その中に僕への優しさが滲んでいるのが分かった。
「僕はこの時間を楽しみにしているんだ」
「楽しみ?なんで?」
「二人きりになれるから」
「あー…うん」
リアンと二人きりになれる時間は、本当に少ない。
いつも誰かの目がある中で過ごしているから、この夜の逢瀬は僕にとって何よりも貴重なものだった。
彼女の腕を引いて、優しく抱きしめる。
彼女の温もりを感じると、一日の疲れが溶けていくようだった。
「今日は、大丈夫?」
「うん。大丈夫…」
リアンには辛い過去があり、時折悪夢にうなされることがある。
いつ悪夢を見るか、僕にはわからない。
彼女には、悪夢を見てしまいそうな予感があるらしい。
そんな夜は、どちらかの部屋で共に眠り、そして夜明け前にそっと別れる。
去年の賊の襲撃以降、リアンとはそういう関係になっていた。
彼女の心に寄り添うことが、今の僕にできる唯一のことだった。
「行こうか?」
「うん…」
自分達の部屋の前まで、手を繋いで歩く。
ほんのわずかな距離だが、この時間さえも僕にとっては楽しみの一つだった。
そして、部屋の前。名残惜しむように、リアンと軽く唇を重ねる。
「じゃあ。おやすみ」
「うん。おやすみなさい…」
それぞれの部屋へ入る。
ここまでが、いつもの穏やかな夜の光景だった。
え?キスは楽しみではないのかって?
それは、言わなくてもわかるでしょう?
そして、いつもの朝を迎える…とは、いかなかった。
早朝、いやもっと早い時間だったと思う。真っ暗だったし。
まだ空は漆黒の闇に覆われ、静寂だけが支配していた。その静けさを破るように、僕の名前を呼ぶ声で目を覚ました。
「ウィル様…」
「ん…」
「ウィル様」
「あー…ん?…」
目を開けると、発光石の光が部屋を照らしていた。
見回すとレスターがベッド脇に膝をついていることに気づく。
「夜分に申し訳ありません」
彼は、革鎧を身につけていた。その姿から、ただ事ではないことがすぐにわかった。
僕はすぐに状況を理解し、体を起こす。
「何があった?」
「まだ情報が少なくて…なんとも…」
レスターの歯切れが悪い。
彼らしくない。いや、あの時は誰もがそうだったはずだ。
動揺でなく困惑。
僕は急いで着替えしつつ、状況を聞く。
「賊じゃないのか?」
「賊にしては、数が少ないんですよ。賊以外なら、誰なのか…」
「なるほど…」
少数なのか。
安心材料ではあるが…これから増える可能性もある。
「鎧は、着た方がいい?」
「はい。とりあえず、胴鎧だけでいいです」
「わかった」
レスターに手伝ってもらって、胴鎧を身に着ける。
「ヴァネッサは?」
「屋上です」
「僕も行く」
「はい」
部屋を出ると、ちょうどリアンも部屋から出てきたところだった。
後には、オーベルさんが控えている。
彼女の表情は、僕と同じように緊張でこわばっていた。
「おはようございます。リアン様」
「おはようの挨拶には、まだ早いんじゃない?…」
「ですね…」
リアンの冷静な答えに、レスターは苦笑いを浮かべた。
「僕は、屋上にいるヴァネッサに会ってくるよ」
「うん」
レスターを伴って屋上にいるヴァネッサの元へ。
彼女は屋上で腕を組み、北側を見つめていた。
「ヴァネッサ」
「ウィル…」
「どんな様子なの?」
「皆目見当がつかなくてね」
彼女らしくない返答。
それほどの状況なのか…。
「少数らしいけど、どこに?」
「あそこ。ほら」
ヴァネッサが指差す先。
それは北側の山だった。まだ夜の闇に沈む山並みに、目を凝らす。
「…どこ?」
「見えない?なんか光ってるでしょ?」
「あー、確かに…」
中腹辺りか。
小さな光が一つ。
「火、じゃないよね?」
「ああ。あれは魔法の光だよ」
薪ならもうちょっと赤く見えるはずだ。
「あれだけ?」
「あれだけだね」
非常事態と言えるほどの、大事ではない。だが、放っておくわけにもいかない。
「どうします?隊長」
「どうってね…」
ヴァネッサは、参ったねと言って、額を指で軽く叩く。
その仕草は、彼女が状況に困惑している証拠だった。
「とりあえず、様子見かな」
「ですよね。急を要する感じがしないんですよね…今のところ」
レスターは根拠があって言ってるわけではない。
直感めいたものだろう。
「動きがあったら、すぐ報告して」
「了解」
屋上には、いつもより多く兵士を配置していた。その一人に、そう指示を出す。
「戻るよ」
屋上から多目的室へ移動。
多目的室には各隊の隊長と副隊長が待機していた。
マイヤーさんやシンディもいる。
彼らの顔には、僕と同じような不安と緊張の色が浮かんでいた。
「全員、揃ってるね?状況は…北側の山に、誰かいる。人数は、三か四人。以上」
「え?それダケ?」
ミャンが、訝しげに聞く。
無理もない。これだけでは、何が起こっているのか全く分からない。
「ここから見るだけならね」
「賊じゃないんですか?」
「違うと思う」
ガルドの問にヴァネッサは首を横にふる。
「では、どうする?」
ライアがヴァネッサに尋ねた。
「様子を見つつ、待機」
「アタシが行って、パパっと片付けてくるヨ」
「やめなよ。伏兵がいる可能性があるでしょ…」
「偵察はどうでしょう?」
ジルが手をあげる。
「偵察を出すほどの状況じゃない」
「ですが…状況が不明では…」
「ジル、あんたの言いたいことはわかるよ。状況がわからないから偵察する。間違っていない。ごく普通の判断」
「はい」
「アリスは北側のあれだけで、周囲に異変はないって言ってる」
アリスは見張り塔にて目下、警戒中だ。
夜は、エレナの千里眼は使えない。
アリスの情報は、僕たちにとって唯一の頼りだった。
「賊だとしても、何もせずにいなくなってくれれば、それでいいでしょ。戦闘はできるだけ避けたいね、私は。やるってんなら、全力でやればいい」
僕もヴァネッサの考えに賛成。無益な争いは避けたい。
「てなわけだから、周囲を警戒しつつ、待機」
彼女はそう言うと、椅子に座った。
僕を含め全員が、ヤキモキとした気持ちのまま朝を迎える。
Copyright©2020-橘 シン




