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塵の末裔  作者: 無夜
幸せな生命
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2


 一日という単位は曖昧だ。

 二十四時間である、というのは地球の法則。僕らはそれを用いているけれど、火星ではもう火星時間で一日を過ごしている。二十四時間三十七分だからさして変わらないけれど、どんどん地球時間とずれていくから、カレンダーは標準暦と火星暦の二つが必ず記載されている。火星住人にとっては旧暦と西暦みたいな感じで、地球暦はイベントのためのものになっている。昔は閏時間や閏年を入れたりしていたそうだが、その風習は、独立とともに失われた。

 当たり前なことに、宇宙は広かった。

 シー・シックは火星と木星の狭間にあるといったって、それは軌道上のことで、地球のほうがずっと近いときだってある。

 『ガルーダ』に乗っている間中、ウィルバとイリスに膝を取られて、僕は難儀した。

 イリスは宇宙船ではずっと眠っている。二十四時間のうち、二時間ぐらいしか起きていない。食事量もすごく減る。蜂蜜を溶かしたホットミルクを一杯だけ飲んで終ってしまうことがしばしばだった。最低限の水とカロリーで生きていけるように、体が出来ている。新陳代謝は低下して、シャワーを四日も浴びてないけれど、髪は根元までさらさらとしている。トイレは三日に一回ぐらいしか行っていない。

 宇宙船の船乗りとしてイリスは適応しきっていた。

 僕はそんなわけにはいかないから、日に二回の食事と、二回のおやつ、一日おきのシャワーはさせてもらった。あとは、イリスが頭、ウィルバが顎を僕の膝に乗せているから、背中にクッションを入れて、楽な姿勢でブックから最新の科学雑誌を読んでいた。最近は目覚しい発展がない。イリスに言わせれば詰まらない内容だというけれど、細かいところは少しずつ進歩していて、全体が一歩ずつ進んだなら、何か違う風景だって見えるはずだ。僕はそういうのが面白いから好きなんだ。

 ここは居間みたいな部屋だ。『ガルーダ』は完全に球体だった。面白い設計だと思う。外壁と内部の部屋を一体にしていないんだ。これによって、着陸時にぐるぐると回っても、中の部屋は回転と無縁でいられる。想像したより快適だった。

 イリスは五日ごとに体を解すためにトレーニングルームに入って、汗をかき、シャワーを浴びて、ちょっと重たい食事をしてまた眠る。その時は、まだ体や精神が高ぶっているからべたべたと僕に甘えたがった。眠入る寸前までたわいない話を求められる。

 母が僕に神話の話や、ゲームの話をしたように、僕はイリスに聞かせる。

「いっとき、養父の仕事がどたばたして、僕はエウロパに行かされたんだ。寒かった。とても小さなドームに暮らしていて、良かったのは、外に出るのが楽だってこと。氷(宇宙では水は重要資源)を切り出して生計を立てるところだった。僕は力があったから、よく駆り出されてね。ドーム内だってマイナス二十度になったりするんだけど、外は一番あったかくてマイナス百三十度だ。防寒用と酸素供給用の宇宙服着てね。空を見る。青空なんてなくて」

 僕は言ってしまってから、口元をゆがめた。

 自分の常識の多くは非常識だったことを思い出したのだ。人類の七割以上が、青空や夕焼けを知らない。海も間近で見たことがない。四季などという言葉はわからない。

 イリスは半分眠っているようだ。

 僕は続けた。相手が聞いてないから喋れることってあるんだ。

「見上げるとすぐ上に、木星があるんだ。すごく怖いよ。大きくて、瑪瑙縞が目玉みたいに動く。見られているみたいで、もし地面を思い切り蹴ったら、木星の引力は僕を捕えてあの渦の中に引きずり込む気なんじゃないかって心配した。体が動かなくなった。でもね、吸い込まれてしまいたいって思う日もある。すごく近すぎると、体より気持ちのほうが先に持っていかれる」

 衛星が見下ろしているんじゃない。衛星は常に見下ろされているんだ。

 光はもはや弱々しく、温もりなど淡く弱い。

 真っ黒な空に常に星は瞬く世界。木星は太陽の反射光をエウロパの銀の大地に降り注がせて。

 世界は一瞬、赤っぽい茶色に染まっていく。

 僕はあのとき、ジュピターバグ(木星大気に放たれた巨大で薄っぺらな虫。食用)になりたかった。

 ふっと丸窓から外を見たとき。

 虎の毛皮が飛んでいるのが見えた。

「イリス。外に剥製が落ちてるよ」

「ん・・・・・・。どっかで船が破損したんじゃない?」

 虎はにやっと口を開けて笑った。生きているのがわかる、爛々と輝く金の瞳。長い生で得た叡智が入っている。イリスたちがときおり見せる目だ。ウィディネの子らは、感情に振り回されて、そういうのは一瞬しか見せないけれど。

「イリス。宇宙空間で命って生きていけたっけ?」

 僕は不安になって聞いてみた。無理なのは知ってるけど、一応。僕の知っている常識が間違っているかもしれないから。

「死ぬ。圧力(気圧)がないから、血液があっという間に沸騰して、目玉とか腹とかが膨れて飛び出す。それでは生きていけない」

 イリスは目を閉じたまま答えた。僕の常識とここまでは反しなかった。

「だよね」

「仲間が着の身着のまま外に出たことがあったが、酸素で周囲を覆って、圧力を保って。十分ぐらいで戻ってきた。飽きたそうだ。そしてこう言った。『手間も隙も神経も使ったけれど、それほど面白くなかった。宇宙はガラス越しに見たって生で見たって、それほど変わらない。音もないし寒いだけだった』って。そんなもんだよ」

 それは僕の常識と微妙に違うよ。

 贅沢な感想だな。それって、テレキネシスなんだろうか? そういうのもできるんだ?

 僕はもう一回外を見たけれど、虎はいなかった。当たり前だよね。この船は結構な速さで動いてるんだから。

 ・・・・・・剥製だったら、窓に張り付いていたわけでもないのに、なんで何秒も僕は見ていられたんだ?

 小さすぎてレーダーに映るようなものでもないから確認もできない。そういえば、レーダーもけっこう役立たずでね。隕石なんかは発見するけれど、海賊船や警備艇はみんなステルス製だから反応しないんだ。結局どうしているかというと、モニター確認。全方位にカメラを設置して動くものサーチして船は軌道修正する。なにせ、人間が肉眼で識別できる距離って、互いに接近している状況だったなら、0.01秒でぶつかるとか。

 怖いよね。そういうのを知ってから、僕は自分で船乗りになるのは嫌だなって思う。

 ウィルバはのそのそと起きだして、後ろ足で立ち上がって窓の向こうを長いこと覗いていた。

 ときどき、ウィルバは何か考えている顔をする。知能は家畜用そのままにしてある。だから、知性より本能のほうが強いはず。

 ウィルバは黒く濡れた目を僕に向けた。

 虎と寸分違わぬ、感情より何かの律を優先した目だった。

「あれ、もう火星が見えてきた」

 僕はびっくりした。

 どう考えても、それはありえなかった。この速度で、十三日で火星が大きく見えるなんて不自然だった。

「ああ、理論も技術も、完成した」

 イリスはやっと目を開けて、それでも僕の膝からどかずに悪戯っぽく笑った。

 秘密を抱えている顔で。でもまだ言わないよ、っていう子供のような大人の女のような。

 そんな顔。



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