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僕はその日、珍しく具合が悪かった。
増えすぎたナノを殺すために、青酸カリを自分で打った。毒が一番、ナノを押さえやすい。それも青酸カリが一番効くらしい。母がそう言っていた。
青酸カリを選択する理由は他にもある。少量で即効くってとこ。とりあえず、注射器一本打てば終る。
青酸カリは常人なら、液体に触れた時点で、皮膚から摂取して死亡は免れないとか。だから扱いには特に気をつけている。
そんな劇薬を四十cc打ち込んで、宥めることしか出来ないような『ナノ・アニマート』。さすが、ブルースが社運を賭けて販売しただけある。
でも、打ってから三時間はとにかく、最悪な体調だった。普段具合が悪くならないから、余計に辛い。酸素がきちんと体に行き渡っていない。体の機能が低下している。体温も下がっている。
これからはこの不快感を一ヶ月に一度、味合わなくてはならない。
僕は室内でゆっくりしていたのだけど、ウィルバの餌の時間になった。
でも、ウィルバが帰ってこない。生んで五年になるけれど、今までそんなことはなかった。
「ウィルバを知らない?」
闘兎をする娯楽室を覗いたけれど、いなかった。そこに居た人たちに問うと、森林地区に居たと答えが返ってきた。
僕はふらふらしながら、そちらに向かった。
目に緑が飛び込んできた。
大分、体が楽になってきた。息が吸いやすい。
池を見ると気が重くなった。でも、もうそれは過去の話だ。
「ウィルバ」
シルバーブルーの肉食兎が僕を振り返った。
哀しそうな揺れる目をしている。
「そっか。行っちゃうんだね。君がいる間、ずっと楽しかった。ありがとう」
ウィルバは返事をするように跳ねた。
「あのとき、重力システム、緩和したのは、君だろう?」
ずっと大きな疑問があった。クーデーターの日。重力を緩和しただけじゃ、僕は床に激突を免れなかった。自由落下による、加速はなくなっても、その手前で与えられた引力からの仕事はなくならない。重力システムを緩和したあと、僕らを助けた何かがいたはずなのだ。
イリスではなかった。イリスはそういうのが不得意なのがわかる。だからこそ、彼女は高い身体能力を維持しているのだから。シーフは間に合わないし、物理干渉する現象を起こすには迷宮のお嬢さんの力を借りなくてはならないようだった。キンカナはイリスがどこにいるかわかっていなかった。当時のジョーなら僕を見殺しにした。
だから、あのときシー・シックにいたウィディネの子ではありえないんだ。
ウィルバは答えない。僕が作った兎はあの虎と同じ物だった。語り合えないはずはないが、語り合ってわかりあえるものでもない。
ウィルバは子兎だった頃のように僕に抱かれようとした。でも、七十八キロになったウィルバは僕の手にちょっと余った。僕は二十七歳になったけれど、体重は変わっていない。差は開く一方だ。
抱き合うというより、チークダンスを踊るように僕はウィルバを支えた。
語り合うこともなくウィルバは宇宙に消えていき、僕は一人になった。
ウィルバがいなくなってから僕はほとんど一人で過ごすようになった。
シャーサはいたけれど、イリスの気分を害すから、セクサロイドとしての機能はしていないし、兎をまた作って闘兎をする気にはならないから友人づきあいも減った。
ジョーは僕がまだ疑わしいらしくて、手っ取り早く精神交感をしたいようだったから、意地悪をしてみた。
表層まで入れて唐突に切断する。そうするととても痛いらしい。精神的な痛みっていうのがよくわからないから、僕は同情しないけれど、本当にとても痛いらしい。ジョーはしばらく硬直して、涙目になったあと痙攣していた。見てるだけの僕はそれは面白かった。でも、おかげでますます僕への当たりが酷くなった。
僕は彼にはどうしても残酷な気分になる。
