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シー・シックにそのまま帰るはずが、『ウィディネ』に寄ることになった。
『ウィディネ』とシー・シックは太陽を挟んである。つまり、同じ軌道上の対面をずっと飛んでいる。僕はその意味に今まで気がつかなかった。
ウィディネの子たちは、故郷かシー・シック、どちらか近いほうで心身と船のエネルギー補給ができるわけだ。
それにしても『ガルーダ』の飛行速度は異常だった。飛び方も妙だった。これはもう非科学的領域なんだ。
シー・シックに近いはずの火星が、同じ日数で『ウィディネ』に到着するなんて異常だ。
『ウィディネ』の地下迷宮を守る女性にそれを指摘したら『迷宮のお嬢さん』が笑った。
「電子法則を利用したから」
その一言で僕は察した。
つまり、これは、星の公転軌道をなぞることで、その公転軌道上にワープするってこと? 画期的な運行システムだ。少なくても太陽系ではとても便利だ。太陽の反対側に居る惑星にもすぐにたどり着ける。
いつだっけ。誰かが論文を出したんだ。中性子の周囲をまわる電子が高速回転しているときに、不意に瞬間移動してその回っている軌道上に出現することが目撃されたのはもうずっと前で、そのあと二百年ぐらいしてからかな。火星の学者が『強い力(恒星)によって正確な道筋を辿らせられているその繋がる軌跡があり、速度がそれに見合えば、電子と同等の現象は起こりうる』といったんだ。
「ただ、まだ軌道上のどこに出るか完全にはわからなくってね。おまけにせいぜい土星の公転までしか追えていないし。改良しだいで冥王星の247・8年ぐらいまでは利用できるかしら。速度と恒星の引力いう問題は残るけれど」
僕はその話を彼女と続けたかったんだけど、イリスは不愉快そうな顔をして、僕を迷宮に引っ張っていった。
「イリス、このシステム、凄いんだよ。もう少し彼女と喋らせてよ。太陽を中心に回っている全ての星が最短距離で繋がるってことだよ。画期的なんだ。絶対出来ないって諦めていたワープ。ちょっと飛距離短いけれど、ワープ走法理論が完成したってことなんだよ?」
「そういう話ならあたしも出来るの」
イリスは母親が他人の子を褒め上げるのを聞かされる小さな子供みたいな顔をしてる。
「だって、君は僕と会話をするとき、僕が昔何をしていて、どこにいて、誰と会ってどんな気持ちになったかという話ばっかりじゃないか」
「精神交感すれば、数秒で全部わかるのに。タルヒはさせてくれない。これじゃ、百年語ったて、全部はわからない」
イリスは嘆いた。僕が嘆かしている。
ごめんね。
「このままだときっと一生わからない。でも、聞く。聞かなきゃ、全部わからないままだから」
真理だね。イリスは本当に、意味深いことを口にする。
僕の背後からウィルバがついてきていた。
地下迷宮。
あのお嬢さんはここで唯一の若い人らしい。 といっても、キンカナの一卵性双生児。お姉さんなんだという。
キンカナが女性だったってことが驚きだ。
お姉さんのほうはせいぜい三十代前半にしか見えない、白い肌で小さな顔をした長身(ウィディネの住人って体大きいよ)だ。これをどうやったら放棄できるんだろう。
だって、剥げて、腰の曲がったしわくちゃのおじいちゃんになったわけだよ?
「キンカナは面倒は嫌だからって。海賊専門なら、男のほうが都合が良いし、年を取らせるのが面倒だから、最初から老人の姿にしておこうってことになったんだ。ジョーは心配してついていった。あいつはキンカナのこと好きだったし」
おじいちゃんになった好きな女性を、間近で見つめ続けるのって、ジョーには辛くないんだろうか?
