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そろそろ、僕は終わりに来ていた。
イリスと会えるのは次できっと最後になる。
死んでしまうことを伝える気はまったくなかったし、精神交感に応じるつもりもなかった。
いつものように、普通に会って笑って喋って、送り出して。
それで、きっとおしまいだ。
彼女は飛び続ける鳥だから、消えた僕のことはしばらくすれば忘れるだろう。
僕はいつになくしんみりとしていた。
オーロラ号はいつもより一ヶ月も遅れて入港してきた。
黒い巨体。片側に描かれているのは鮮やかな虹の絵。
僕は唖然とした。
しんみりと、心の中でお別れをしようと思っていた今回の逢瀬は見事にぶち壊された。
オーロラ号の出入り口から、例によって例の如く落下するように降りてきたイリスは、女の子を連れていた。
三歳ぐらいの、妙に痩せて小さな子だった。
幼児っていうのは、ふくふくとして丸っこいのが普通だから、痩せている子っていうのは幼児服がどんなに高価でも似合わないんだ。
言っちゃなんだけど、猿に服を無理に着せたような似合わなさ。ピンクの服にたくさんのフリルがついた服は、哀しいぐらいしっくりこない。
僕の部屋にやってきたイリスは、持参した揺り篭ポットに彼女を寝かしつけて、疲れきった様子で僕の胸に顔を埋めてきた。
「泣かないんだ、この子。喋らない上に、感情読み取らせてくれなくて。ご飯食べさせるタイミングも、寝かせるタイミングも、全然わかんないんだよ」
イリスの声はいつもより低くなっていた。僕の腰や背骨に響くような、深い声だ。
イリスが馴れない育児に疲れているからかとも思ったけれど、肩や撫でた背中の筋肉等々が嫌にしなやかで力強くなってる。あの人一倍豊だった胸もだいぶ小さくなったような?
「イリス。筋肉増強剤の服用を増やしたり、した?」
イリスは僕の胸に埋めていた顔を上げた。
そういえば彼女の肌は真っ黒だったのに、色が淡くなってきていた。今は浅黒いって域だ。髪も根っこのほうからほんの数センチが明るい栗色になっていて、瞳の色がブルーグレー?
「つい最近、また大量殺戮したから、性別変えてごまかした」
あっさりと、まるで髪を染め替えたんだよ、というような口調でイリスは言った。
僕は男イリスに抱きつかれたまま、硬直した。
しんみりと一人でお別れするはずだったのに。
そういう人だよね、君は。
僕は大きく溜息をついた。
「なんで、そんな諦めきった顔をしてるんだ?」
「そういう人生を送ってきたからだよ」
憎たらしくなってイリスの後ろ頭を軽く叩いて、僕はまた溜息ついた。
「だって、酷いんだ。あいつら。俺が生き物を乗せないのを知っていて、この子たち、二十八人ばかりをケルベロスに運べって言うんだよ。この子たちは病気で命が危ないとか説明したけど、俺はあいつらの考えてることみんなわかった。冗談じゃない。死体ならいい。いくら刻んだって、もう物なんだから。生きているものがどうこうされるのなんか、見るのはごめんだ。断ったらいきなり毒ガス吹き付けてきたから」
「大丈夫だったの?」
あ、愚問か。イリスはここにいるわけだし。 なるほど、自分を殺そうとしたから、全滅させたわけだね。キンカナ事件でイリスの性格を僕はよく知ってる。彼らは攻撃されたら決して許さない。
「大丈夫」
僕が心配するととても嬉しそうにイリスは僕に頬擦りした。
骨とかが痛い。うーん、男に頬擦りされても嬉しくないや。イリスは可愛いけど、こうなるとどうしようって途惑う。
「困ってる?」
「困ってるよ。胸、まだ柔らかいね」
「タルヒに遇いたくて急いだから、まだ皮下脂肪が残ってるんだ」
僕の左手を握った手には、あの指輪がついていた。黒い光沢。ぎらぎらしくはない、落ち着いた輝きだ。
僕の手についてる宝石は煌くより透き通る蒼さだった。
