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塵の末裔  作者: 無夜
イリス
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8/20

3

人間の死と、動物の死の描写 があります

 その日もイリスは僕の側で何かをやっていた。

 僕はイリスに興味をもたれているらしく、彼女は怒らせようとしてきたり、どんなことで笑うのかを伺うように色んな話をしてみたり、とにかく僕を研究していた。

 研究。うん。やっぱりそれが一番わかりやすい。わからないものが気になるから探っているという。猫が未知の存在を見て、腰を引きながらも前足で叩いたりするような。

 そんな扱いを僕は受けていた。

 だから僕はイリスが小さな子にしか見えないんだ。

 怒るべきなんだけど、憎みきれない。イリスはそれぐらい可愛らしかった。美人っていうには落ち着かない人だったからね。体を誇示するような服は明らかに僕をからかうためのものだった。

 長い綺麗な黒髪は着色したようには見えない。地色なんだろう。僕よりずっと深い色だった。

 イリスはいつもみたいにぴりぴりしていた。 僕は適当にイリスを構いながら、ウィルバを連れてキンカナのラボに向かっていた。

 オーロラ号は現在大幅カスタマイズ中で、イリスはここに一ヶ月は滞在することになっている。

「寒くない、その格好?」

 僕は聞いた。

 相変わらず、露出度の高い服だった。真っ黒の革光沢。じっくり見ている暇がないのが惜しいぐらい似合ってる。僕も忙しい。イリスはじっとしていない。

 本当に、観賞用のお人形にはなれない人だね。

 イリスはあの巨体なのに、足音をまったく立てないのが不思議だった。

 背は高い。筋肉もちゃんとついているようだし、骨も丈夫。体重は絶対九十キロより軽くはないだろうね。全身に神経がちゃんと配られていて、体を持て余していないってことはわかる。

 筋力を上げるのは簡単。一日一錠、薬を飲み続ければいい。でも、反射速度は訓練でしか上がらない。力をそれほど使わずに人を投げる方法があるし、それを知っていれば体に負担はかからない。でも、筋力をアップさせる薬を使用するタイプの人間は、多くは面倒くさがりで、その手のことを学ばないし、反射神経を養う訓練なんて続けない。不自然な力に頼りきるから、あるときぷつんっと筋が切れて、病院に担ぎ込まれる。筋が完全に切れると、繋げるのは一時間でも、普通に動くまでのリハビリは長いし痛い。