イリスたちは精神交感の快楽はセックスに勝るという。だから、異性同性、多少外見のくたびれ方が激しくても一向に構わないんだとしたら、キンカナは確かに引く手数多だろうと思う。だって、イリスやジョーを見ていると、キンカナが一番精神面が熟して豊かなように僕は思える。シーフも落ち着いているけどさらに上。
あのお嬢さんもそうだった。果樹をたくさん実らせて、それでも枝はしなりはしても折れずに、超然と立っている豊かな大木だった。
「だいたい、最初はみんな、男になって船に乗っているよ? 元々男の場合はそのままだけど」
僕はそれを聞いてこれ以上なく理解した。イリスがときどき乱暴な理由。背丈や肩幅が妙に立派過ぎる理由。
元が男性型で、そのまま女性に変化させたと言わんばかりだ。背を低くしたり、腕や足の長さを変えることによって、日常生活のちょっとしたことがしばらく不便になるのが嫌だったんだ、きっと。
「君は何年ぐらい男でいたの?」
「十二歳のときから、ざっと八十歳になるまでは男だったから六十五年ぐらい」
「男性化しても機能しないだろ。よくばれなかったね」
男を女にするのは比較的簡単。二十世紀にはできたっていう。妊娠能力はないけれど。余計なものを切り取って、穴を開けるだけだから。
女を男にしても、繁殖行動は取れないから、ばれやすい。性同一障害という病気以外ではこれにはメリットが乏しい。
性転換に関しては、今も切って作って縫い付ける、程度のことしか出来ないままだ。
「機能はするよ。子供を作ると、染色体がXXだから、女の子しか作れなかったらしいけれど。船に乗る前にさっさと避妊手術して、殺精したから、あたしの知らないところで命が生まれたりはしてないはず。姿形を変えるのも、二ヶ月ぐらいでまったく別人になれる」
「ウィディネ人ってみんな色素薄いんじゃないの?」
さっきのお嬢さんも色があるかないか一瞬途惑うほどの淡い金髪だった。
「そうだよ。でもだからあたしは、真っ黒にしてもらった。薄いの嫌いなんだ」
「本当に、ちょっと見ないぐらい黒いよね。顔立ちとかは黒色系とは違うのに」
唇の厚さがないし、鼻も平たくない。髪質だって素直でまっすぐ。縮れたりはしていない。変だなとは思ってた。
「何度も体を変化させているから、あたしの体細胞は大きく変質している。だから、タルヒの病気にはかからない。安心して」
僕はその言葉を聞いてほっとした。初めてイリスとしてからしばらくして、僕はとてもお腹が痛くなってしまったんだ。イリスに感染させてしまっていたらどうしようって、そればかり心配で。すぐに『ガルーダ』に乗せられてしまったのだけど、おかげでろくに寝られなかった。今でもときどき、そんな未来を示す怖い夢を見る。
迷宮と呼ばれるだけあって、落ちていくような、荒れた通路。電気もあまりついていない。
金属の道が延々と続く。でも、分かれ道や行き止まり、隠し通路といったものはなかった。曲がったり降りたりくねったりしてはいても、一本道だ。どこが迷宮なのかと僕は思った。イリスに問うと。
「今は一本道に見えているだけ。今日は少し遠い」
日によって変わるのか。雰囲気からして、ヴァーチャルリアリティを使ってるみたいだ。言われなきゃ気がつかない精緻さ。
通路の奥から音の響きが届いた。
シーフが口にした、あの音だ。
世界すべてに歓喜しているような響きだった。
僕がそこで見たのは、イリスたちよりずっと宇宙に適応した、幸せな生物だった。
音の唱和で精神を融和させて、個々の意識は全体で溶けてしまい、一切の孤独と無縁になっている。
完結して、ほかに何も必要ない。
老人たち。
時間の流れがまるで違う。もし、ここが単純計算で、公転八年をそのまま体が一年と捉えているのだとしたら。
彼らにとって、災厄の日から十六年ほどしか経っていないということになる。
おそらく、その机上の空論のはずのこれが、彼らに適応されているのだ。
イリスたちか若々しいのも、当たり前だ。
百三十年は、そんな程度の歳月なのだから。「タルヒ。これがあたしの母だ。まっ、一応ね」
そこには色素がすべて抜け落ちたような女性がいた。ほんのりと赤の混じった白髪。赤みのある紫色の目。血が透けて見える薔薇色の肌。たぶん、光の乏しい世界に長くいるから、抜けてしまったんだ。
髪を切る、見てくれを整えるということなど考えないに違いない。長く伸びた髪が全身を包んで余りある。
僕は先の認識の過ちをすぐに悟った。
イリスの母親は娘のイリスよりずっと肌が若く見えた。時間の流れから完全に隔離されているとしか思えない。たぶん、あの災厄の中、ここに到達したときに彼女たちの時間は止まってしまったのだ。
無垢な笑みではなく、心から何か楽しいことに満たされて微笑む聖人のようだ。大きなクッションに全身を委ねて、寝返りを打つほかは特に何かをするでもない。きっと、イリス以上に新陳代謝は落ちていて、食事量も少ないのだと思う。ここにいる八百人ばかりの人間をキンカナの姉一人で面倒を見切れているのだから。
二千人の生存者の大半は、子供だったらしい。子供、妊婦、老人を先に避難させた結果だ。避難所には成人男性は一人もいなかった。十六歳以下の少年と、六十八歳以上の老人だけが残った。
手元に蜂蜜とミルクのボトル、小さな干し果実が籠に載せられて置かれているが、手をつけた様子がない。
唐突に、肺と腹腔を幾度も跳ねて崩された音が放たれた。
その僅か数秒に満たない声の中に納められた内容の膨大さ。僕は経験していないけれどイリスが求める精神交感さえ、これの前では未熟なコミュニケーションに思えた。
息苦しくなった。
僕の肺と胃と、あらゆる空っぽの部分を響かせて、揺さぶる音が、僕の意思と接続する。
彼女はたくさんの答えをくれた。
一応、母親だという、冷淡に受け取られかねないイリスの言葉は、ここにある者すべてが親であり、命を育んでくれたものという認識から発せられたものだった。この母一人ではイリスは存在しなかったということだ。
遺伝的な母の声を受けて、周囲にある者たちの声が唱和する。
ここには上下関係がない。
この音は命がどれでも出すことのできる音だった。
僕はここに立っているだけで涙が出そうになった。
「泣けばいいのに。あたしなんか、何度タルヒに泣かされてると思ってる?」
イリスがぼやいた。
落とされた照明。適温より一度ぐらい低い温度の、閉じた世界。
あまりにも幸福な場所で、幸福な人たちを前にして、僕は羨望の溜息をつくほかなかった。