小さな子に、傷口見せたがる大人っているだろう? ぱっくりと裂けてるのを、わざわざ包帯外して、嫌がる子を捕まえて目の前で「ほーら」って見せつけようとする、ちょっと歪んだ困った人が。ああいう感じなんだ。
ウィルバを失った僕をイリスはとても心配した。一緒に船に乗ろうと言ったけれど、僕はそれは辞退した。僕が耐えられない。僕は一日四時間しか眠らない、活動に向く体質になっている。長期の船になんか乗ったら、僕は精神がおかしくなってしまう。
イリスは四ヶ月ぐらいに一度やってきて、一週間ぐらい居て、また去って。
それを繰り返した。だからこの恋愛は続いている。イリスはずっと側にいたら、僕に嫌気がさしたと思うし、僕はイリスがとても煩わしくなったと思う。
僕がそんな生活に慣れた頃、とても懐かしい客を迎えた。
アルシュ。母の客。僕を息子だと思い込んでいた人で、今でも僕を息子だと言ってくれる人。
僕は彼を父と呼んでいる。
六年ぶりに見たアルシュはあまり雰囲気は変わっていなかった。不老処置を受けているから見かけは老いない。
彼が船に乗ることはほとんどなくなっていたはずだから、重要な商談の途中で寄ったのかと思ったのだが、
「わざわざ息子に会いにきちゃまずいのか?」
と聞かれて、嬉しくなった。
ただ、アルシュをシー・シックに入れることに不安があった。僕に関する何かを彼は抱えていた。
ジョーは読み取るだろう。
それが彼に影響しなければいい。そうでなくても、アルシュは母の死に様を知っている。母に似た僕を前にきっとそれを連想して、読み取りやすくなるだろう。
でも、アルシュの船はシー・シックで補給しなくては戻れなかったから結局中に入ってもらった。
まず、彼は僕をぎゅっと抱き締める。小さな頃は僕のほうが低かったけれど、母が死んで三年もしないうちに、僕は彼の背を抜いてしまった。それが彼には誇らしかったようで、仲間に自慢していた。
次に背中を叩く。
この優しい触れ合いが僕は大好きだった。
何かを探ろうとやってきたジョーの顔が見る間に蒼褪めていくのが僕の目に入っていた。
アルシュが抱え込んでいる秘密に悩んでいるのは知っていた。でも、彼は六年前、彼の船を出る僕に語らないという選択をした。僕も聞き出す必要はないと思った。
アルシュは哀しげに僕を見る。
「血の色が濃くなっているのか? まるで、蒼褪めた薔薇のようだ」
薔薇というのは母のこと。蘭と呼んだりもする。とにかく派手な花のイメージをアルシュは持っている。
「明後日には、薬を打たなきゃいけないからね」
去年から母さんのやり方を真似した。確かに刺青は便利だった。血の青さが目立ってきても、普通の人間のもつ色を保てる。唇と頬に、色を刺した。そうでなければ、僕の唇なんかもう真っ青だったはずだ。
「今日は語り明かそう」
「ええ、お父さん」
イリスがいなくて良かった。
僕に告げない秘密は、僕が知る必要のない、たぶん絶望的な秘密のはずだから。そんなものを読んでしまったらイリスが傷つく。
アルシュを僕の部屋に誘って通路を行く中、遠くでされた会話が拾えた。
「ジョーの奴、便所駆け込めずに、そこで吐いてたぜ? なに食ったんだ?」
「試作機に乗ったってけろっとしてる奴がどうしたってんだ?」
アルシュは平然とした顔をしていた。そうだろう。自分が抱えた秘密がジョーを嘔吐させているのだとは露ほどにもしらないし。それだけのものを、もう消化しているのだ。
そして、僕を抱きしめて息子だと言ってくれる。アルシュのところで、自立しないままいるのを嫌がる僕に、ここを紹介してくれもした。
部屋に案内して、椅子を勧める。
アルシュはおやっと目を細めて、僕に笑いかけた。
「船乗りの恋人ができたのか」
母と僕の写真の隣に、イリスと僕の写真が置いてあるのを見つけたらしい。
「うん」
僕は左手の薬指に嵌っている指輪も見せた。
「古風な女性だな。そういう誓約の指輪は火星が一番らしいが」