接触して、これで六ヶ月は、また外れない。
「でも、ほら。俺が男になっちゃった以上は、精神交感を」
「やらない。冗談じゃない。そんなことするぐらいならホモ行為のほうがましだ」
「どうして!」
悲鳴みたいだ。
僕は床に押し倒されて、イリスに伸し掛かられていた。
情けないことに、イリス相手にはいつものことなので、溜息と苦笑しか出ない。
イリスが僕のことをどうするだろうと、僕は興味があった。女の子でいたとき、暴力といっても可愛らしいものだったけど、イリスが男になった今の時点ではこれは明らかに強姦だから。女の子なら笑って許されたことが、男になったら駄目になるわけだよね。
正直なところ、僕はどっちでもよかった。
イリスの青灰色の目が潤んだ。
ああ、色素を替えるとき、瞳を僕の好きな色にしたんだ。
じっとイリスの目を見ていると、彼女、じゃなくて彼は、ちくしょうっ!と叫んで僕の部屋を飛び出していった。
イリス。君は男のほうがいいと思う。そちらのほうが好き勝手に暴走できないだろうから。
結局、それでもイリスは女の子なんだよな。好きあっていれば全部をさらけ出しあえるって、本気で思っているところが。すべてを共有しあって、過去を知って、許しあい、共に生きていけるとイリスは本気で思ってる。
君には恥じること、隠すべきことはないんだろう。すべては消化され、克服され、君を形づくっているものとして、認めて内包している。
無知と無垢からの女の子じゃあなくて、歳月が作った女の子なのはわかってる。罪を犯さなかった、罪を認識していないことによる自信じゃないこともね。
ただ僕は出来ない。
兎は穴を掘れるけど、鳥のようには飛べない。鳥は飛べるけど、兎のように深い穴は掘れない。
それを認められない限り、イリス、君はやっぱり僕にとっては小さな女の子でしかないんだよ。
イリスはすぐに戻ってきた。けれど、怒っているのはなかなか直らない。
僕は苦笑した。仕事に出かけると、イリスは後ろからついてきた。
「あの子、ほっておいていいの?」
「ポットに入れると、八時間は寝てるから大丈夫だ」
幼児を八時間ほったらかすのはどうかな。
「男言葉のほうが、イリスはしっくりきてるよ」
「そりゃ、そうだ。俺の人生は、男だったとき間のほうが長い。六十五年は男で過ごしてる。あ、もう半分か」
思春期を男で過ごしたら、内面は男になるんだろうか? でも、女の子は残ってる。
「・・・・・・そういえば、なんで女の子に」
「だから、最初は女に生まれたんだ。十二のとき、三人の馬鹿に強姦されて、そいつらの手足を切り落としたら、木星月都市群に指名手配された」
「・・・・・・」
同情してくれないのかとイリスが僕の目を見つめる。
「酷い目にあったね」
僕がそういうとイリスは目を輝かせた。機嫌は一瞬で治ってしまった。
「ああ。だからそいつらの手足切り落として、脊髄を潰して、目玉抜いて、舌も抜いて、○○○も踏み潰して、耳も鼻も削ぎ落としてやったんだ。あと鼓膜を破ったな」
そ・そこまですることはなかったんじゃ?
「大変だったんだ。殺さないようにするのは。一本腕を切っちゃあ止血して」
いっそ、あっさりとそいつら殺してくれたら、僕は君に素直に同情したんだけど、そこまで凄惨に嬲り殺されちゃうとかける言葉がないよ。・・・・・・なんて陰湿な報復だ。
「生かしておいてやったのに、根性なしが、リハビリに耐えられずに自殺しやがって。それがイオの政務次官の息子だったかで、問題になって。捕まって罰されるのは面白くない。だからごまかすために仕方ないから、性別変えた。今のところ完全に性別を変えられて機能するような性転換手術はないからな。これを作ったキンカナたちは凄いと思う」
「確かに・・・・・・・。機能するの? 本当に? 生身で? 局部機械じゃなく?」
「試すか? 別に俺は構わない」
「やだよ。僕が下でも上でも」