 イリスはそういうみっともないことにはならないだろう。歩き方も動き方も、綺麗だ。無駄な力を入れてない。

「ないなら上着貸そうか」 

「君のはあたしには入らない」

 イリスは突っぱねた。

「そうだね。肩幅はイリスの方がありそうだもんね」

 キンカナのラボの前について、ドアを開いた瞬間。

 僕の前から色と音が喪失した。

 白黒の画像の中、スローモーションで鉄製の壁が崩れてきた。跳ねて逃げるウィルバの動きもコマ送り映像のようだ。

 壁と天井を支えていた大きな金属の柱がイリスめがけて倒れてきそうだった。

 僕はなぜ、間に合ったのかわからない。

 柱を背中で咄嗟に受け止めて。途端、激痛が走った。

 イリスが驚いて僕を見上げる。何か言いたそうな、乾いた唇が、赤みを帯びた。

 あ、色が戻った。音も戻った。

 轟音を聞いたらしい耳はじんじんした。でも僕はそれを思い出せない。

「大丈夫?」

 僕の耳はおかしかったがイリスにそう言った自分の言葉は頭の中で幻のように響いた。

 途端、足元のタイルが一気に崩れた。

「まだ続くんだ?」

 遊園地のアトラクションみたいだ。

 安心させて突き落とす。お化け屋敷? ジェットコースター? 真後ろに落ちるのは嫌だな。

「わぁぁぁぁぁ」

 自分の意思とは無関係に僕は悲鳴を上げた。

 怖いのに目を閉じられなくて、周囲を睨んでいた。

 睨んで、怖いから、現実逃避した。

 なるほどねえ。

 昔読んだ不思議の国のアリスの冒頭。

 落下するまでにあれこれ考えられるわけないじゃないかって、思ってたけど。

 うん。実際に長く落ちると、考えられるよ。

 さっきのと同じ原理なんだな。生命の危機が迫ると、情報処理能力は、余分なものを削り取る。音や色を削って、端的な状況を脳に突きつけて、行動決定を促すんだ。

 あ、でも。僕のこの思考って、ただの現実逃避なんだよな。状況打破しようがないじゃないか。ひたすら僕らは落ちてんだもん。

 そこまで思考が到達したら、また恐怖が戻ってきた。

 僕は、無自覚に上げていた悲鳴をまた自覚した。



 幸運なことに、中途で重力システムが切れた。

 無重力にはならなかったけれど、地下に落ちたとき、痛いと悲鳴を上げられた。

 一緒に落ちたイリスが僕に乗っていた。おかげで上下から潰されそうになって苦しい。

 僕の右の肋骨は折れた。イリスが重い。肘が思い切り、当たってる。

 でも、イリスを恨みはしない。これは事故だ。ただ、頼むから早くどいて欲しい。骨の再接続ができなくなる。変な形で繋がったら、また折らなくてはならなくなる。そんなのは嫌だ。

 それにしても僕らは運がいい。重力発生リングまで落とされなくってよかった。そんなことになったら、超高速回転する金属リングに細切れにされるところだった。

 床の下ではリングが回っている。その振動が腰や背中にじんじんと伝わってくる。

 どうやって重力が切れたんだ? リングは惰性で回っているから、回転を止めるには電力がいる。シー・シックにそんな予備電力はない。爆発の刺激か?

「落ちたもんだねえ」

 上を見上げても真っ暗でよくわからなかった。凄くここは暗い。

「なんで、あたしを庇う?」

 イリスは低い声で言った。その声は僕の腹の方からする。

「イリスが女の子だから」

 なにを聞いてんだか。

 意識があるなら僕の上からどいて欲しい。

「女の子? あたしが? 船乗りなのに? タルヒよりずっと長く生きているのに?」

「性差別的なことを議論するならあとで謝るから、今はどいて。痛い」

「どく? どうやって?」

 僕は手を伸ばして、周囲を探った。

 真っ暗なのは、上が板や柱で塞がれているからだった。

 イリスは身動きがとれないようだった。

「せめて肘をどかして」

「わかった」

 圧迫がどいたのは、僕の太股のからだった。

「イリス、肘」

「だから、肘はどかした」

「じゃ、僕の胸のあたりにあるのは、つっっ」

「これのことなら、膝だよ」

 イリスは膝だったという、それをぐりぐりっと押してきた。

「痛いってば、イリスっ! 僕は肋骨折れてんの!」

 イリスは黙った。それから、

「先に言え!」

 身勝手に僕に怒鳴る。

 僕の体の感覚、痺れきっていたようだ。背中を強く打っているから仕方ない。脊髄損傷は嫌だな。回復するまで、少し時間がかかる。きっと痛いし。

 それにしても僕たち二人はかなりヤバイ格好なんじゃないんだろうか。イリスの上に僕が乗ってなくてよかった。この好状況下でイリスに悪戯しない自信はない。見た目だけなら大人の女性だ。年齢も問題ない。いや、逆の意味ではあるけれど。

 本当に百三十年もこの若々しさと精神状態って楽しめるのかな。それとも、変則的な痴呆が始まっていて、感情抑制だけが幼児化している、とか? 人体のことはよくわからない。

 膝が体から降りた。

 僕は脊髄への負担がちらりと脳裏によぎったが、ちぎれたらそのときだと体を反らせた。

 その折れた部分だけ熱くなる。悪魔が己の家を再構築していく。十五分ぐらいで、一応元のように固まって、カルシウムで補強されるのは四日ぐらいしてからかな。医療ポットに入るより治りが早いことは感謝している。