「火星で買ったよ。とても僕のことが好きなんだって」
「おまえは」
「好きだよ」
アルシュが僕を呼ぶ言葉が、『君』が『お前』になったときは、くすぐったい気持ちだったな。内側に入れてもらえた気がした。そういうささやかな変化。
イリスは僕を名前で呼ぶか、『君』といったけれど、今ではときどき『貴方』という。僕が百歳近く年が下だということをもう忘れているようだった。
「そうか」
アルシュが目を閉じて、何かに浸っている。
母との記憶だろう。
「どうしようかと、思っていた。六年前、伝えるべきではないと思った。だが、六年が過ぎて。おまえは二十七になった」
僕が母に宿った年になったわけだ。
僕は彼を楽にするために、事実を告げた。
「悩む時間はないんです、お父さん。僕はすでに一ヶ月おきに薬を打つ状態になっている。母はそうなったときは、確か三十五歳ぐらいからでしたが。僕にはあと六年もないでしょう。せいぜい、二・三年です」
ジョーは彼の思考を読んで、吐いていた。
僕はアルシュがこぼす秘密を、なんでもないように飲み干して、笑ってみせよう。
『教えてくれてありがとう。それは僕が知るべきことでした。ずっと悩んでくれてありがとう、お父さん』
顔色を変えずに、そう言う自信がある。
それがどんな内容であっても。この死に勝る秘密などないだろう。
アルシュは僕の手首を掴んだ。握る指が震えていた。
「どうぞ、お父さん。貴方は僕の何をしっているのです?」
アルシュが帰ったあと、僕はシー・シック中を走り回って、ジョーを見つけた。
僕を見たジョーは口を押さえて、背を向けた。アルシュから拾った記憶を思い出したんだろう。
僕は手にもっていたスパナをジョーの後頭部に見事に命中させた。
他の人ならよけられるのにね。五年もいるのに、まったく僕という存在に馴れないお馬鹿さんだな。
「僕が考えていること、わかる? わかるわけないよね。だから口に出して言ってあげるよ。君をぶっ潰そうと思ってる」
ジョーは起き上がろうとしたけれど、その鳩尾に蹴りを入れて、動けなくしてからその足を引きずって人が入って来れないところに連れて行くことにした。
僕は妙に高揚していた。はっきり言えば、ハイだった。落ち込むより暴力で精神的鬱屈を晴らして楽になりたくなっていた。
人口密度は異様に低いからどこか倉庫にでも引きずり込んで、鍵をかけちゃえばいい。
素晴らしいよね、ジョーが僕より体格がいいっていう事実。ジョーは荒くれ者たちの中では最強だっていう常識! そして僕は細くて頼りなくて人当たりのいい優等生っぽいっていう外見。喧嘩なんてほとんどしない。
おかげで僕がこれほど物騒なことを言って彼を引きずっていっても、
「ほどほどにな」とか「あんまり付け上がんなよ、ジョーはおまえが可哀想でわざと負けてくれてんだぞ」とかいう的外れなことを言うけれど、本気で制止する仲間はいない。
いやもう、ほんっと。最高。
大人が子供の遊びに付き合っているっていう風にしかみんな見てくれないんだね。顔も殴ってないし、蹴ったのは腹だから、人から見えない。綺麗なもんさ。かち合う人はみんなジョーが唯々諾々と僕の言うことを聞いているんだって認識する。
僕にずるずるって引きずられていくのは、何かの罰ゲームにしか思われてないんだろう。
空倉庫があったから、そこに入った。鍵をきちんとかけて。
僕は精一杯優しく微笑んだ。
ジョーは悲鳴を上げて逃げようとしているけど、脳震盪起こしているから立ち上がれない。根本的な部分で君らは人間。
「人間っていうのはね、プライバシーっていうのがあるんだよ。必要なんだ。わかる? わかんないよね。いいよ、わかんなくって。見るんじゃなかったって、とっても後悔してんだろ? 自業自得だよね。君はわざわざ僕に関わるアルシュからの意識を故意に覗いたんだから」
「触るな」
僕に触れられるのが気持ち悪いんだろう。あんなことを知ったら、たぶんそうなる。