イリスは大仰に溜息をついた。
「そんなことを言われたら、俺は貴方が俺のことを本当に好いてくれているのか、確認して安心できない。ずっと不安なままだ」
「撫でたり触ったりキスするまではいいけどね。それ以上はヤダ。話戻すけど、男になった理由はわかったよ。また女の子に戻ったのは?」
イリスは周囲を見渡した。
「絶対に、内緒だ」
「うん。いいよ」
なんだろう、そんな人目と人の耳を気にして。
僕の耳に唇を寄せて落とされた言葉は、はっきり言って、常軌を逸していた。
「ルナのフローラを一輪、盗む手伝いをすることになって」
「月都市同盟を敵にまわしたのか?」
木星月都市群とそれも敵にしたら、もう宇宙運輸にまともにかかわれない。
「だって、シーフ、昔はフランシスという立派な名前だったんだが。あいつが盗むって言い出して。そのせいで、フランシスはあそこの姉たちに体半分ぶっ壊されて、今でも本体はウィディネの培養ポットにいるんだぞ? どういう理屈か、再生能力がとても遅くなってるんだそうだ」
なるほど。盗っ人か。テレパス能力でマントと仮面を遠隔操作しているから、あんなでたらめな奇術をやれるんだ。
それにしても、女ならどこにだっていっぱいいるのに、ルナの出産階級奪うなんて。連携している蜂の巣から女王蜂を浚ったようなものだ。
「俺の面も割れちまったから、女に戻るほかなかった。月都市連盟の蜂はしつこい」
当たり前だ。彼女たちにしてみたら死活問題だ。
月都市同盟は完全に母系社会になってる。働く者を蜂または働き蜂、産む者を花もしくは女王と呼ぶ。蜜蜂化現象と呼ばれているのだが、蜂と呼ばれる者は生殖能力がない。花は三歳児ぐらいの知力しかないという。花は各家に一輪というのが常識だ。奪われたら、血筋が絶えることになる。母系は血と家に執着する気持ちが強い。
「で、その花はどうしたのさ?」
売春宿に売ったわけじゃないだろう。それほど大事にされているからこそ、月の花は他の都市では高い値がつくらしいけど。
「ルルカはルルカの中にいるぞ。シーフが海賊港では絶対下ろさないだけだ。一度でも孕まされたら、知能が一気に下がるらしい。不便だな、月の花は」
「僕もそう思う。それにしたってなんでそんな危険なことを」
「さあ? でも、俺もタルヒが月の花なら浚ったよ。家に閉じ込められて子供を産まされるだけの者にされたら嫌だ」
イリスは臆面もなくそういう恥ずかしいことを言う。僕は顔が火照ってしまった。今は血が濃いから蒼褪めて見えただろう。
イリスは話を戻した。
「タルヒ。俺は精神交感したいんだ」
僕は即座に、ずるい台詞を口にしようとした。
『気持ちの整理がつかないから、今度。次に会ったときに必ず』
イリスは約束を取り付けて喜ぶだろう。僕は強引さに流されるけれど、約束を破ったことはないから。
そうして僕は逝く。騙されたと、イリスは怒るだろう。
ジョーは僕の絶望を受け流すために、その手前の二ヵ月を捨てた。本能的な彼らにとって、死の檻に閉じ込められて安堵している僕という精神は、とても異質で怖いものだったはずだ。
僕は頭の情報処理能力がウィディネの子らよりずっと劣る。だから精神交感をした快楽はわかっても、漠然とした印象と数個の記憶しか手に入らない。
それでも僕は死ぬ間際に、君の中にある僕というイメージがどんなものか見てみたいという誘惑に駆られている。
君が耐え切れなくて壊れるのも僕は、構わないんだろうか? 自分勝手に、目の前のイリスを連れ去ってしまおうか。
イリスは落ち着かない目で僕を見下ろしている。
僕が返事をする前に。
軽い足音がしてきた。
「なんだ、おまえ。もう起きたのか?」
あの女の子だった。
イリスの長い足にしがみついて、僕を睨んできた。瞳に表情がある。顔はそのまま固定されているけれど。内部はちゃんと生きている。
「寝てれば面倒が無いのに」
「君、その言葉はあんまりだ。だいたい、どうして子供を引き取ったわけ?」