 イリスは少し苦しそうに溜息をついた。

「なに? イリスもどこか怪我したの?」

「いや、服がめくれて、胸が出てしまっているし、スカートも捲れている。我ながらみっともない格好だって思ったから」

「だから、上着を着ろって言ったんだ」

 僕は呆れた。

「だから? 君はこんなことになる想定はしてなかっただろう」

 僕は呻くしかなかった。なんて鋭い突っ込みなんだ。

「とにかく、胸はしまってよ。救助が来たとき、そんな格好で乗ってられたら、僕は困る」

「タルヒが困るのか」

 そうかっと、やけに楽しそうに声を出された。わざわざ服を脱ぎだしそうな気配に、僕は慌てて話題を変えた。

「どれぐらい時間経ってる?」

「三分ぐらいじゃないか」

 イリスは勘で物を言うが、だいたいあっている。動物的なのだ。きっと鳩みたいに磁石が入っていて、太陽光を浴びて時間を感知しているんだろう。

「イリス、僕のポケットにブックがあるから。開いて。人が死なない程度の衝撃なら壊れてないから」

 イリスは手を動かした。

「そっちのポケットじゃなくて、右」

 やがて、ぼうっと蒼い光が目に飛び込んできた。万能電子手帳は四時間充電しているし、明かりとしてだけ使うなら三日は持つだろう。

「人と付き合う百の方法? ふーん。妙な本を読んでるんだな」

 とても恥ずかしくなった。それが愛読書なんて、人間関係築くのが下手でコンプレックスを持っていると言わんばかりじゃないか。

「人の私物、勝手にみないでくれないか? それで、キンカナに連絡して」

 僕の声は心なし上ずっていた。いつもより2テンポ早く舌が回る。取り繕っているのがばれそうだ。

「連絡する前に、ここはどこだ?」

 イリスは何かのボタンを弄りながら聞いてる。

「それはわからない」

「それじゃ困るだろう、キンカナも」

 まったく道理だ。さすが長生きしているだけある。常識が見合ってないのはいただけないけどね。

「重力リング層より上だってことはわかる」

「この飴貰っていい?」

 ポケットから包みを取り出してイリスが言う。目先のことに興味をすぐに奪われる。柔軟なのか、剛毅なのか、それとも現状把握していないのか。よくわからない人だ。

「それはウィルバ用のカルシウム剤。飴じゃないよ」

「不味い?」

「味がない」

「あ、本当だ。感触はただの錠剤みたいだ」

 食ったな。

 僕らはそうやって、この異状下、奇妙にのんびりと過ごしていた。

 イリスはキンカナに連絡をしたくないんだと僕は察した。キンカナのラボのまん前で、あの事故は起きた。中にいたキンカナが巻き込まれていないはずはない。怪我をしたかもしれない。最悪の場合、死んじゃったかも。

 そうなったらシー・シックはどうなるんだろ。僕は、どうするんだろ。

 ナンバー2のジョーは、あまり僕に好意的ではない。キンカナに一目置いているから、けっこう気に入られている僕にイライラとしているのはわかる。キンカナがいなくなったら、下手をするとシー・シックから着の身着のままに追い出されるだろう。

 僕は鬱々としてきた。

 せっかく居場所が見つかったと思ったのに、足元はこんなにも弱かった。僕は庇護が必要な、少なくてもしっかりとした理解者なしではどこにも居られない弱者だ。あんな危ない船を駆る孤独な海賊になる度胸もない。

「シーフ。ここだ」

 イリスが不意に言った。

 シーフ? たしか、火星と木星月群、それから冥王星近辺のコロニーを行き来する人だ。最近、入港した。船の名前はルルカ。青銀色の、ポピュラーな近距離中型船。

「ここか、イリス」

 しゅるるっという、布擦れの音がした。

 小さな隙間から、液体のように布切れが入ってくる。

 マント。宇宙船内はコクピットと私室以外は寒い(暖房をかけるエネルギーを節約している)ので、マントや毛皮のロングコートといったものは、実は贅沢品ではなくて必需品。

 黒い、分厚いマントだ。かと思ったら、裏返ると? いや、そちらが表側なんだね。表側は銀色だった。中はベルベット生地でとてもあったかそうで、外は光の屈折率を変換させる、通称透明マント。薄暗い中か、水の中でないかぎり、完全透明にはならないけど、じっとしていればちょっとの間隠れることはできる。

 奇術のように、それはくるっと纏まって、内部からもこもこと人型が出来て。マントが翻ると、そこに仮面をつけた男が現れた。

 顔はおろか髪の色も肌の色さえわからない。仮面の目には色ガラスが入っている。光ってる?

