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一万四回目の朝、古代神殿の儀礼書に、薄荷を肩に持つ巫女の一行があった

 二世続けて、古い時代に降りる。

 今世は塩と石の神殿——孤児の巫女見習いとして、私は置かれた。

 一万四回目の朝、私は塩の匂いで目を覚ました。


 検収の手順は変わらない。指先、足の裏、喉の奥、最後に左鎖骨の薄荷。葉脈の一筋まで、一万四回寸分違わない。魂の識標。

 ただし今朝は、藁布団の繊維が前世の麻より荒い。器の感触が、二世続けて、古い時代に降りている。


 小部屋の壁は石。隅の祭壇には、複数の神々の像が、油の煤で黒ずんだ顔を並べていた。私は孤児として、この神殿に献じられた女。今世の器の履歴は、その一行で十分だった。


 藁布団の縁で、指先を一度、開いて閉じる。器の指は細く、関節は柔らかい。儀礼の所作で右手を額に当ててきた癖が、その柔らかさに残っている——前の持ち主の二十年。検収の最終工程は、いつも、その柔らかさごと魂が引き取る一拍だった。


   *   *   *


 検収を終えた直後、星の海のような虚無が短く開く。狭間。アズラエルの声。


「結線確認。今世の記憶側はお前、忘却側は彼。復唱せよ」


「記憶側、私。忘却側、彼。承知している」


「承認。——契約不履行の帳簿条項を、今朝も通告する。前世の純度〇・九六、累積平均を上回る。ただし純度低下の連続は、次世の器の供給を停止させうる。この条項は今世も生きている」


「承知した」


「残熾火残量、予測範囲内」


 数値は、出ない。

 一万三回目の朝に告げられた二十三万余、という数字は、それきり告げられていない。アズラエルは節目でしか、私に数を返さない。今朝はその節目ではない、ということだ。


「戦略を諮問する。——前世、長期戦型を引き、八年で再設計した。今世の方針は」


「中間型。三年型を引く」


「根拠を述べよ」


「今世の彼の器は、海で生きている。海の天候には、三年に一度、大きな揺らぎがある——その周期を、私は基礎定数として持っている。三年目の揺らぎを、私は使う」


「承認。——身体的接触を介さない、距離型の死の設計だな」


「そうだ」


 アズラエルの輪郭は、揺らがなかった。

 輪郭が揺らぐ瞬間は、節目にしか訪れない——今朝はその節目ではない、ということだろう。


「承認。次の検収まで、結線を維持する」


 接続が切れる。


   *


 ——泉のほとりで、誰かが笑った。


 意識の戻る一瞬、また同じ断片が短く差し込んだ。女の三音の笑い声。男の低い、何か言葉のようなもの。

 蓋をする動作が、今朝は二拍遅れた。


   *   *   *


 神殿の朝は、塩の風で始まる。


 巫女見習いの日課は、儀礼書の整理と、朝夕の油皿の火の手入れ。神殿の長は私を一度だけ見て、書庫の奥を任せた。年若い女に古い儀礼書の整理を任せる者は、この神殿でも稀だった。寡黙であること、孤児であること、その二つを長は気に入ったらしい。供物の受け渡し以外、外の人間と顔を合わせる場は最小限に絞られた。


 石の柱の影が長く石床に伸びていた。祭壇のそばの油皿の火が、夜のあいだ燃え続けて、朝の風で短く揺れている。煤の匂いは、修道院の蝋燭より重い。

 港の方角から、潮と魚の匂いが石壁を越えて入ってくる。海を持たない世にいた前世の鼻には、この匂いが新しい。器の鼻には、新しくない。器は、生まれてからこの匂いの中で育っている。


 私はその器を、二十年遅れで受け取る。


 検収の最終工程は、いつも、器の鼻の慣れを魂が追認する一拍だった。


   *   *   *


 儀礼書の整理を、私は神殿の長から任されていた。


 神殿の儀礼書は、羊皮紙よりさらに古い時代の素材で書かれていた。葦を薄く叩いて重ねた、ざらつく繊維。墨は油で溶いたものが多い。こういう素材を扱う器の指先は、過去の世で何度か持ったことがある——古い時代の指先。

 書庫の奥は薄暗かった。私は油皿の火を一つ脇に置き、繊維の一枚ずつを丁寧に繰る。神殿の儀礼の手順、捧げ物の順序、神々への呼びかけの形式。


 同じ祈りの言葉を、何代もの違う筆が、繰り返し書き写してきた繊維だ。ある世代の手は均整。ある世代の手は崩れ気味。私はその違いを、写本の年代差として読み分けていく。今、私の手の中にあるのは、神殿で最も古い層の写しだった。

