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9/12

一万三回目の完璧な死、病床で彼は三音の愛称を返し、熾火の一滴が逆に流れた

 八年目の冬。春をもう一度見ることは、彼にはない。

 ——最終工程の配置を、確認する。

 八年目の冬、病室の窓に、雪が斜めに打っていた。


 修道院の医師は匙を投げていた。院長が私を常駐の看護係として指名した。——これで最後の設計図に、手をつけられる。


 彼の寝台の横に、私は椅子を引いた。彼の呼吸が一拍ごとに、浅くなっていく。


   *   *   *


 狭間。


「最終工程の配置を、確認する」


「純度予測は」


「〇・九七。——八年、お前は帳簿を外さなかった。八年分の熾火を、彼の魂に沈殿させ切っている。回収の瞬間の振幅は、前世並に達する」


「承知した」


「ただし——」


 アズラエルが、珍しく言葉を止めた。


「お前の側の蓋の逸脱。——累積、八年分。今世の純度予測には影響しない。ただし次世の結線には、何か別の条件を要求するだろう。記録しておく」


 私は答えない。


 接続が切れる。


   *   *   *


 彼の瞼が一度、震えた。

 目を開ける。八年前と同じ光を、瞳の奥に溜めている。——痩せ細った器の中で、魂だけが八年間、そのままの光を保っている。


「——そばに、いてくれたのか」


 彼の声は細かった。けれど抑揚は低く、落ち着いていた。最後まで、修道士の声だった。


「はい」


 私は短く答える。短くしか、答えられない。声の高さが、平らに、収まらない。呼吸の拍が、計測値の通りに、整わない。


 ——その歪みを、私は帳簿の外側に記録する。


「——お前に、返したい、ものがある」


 彼の唇が動く。


「分からない。けれど、八年間、胸の奥に残り続けた音だ。——お前に、渡したい」



 彼の痩せた手が、私の寝巻きの襟元に伸びる。

 伸びた手を、私は止めない。

 寝巻きの上から彼の掌が、私の左鎖骨の薄荷の痣の位置を、探り当てる。——目では見えない。彼は布の上からの手触りで、その位置を知っていた。


 ——写本の、あの一行。


 彼は、何かをそこで果たそうとしている。けれど手順を、彼自身も、知らない。知らないまま、掌はそこに置かれている。


 彼の掌の下で、私の薄荷の痣が、微かに熱を持つ。


 ——鎖骨の下、葉脈の一筋まで、一万三回寸分違わない。


 彼の瞳の奥で、波紋が深まる。津波には、届かない。


   *


 ——泉のほとりで、誰かが笑った。


 この瞬間、夢ではなく現実の狭間の隙間に、その情景が重なる。

 泉のほとりで男が、女の耳元に、三つの音を落とす。女が笑う。私だ。一万三回前の、私。


 ——彼が、私に名前を授けている。


 男の顔は影に沈んでいる。ただし瞳の奥の光だけが、今、私の目の前の痩せた修道士の瞳の光と同じ。


   *   *   *


「——」


 彼の唇が、三音を形にした。


 音そのものを私は、ここに記さない。帳簿の外側の音は魂の表層には定着しない。——ただし器の芯が、確かにその音を受け取る。


 一万三回目にして初めて、私は彼の口から、私自身の本当の名前を聞いた。


 熾火の、一筋が、流れ込んでくる。


 ——彼の胸から、私の胸へ。微かに、ほんの一滴。一万三回目、流れの向きが、逆だった。


 八年分の全量ではない。象徴としての、一筋。それでも、一万三回の観測にない現象だった。


 これは、設計図になかった。

 設計図は、私が彼を看取るという一行で、八年閉じてきた。

 ただし彼の側は、最後に、設計図の外側のもう一つの仕事へ、手を伸ばしかけた。


   *


 ——呼吸の最後の一つを、彼は吐ききった。


   *   *   *


 狭間。星の海。アズラエルの声。


「完了。純度〇・九六。——損失率ゼロの純度としては、一万三回で最高値」


「過去最高は」


「一万一世の〇・九八。そこには、まだ届かない。——ただし今世、別種の成分が初めて混じった。彼側からの、一滴の、逆流」


「……」


「今世、初めて観測された現象。——だがこれは完全ではない。お前の帳簿の本当の逸脱には、まだ届いていない。記録する。次世以降の、階梯の、第一段として」


 アズラエルの輪郭が、三度目に揺らいだ。


「次世の予告。時代はさらに遡る。彼は再び忘却側。器は赤子。お前は記憶側——ただし今世、お前の魂に残った彼からの熾火の手触りを、次世に持ち越すかどうかは、帳簿の外側の問いだ。持ち越せるかどうか、次世までにお前自身が答えを出せ」


「持ち越す」


 私は即答した。


「承認。——ただし今世、お前はあと三十年生きる。器の寿命は残っている」


「分かっている」


「三十年は帳簿の外の時間だ。——お前の好きに使え」


 狭間が閉じる。


   *   *   *


 現世に戻ると、彼の体は、まだ、私の腕の中にあった。冷たい。

 その冷たさが、最後まで、私の側の体温に戻ることはなかった。


 三十年。


 私は女子修道院に残った。写字室の奥の机は空いたまま、八年、十年、二十年が過ぎた。新しい修道士がその机を引き継いだ。私は下書きを引き続けた。


 毎夜、私は帳簿の外側に、ひとつずつ問いを書いた。


 ——私は、何故、この男のために、死に続けてきたのか。


 ——彼は何故、最後に熾火を、私に返したのか。


 ——泉のほとりで笑った私は、何を知っていたのか。


 問いの数は三十年で、三百を越えた。


 答えは最後の一年、ようやく一つだけ芽吹いた。


 ——答えを、ここには記さない。帳簿の外側の答えは、私自身の魂の奥にしか定着しない。


 ただし一万三回目の私の死の際、私は初めて笑って死ぬつもりだ。


 笑い方を私は、八年前の夢の泉のほとりで、もう思い出していた。

 一万三回目の私の死の際、私は初めて笑って死ぬつもりだ。

 ——笑い方を、私はもう思い出している。

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