「キンカナは無事だぞ。ジョーが庇ったから、傷一つない。庇ったジョーも無傷だ」

「よかった」

 僕とイリスは同時に安堵の声を上げた。

 手袋をつけた手。一切素肌を見せていない男は、壁や障害物に手を置いた。

 蒼い液晶画面からの光を受けて、マントの表面が波打つように輝いて、綺麗だ。

 彼は言った。

 オン、もしくはオムという音を腹の中で何度も共鳴させて潰して限りなく崩して広げて、深く掘り下げたような声だった。

 僕の中の空っぽの部分、胃や肺、腹部が心地よく震わされた。

 真上の金属板や柱がすべて、弾けとんだ。

 それだけじゃなくて、上手く折り重なって、上の穴まで届く山になった。

「すごい。でも、迷宮のお嬢さんって誰?」

 イリスは立ち上がったところだった。ぎょっとしたように僕を見て。

 シーフも仮面の中から、僕を見下ろしていた。驚いてる。

 さっきの声の中に、そんな単語があったような気がしたんだ。だからつい聞いたのだけど僕は馬鹿なことを言った。だってあれはどう考えても僕が知っている言葉じゃないし、単語としても成り立たない、気合や覇気を入れる呼吸みたいな音だったのに。

「ずるいと思わない、シーフ? タルヒは読ませてくれないのに、こっちのことは読むんだ」

 ここぞとばかりにイリスが詰ってきた。

「ずるいのかどうかはわからないが。彼は感受性が強いんだろう。読んでるわけじゃあない。俺たちはそういう感受性ってものは鈍感だからな。さて、イリス。愚かなまでに温厚な同胞のために、それを害する企てをした者たちに報復を」

「キンカナは報復を許したか?」

 硬質な、どこか苛立ちを感じる声だった。だから言ったのに、という母親の口調を思い出す。詰るような、怒るような、聞いていると自分が無価値に思えてくる口調。

「君がわざわざ連絡してくれなかったのでね。とても心配して、キンカナは今回の張本人に激怒した。みごとだよ、イリス。前回のように言うといい。『私が知り、君が知る。それ以上の証拠が必要か?』とね」

「まったく。迷宮の老人たちのような無抵抗主義は、他種族をつけ上がらせるだけだというのに。ちんたらちんたら証拠集めなんて待っていて」

「イリス。人前に出る前に、衣服整えて、胸ぐらい隠して、上着着てね。女の子なんだから」

 僕はもう、彼らの話についていくのを放棄していた。

 いつまでもそのまんまにしているから、僕は彼女のスカートを引き下げて、僕の上着を巻きつけて(着せようにも肩幅が入らない)、豊かな胸を隠した。

 イリスは羞恥心がない。あっても乏しい。

「朴念仁」

 イリスはそう罵って僕をシーフに押し付け、ブックを返すと、上にあがっていった。

 鹿が崖をあがるように軽快だった。イリスはどこも怪我をしていないらしい。僕が肋骨を折ってまで庇った甲斐があったというものだ。

 でも、この軌跡を見たら、僕もあがれる。今、シー・シックの人工重力が低下している。

 僕も登ろうとしたのだけれど、シーフは低い声で言った。

「いかない方がいい。寝食を共にしてきた仲間が殺されるのは、見ていて嬉しいものじゃないだろう」

 僕はそれでもうわかった。

 これは事故じゃないんだ。キンカナを殺して、誰かがこのシー・シックを奪おうとしたのだ。ここまでのことは一人では出来ない。

 どれだけの人数がこの謀反に参加したんだろう。

「イリスだけで」

「いや。ジョーがいる。あの二人なら、敵が何百人いたって平らげる」

 イリスは他種族と言った。

 異類に対して、人はとても排他的になれる。

 無抵抗主義。百三十年。音の唱和。違う生き物。

「あなたたち、ウィディネ壊滅を経験した、生き残り?」

「ああ。正しくは、当時八歳以下だった者、だが。それ以上の年齢だったものは、老人たちと呼ばれて、ウィディネの地下迷宮で他種族に煩わされずに暮らしている。子らは老人を養うために、宇宙に出る」