 古い、というのは私の魂の側の感覚であって、器はそれを古いと感じない。器は、生まれて二十年の指先のままだ。


 そのうちの一枚の余白に、線で描かれた絵があった。


 葉。葉脈。


 ——薄荷の、葉。


 私の左鎖骨の痣と、線の運びが、ほとんど同じだった。葉脈の主筋から枝が出る角度。葉の縁の波の数。一万回、私自身が鏡で確認してきた紋様。


 油皿をもう少し、繊維に近づけた。主筋の長さに対する側脈の比、葉の付け根の角度、葉の縁の波の周期。私の痣が記憶している比率と、絵の線の運びが、寸分違わずに重なる。

 筆のはずみまで、同じだった。主筋の終わりで筆を一度だけ止め、紙の繊維を浅く掻く——鏡の中で私が見続けてきた葉脈の終端の止まり方が、ここに、墨で写されていた。


 絵の脇に、短い一行が添えられていた。


『薄荷を肩に持つ巫女、海を越えて——』


 そこで文は途切れていた。続きは別の束に書かれていたのか、書かれなかったのか、墨が褪せたのか——判別ができない。

 判別ができない、という事実だけを、私は記録する。


 ——前世、彼が咳で中断した一文。


 修道院の写字室の校正の途中、彼の喉が奪った続きの言葉が、あった。『痣ある者が、死の際に——』。それと今、私の指先の下にある『薄荷を肩に持つ巫女、海を越えて——』とは別の文だ。別の文だが、同じ一つの伝承を、違う時代が別々に書き留めた——そういう手触りだった。


 修道院の写本の一文は、伝承の新しい層。

 今、私の指の下にあるのは、その下の、より古い層。


 この『古い』という手触りを、私はいつかどこかで読んだ気がする——ただし、いつどの世で読んだのかは、思い出せない。


 帳簿の外側に、私はその手触りを置いた。書く、のではない。置く。書こうとして、まだ書けない種類の手触り。


   *   *   *


 夕刻、石の柱のあいだに、塩の風が抜けた。


 私は窓辺に立ち、港の方角を見た。神殿の建つ岬から、湾の入り口まで、目で測れる距離。商船の帆が三つ、夕日の中で傾いていた。


 ——今世、彼はこの湾のどこかに来る。


 器の寿命と海の天候から、彼の到来の窓は三度。三年のうちに、三度、この港に立ち寄る船がある。三年目の秋、その船の一艘が、海の周期の揺らぎに飲まれる。

 今世の彼の顔を、私はまだ知らない。海で生きる若い男——一万回の積み上げが私に確信させるのは、その一行までだった。器は毎世変わる。器の中の魂だけが、変わらない。

 設計図の第一稿は、それで引ける。

 接触は、神殿の供物の受け渡しの場で起こる。それ以上の物理的な接触は、設計図に入れない。距離を介して熾火を受け取る——前世の最後に彼の側から戻ってきた、あの一滴の延長線上に。


 私は通常の帳簿に、今世の一行目を書いた。


『一万四回目の朝、塩の港の神殿に降り立った私は、巫女見習いとして献じられた』


 帳簿の一行目は、毎世、こうして始まる。

 ただし今世、二行目を、私はまだ書かない。


 ——薄荷を肩に持つ巫女、海を越えて。


 その一行の続きを、彼の器のどこかが、知っているかもしれない。

 知っていたとしても、彼の今世の意識には届かない。彼は忘却側だ。これまで一万回、その規格に外れたことは、ない。


 ——ただし一万三回目に、規格は一滴だけ外れた。


 今世も、外れるとは限らない。

 外れたとして、距離を介して受け取る設計にその一滴が混じる余地があるかどうか。

 私は計算を保留する。三年の長さは、計算を保留しておくのに短すぎず、長すぎない時間だった。


 ——軋みは、前世の修道院の冬から、私の中に残ったままだ。


 今朝の検収で、軋みは消えていなかった。消えていないなら、今世の設計図にも、小さな逸脱の余白を最初から開けておかねばならない。余白の幅を、私は今、測れない。

 測れないままに、塩の風を、私は受けた。


 塩の風が、もう一度、窓の隙間を抜けた。

 神殿の油皿の火が、私の背後で、短く揺れた。

 ——薄荷を肩に持つ巫女、海を越えて。

 前世の写本。咳で中断した一文の続きを、古代の儀礼書の余白が、断片で持っていた。

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