僕はあえて、素肌の部分、頬に手を当てた。
胃液を少し、ジョーは床に向かって嘔吐した。もう中味もないんだ。あれからずっと吐いてたんだろうな。
「ずっと僕としたがっていたよね、精神交感。やってあげるよ」
ジョーは呻いて頭を左右に振った。だが、どこかで安心した顔をしていた。彼は僕がウィディネ出身者じゃないから、それは出来ないとたかを括っているのだ。
適当に他者の精神を入れたり、拒絶したりできる僕が、君らと接触していて覚えないわけがない。
根っこは同じ生き物なんだよ。
ただ、寒いのが得意か、水に潜るのが得意かっていう差があるだけの。
外の者が出来ないと思い込む。それは根拠のない選民意識でしかないんだよ。
「イリスは最初、ベッドで僕に仕掛けた。あれって結局、絶頂を迎える瞬間が一番精神的に無防備で、気持ちが繋がっていやすいからだろ?」
ぷるぷるとジョーは頭を左右に振った。冷や汗を掻いて、泣きそうな目をしている。
僕はこの上なく優しい表情を繕って言った。
「たまには君も、精神的陵辱されてみたら?」
母は蘭だった。綺麗で淫ら。優しい花だ。
アルシュは言う。彼女は人を傷つけない。お前は違う。近づくものを等しく傷つける。
だから僕が薔薇だった。
僕の腹いせは思ったより上手くいかなかった。廃人になるか、情緒が危うくなるのを期待したのに、柔軟な子供の精神は心のオーバーフローを受け流すために、それまでの記憶を二ヵ月ほどを消去したのだった。海馬にあった記憶を全部を流して平静を保ったわけだね。
まあいい。
僕の目的はアルシュの意識を読み取ったジョーからイリスにそれが渡ることを阻止するためだった。
「記憶していることは、いくつかある」
ジョーは医務室に僕を呼びつけて言った。
彼はベッドで寝ている。頭の包帯と、胸に巻いた包帯は、僕がやった暴力のせい。怒っていたとはいえ、スパナは人の頭に投げつけてはいけない。次はやめよう。物理的に取り返しのつかないことになったら困る。
「何?」
ジョーは思い出すために眉を寄せている。
「どんどん狭まってくる檻の中に俺は居て、俺は青いインクを吸い上げて花びらを青くした花なんだ。たぶん、薔薇かな。潰されてしまうのがわかっているのに、俺は奇妙にその檻の中が気持ち良いんだ。あとは、お前が俺やイリス、キンカナにとても好意的だってことかな。とても遠い上の位置からイリスを見ていたり、すごい近距離でキンカナを見上げたり、目まぐるしいが。正直、俺はお前を覗いてこんなことになるなんて思わなかった」
ジョーは自分で僕を覗いて、ショックで倒れたのだと思っているようだ。そのほうがウィディネのテレパスとしてのプライドは傷つかないから。外の僕に無理やりこじ開けられて、たかだか二十七年の人生流し込まれて、オーバーフローしたなんて、彼には恥ずかしいはずだ。
ジョーは口ごもったあと、おずおずと切り出した。
「身勝手なお願いなんだが、イリスと精神交感は、しないで欲しい。イリスでは耐えられない」
どうやら、それが僕を呼んだ大きな目的だったようだ。
僕は笑っているんだろうか。
「もちろん。僕は誰も心に立ち入れるつもりはないよ」
ジョーはほっとした顔をした。
「もうお前とは交感はしないと、約束する」
ジョーの中の感触はキンカナ一色だった。キンカナが昔キャロルという名前だったのは妙というのか、笑いそうになった。だって、キンカナってほうが絶対似合ってるもん。
ただ、ジョーは本当にキンカナのこと好きなんだなぁというのはよくわかった。
「じゃ、僕はもういく」
僕はドアを出ようとすると、ジョーが呼び止めた。怯えるような声だった。
「タルヒ。どうして、その圧迫された状態で、妙に安らぐような気持ちでいられるんだ? それはとても不自然だろう?」
僕は振り返らずに言った。
「それが、生まれたときから日常だったからだよ」