「無抵抗主義はどうなったの?」

「老人たちはそうだったが、それが何をもたらすかわかるだろう?」

 苦々しく言われて、僕は頷いた。

 人は卑怯だから反撃できないものを、好んで殴りつける。罵る。暴力的な犯罪の被害者になるのは常に子供や弱い女の人や、老人だ。

 僕はシーフに止められて、上を見上げていた。僕は怪我をするわけにはいかなかった。骨折だけならいいけれど血を流してはいけなかった。僕の中の悪魔を他人に宿らせるわけにはいかない。

 だから、上に行ってはならないのだ。

 普通の病気だったら、イリスだけに上に行かせたりはしなかったのに。

 シーフは僕の真横で上を見上げてぽつりと言った。

「終ったな。キンカナに向けられていた悪意の数だけ、命は消えた。残りはすべて、恐怖と畏怖と、疑惑の反応だ。もう上に行ってもいいだろう」

 僕は居ても立っていられずに、上へ向かっていた。

 僕は上にあがって、血塗れの廊下を見て、呆然とした。

「・・・・・・やるべきじゃなかったんだ」

 イリス自身もモップを持って、掃除用ロボットもおおわらわだった。

 それでも、僕の前には、闘兎仲間で、僕と同じ血液型だったヨーの生首が、転がっていた。頭が大きいから、血塗れになっていてもすぐにわかった。

「なんで連れてきた!」

「終ったからだ」

「掃除が済んでない」

 イリスが怒鳴る。

 掃除が、すんでない。

 君にはゴミがも知れないけど。キンカナを殺害する計画の加担者で単なる悪人だったかもしれないけど。この首だった人は僕にけっこう優しくしてくれたんだよ。闘兎のルールを教えてくれて、兎の作り方を説明してくれた。

 泣けなかった。

 殺される現場に立ち会っていたら、僕はたぶん、彼の命乞いをしただろう。

 確かに、すべては終ってる。

 僕に出来ることはない。

 換気穴から風が勢い良く出入りして、血の匂いはまったくしない。壁や床は見る間にもとの色に変わっていく。

「ウィルバ、どこ」

 ウィルバは背後からやってきて僕の太股に頭を擦りつけた。

「よかった。ウィルバ。無事で」

 我ながら空ろな声だった。

 ウィルバは怪我一つしていない。前々から傷だらけで、だけど触り心地の良い毛皮を僕に撫でさせた。前足の爪が折れてるほかは、大丈夫。そこの傷はもう血がとまっていた。

 思えばイリスはずっと、ここに来たときからぴりぴりしていたんだ。僕に張り付いていたのは、たぶん、新参者の僕がどちらなのか見極めようとしていたのだと思う。だけど僕は罠に引っかかった上に、イリスを庇ったから、この上もなく身の潔白が証明されたんだ。

 こんなことになったって、殺すのは、首謀者だけにするべきだったんだ。ちゃんとした証拠を見せて。

 ここは非合法の施設だったけれど、最低限の秩序はあった。僕の中ではシー・シックは楽園に近かった。

 僕はウィルバを連れて、闘兎場に行った。

 テックはどうしただろう。闘兎で怪我をして、医療ポットに入っていた。飼い主が死んだら、誰が面倒を見るんだ?

 大きな灰色の兎はポットの中にはいなかった。

 僕はシー・シックの中をさまよった。

 森林地区の池の中で、テックは死んでた。

 乱闘が怖くてパニックを起こして水の中に飛び込んだのか、それとも飼い主の死に同調したのか、わからない。

 ただ、もう、僕は、なにも、

 見たくなかった。

 脳髄にひたひたと押し寄せてくる、腐敗臭がうとましかった。

 生き残っていたアルダが、無言で僕の背を押して、僕を私室のある階まで連れて行ってくれた。

 それでも僕は礼の一つも言えなかった。 



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