「足をつかまれて、男だったらほっておいたんだ。ただ、女の子だったから。・・・・・・そうだった。タルヒ、貴方のせいだよ」
僕はきょとんとした顔をしていたんだろう。イリスは僕を見ながら早口で言った。
「女の子は助けるもの、みたいなことをだいぶ前に言ったじゃないか」
「言ったっけ?」
「言った」
なら言ったんだろう。
「それがきっと残ってて、見捨てられなかったんだ。でもこんなに面倒だなんて思いもしなかった」
育児ノイローゼだね、イリス。
「この子に触ってあげてる?」
「食事や風呂に入れるときは触れる」
「そうじゃなくて。必要じゃないときに。寝るときに隣に置いて、寝入るまで背中撫でてやったりとか。暇を作って膝に乗せて本を読むとか」
あ、眠らせるのにポット使ってるイリスだ。そんなことをやるわけない。
「食事と睡眠と衛生に気を配るだけじゃまずいのか?」
「君、その育て方、幼児虐待だよ・・・・・・。一日、この子は僕が預かる。君はちゃんと眠って、キンカナかジョーに精神交感をしてもらい、自分の中を回復させてきて」
「わかった」
イリスはキンカナのいるラボに足を向けようとした。
「ちょっと待って。この子の名前は?」
「あ? 知らない。タルヒがつけて」
僕はさすがにもう、何を言う気もなくした。
心を開くわけないだろ、それじゃ。
「そうだ。そうしよう。二人の子供みたいでいい」
いいことを考えついたとはしゃぐイリスにはあとで、お説教だ。
子供が子供を育てられるわけがない。
僕はその子を抱き上げた。変に四肢に力が入っていて、抱きにくかった。苦手な飼い主に抱かれた猫みたいだ。噛み付いたり引っかくほど嫌いじゃないけど、抱き上げられているのは嫌だっていう雰囲気だった。
僕は仕事があったから、その子を連れて行った。僕は嫌われていたけれど、その子は能動的に逃げることもなかった。
海賊船のコンピューターをチェックして、システムを一部更新する。起動させて、不具合が出ないかを何度か確かめた。
約二時間はかかったけれど、小さな子は部屋の隅でじっとしていた。じっと僕を見ていた。
この船を所有している海賊がやってきて、彼女の頭を撫で回したり、乱暴に高い高いをしたり、髭で痛い顎ですりすりと頬擦りしたりと、暴虐の限りをつくしたのだけど。まったく反応しないから酷く心配して。
「大丈夫か? 医者に連れて行くなら、タルヒの親戚なら半額で火星に連れて行くが? 脳炎にでもかかっちまったのか?」
と、聞いてきた。
海賊のほとんどはまともで優しい。略奪する海賊は別らしいが僕は会ったことがない。キンカナ殺害未遂事件のとき、裏にそいつらがいたようだけど、僕がいない一ヶ月で始末されちゃったし。
「大丈夫だよ。親と離れて、ショックなだけだから」
「そうか?」
とても心配そうに子供と僕を見た。
「ここは全部終ったよ」
この男とも、もう会えない。
僕はその子の手を引いた。
歩きたくなさそうな目をしていたけれど、強引に引きずった。
森林地区に行くつもりだった。オーロラ号っていうのは金属の箱で、植物は声がうるさいからとイリスは嫌がり、オアシスさえ持っていないのだ。
子供の育成環境としては最悪だ。
命の育成には緑と土と水は絶対に必要だと、僕は実は思っていない。ただ、変化に富む環境は必要だと思う。金属だけに囲まれているのは心を単調にする。まして宇宙には天気すらないのだ。
その子、じゃ呼びにくいか。
名前はすぐに決まった。
「トゥ」
トゥは緑を初めて見たようで、目を瞬かせた。
足を取られて、大人のように転ぶ。なんで?幼児っていうのは、もう少し転ぶの上手なんだが。
倒れたまま、動かなかった。
僕が近づいて、その顔を覗き込む。
トゥの目が爛々と輝いた。
そこにいたのは、たぶん僕だった。
ジョーを壊すと決めて、無理やり精神交感したときの。
ウィディネ?
違うよね。だったらイリスはもっと親身になる。人形のようにこの子を扱ったりはできない。
精神をこじ開けてくるのを僕は許した。拒まなかった。
ああ、なるほどね。人為的なウィディネなんだ? 過酷なストレスを与える環境を作って、そこに浚ったか買ったかしてきた女たちを何十人も投入する。それも妊娠させて。
見るのは辛いな、これは。
でも、この非道な実験は失敗している。この環境に孕んだ女だけじゃ駄目なんだ。彼女たちを庇う、老人や老婆、子供たちを入れて、労わりあう奇蹟のような共同体を生み出さなくては。
テレパスを作るのは絶対の愛情ってことを、この製作者は知っていたんだろう。だから、子供を庇って母親が死ぬかどうかを確認した。
トゥは目の前で母親が死んだとき、精神がぐちゃぐちゃに壊れた。個としてトゥは存在せず、母親と繋がって連になっていたからだ。精神バランスが崩れる。半分以上を引き千切られて、喪失した。
企画者たちはそのあと、テレパスの候補者を、連盟や群の司法で見つけられないように、ケルベロスに連れて行く画策をして。そうして生き物を運ばないという鉄則を持つイリスを怒らせたわけだね。
トゥの悲鳴で、僕は接続を切らされた。
「残念だった。君の三年ぐらいの絶望じゃ、僕の絶望的な二十九年は揺らがなかったね」
震える、屍人形みたいな細い体。
その中は、イリスでいっぱいだった。
テレパスのイリスに亡くした母を感じたのだろうし、そんなところから救ってくれた王子様でもあり、母の仇を討ってくれた恩人でもあるのだから。
君はずっと、イリスをいっぱい詰め込んで大きくなるんだろうね。
でもきっとイリスは今、僕がたくさん入っていて、トゥは悔しくて仕方ないんだ。
トゥなら壊れても、たぶんこの年齢なら支障はないんじゃないかと僕は考えた。人格をもう少しきちんと健やかに再構築できるはずだ。
マイナス×マイナスはプラスになるけど、この場合、足し算かな。
まあいい。
僕はオーバーフローしてくれるのを期待して、泣いて嫌がり拒絶するトゥに僕の人生すべてを流し込んだ。
部屋に連れ帰ると、イリスがもういた。
まだ泣きじゃくっているトゥを見てイリスはびっくりしていた。
今までずっと無表情だったから無理もない。
「どうやったんだ? どんな魔法だ? 笑わせるどころか、泣くも怒るもしない子だったのに」
「単に、この子より不幸な子の話を詳細に語り聞かせただけだよ。世の中、自分が一番不幸だと思って精神を安定させて閉じこもる奴はいっぱいいるからね」
トゥはオーバーフローしてくれなかった。逆効果でさらに精神がねじれただけか? まあいいや。表情も出たし。機嫌悪くなっているならば、そのうち治るだろう。
「なんだ。お話をしてもらったのか」
イリスは言葉どおりに受け取った。お前だけずるいという響きがあった。
母親を取り合う子供みたいだ。
「それはそうと」
僕は自分の愛用しているブックに、たくさんの育児書をダウンロードしてイリスに渡した。とりあえず、シンフォン教授の英才学はいい本だったから、その関連書籍を三冊分。リンクしている育児日記サイトの、波乱に満ちたものを纏めたというネットリライトの定期雑誌もなかなか読み応えあったな。一日の睡眠時間平均二時間で、二週間過ぎてぼろぼろになった母親の愚痴がたまらなく涙をそそった。中はそんな本だよ。
「全部読むこと。読み終わらなかったら、キスもなし」
「ええ!」
いいじゃないか。君は一回読めば全部暗記できる恵まれた頭を持ってるんだから。
「でも、これ、いいのか? タルヒが使っている奴だろう?」
「君は端末はあるけど、ブックはないだろう? だからいいよ。あげる。僕のデータそのままだけどね」
「凄いたくさん、本が入ってる」
イリスは感心したようにボタンを弄っていた。
「今まで読んだ本はそのまま保存してある」
愛読書を辿っていくことは、精神交感に近いのかもしれない。何を思ったか、何を感じたか、どこが印象的だったか話し合えれば。
イリスはそこまでは気がついていない。
僕らはそうやって、最後の逢瀬を人造のウィディネを中に挟んで過ごした。
まるで親子のように。
最後までトゥは僕には懐かなかったけれど、しょうがない。僕は彼女にとって恋敵だ。
別れの日もトゥはずっと僕を睨んでた。
繋がらなくたって、言いたいことはわかった。
なんで、言わないの。なんで言わないの。なんで言わないの。
無言で僕を責め立てる。
「じゃ、また四ヶ月したら会いにくる」
イリスが言う。
「うん。またね」
僕がそう言うと、トゥは僕を殴り殺しそうな気配を溢れさせた。
なぜ、ここまではっきりしたものが、テレパスのイリスたちに読めないのか不思議だ。気配と心は違うものらしい。
オーロラ号がシー・シックを出て行った。
いつか、このことがトゥの重荷にならなきゃいいと僕は願っている。自分のせいで、イリスと僕の最後の時間は滅茶苦茶になってしまったのだと、思ったりしなきゃいい。
これを忘れるほど、君の記憶力は幸福にはできていない。




