一年、二年、五年――彼の影が薄くなるごとに、私の帳簿の外側の問いは、増えていった
春ごとに持ち直し、冬ごとに薄くなる彼を、私は八年、毎夜観測し続けた。
——帳簿の外側に書く問いが、静かに増えていった。
一年目の春、私は彼の咳の拍に合わせて羽ペンを置く癖を、器に覚え込ませた。
——これは、記録外の癖だ。
帳簿には書かない。書けば、癖が習慣化する。私は自分の設計図の中で、彼の咳と同期する癖を、今日も保留の欄に置いた。保留の欄は、この数週間で既に一行ぶんを埋めかけている。
写字室の週三日は、定規のように正確に過ぎた。
私は下書きを引き、彼は清書する。羊皮紙の受け渡しは、初日の一度以降、指先を触れさせないように私の側が距離を保った。一度の魂の指紋で十分だ。熾火を八年、ゆっくり沈殿させる設計——その第一稿に毎回の指紋は要らない。
ただし、距離を保つ癖を私は毎回、器に命じている。自然にはできていない。
——この逸脱も、今のところ保留中。
* * *
一年目の冬、彼は高熱で臥せった。
院長が私を看護係に指名した。寡婦としての履歴が、女子修道院の外への出仕を許した——という名目だ。私はそれを受ける。受けるという判断の速度を、院長は一度だけ奇妙そうに見たが、何も言わなかった。
病室は石壁の冷たい小さな部屋だった。蝋燭一本。彼の額に、私は初めて手を当てる。
——熱、三十九度台。危機的ではないが、器の消耗速度は今朝の検収で計算した設計図より速い。
彼の唇が熱の中で、一度、微かに動いた。
「——だれ」
呼びかけだった。寝言。
私の名は彼は知らない。今世の器の名前すら、私が偽名で名乗った一度しか耳にしていない。
——ただし、彼の唇が形にしかけたのは今世の偽名ではなかった。
それ以上、形にならなかった。熱の波が、音を引き戻した。
——記録。彼の魂が熱の中で、私の本当の名前に近い音を一度、取り出しかけた。
それを書き込むか保留するか。今夜の判断を、私は夜更けに迷った。
——迷った、という事実が、私の帳簿に情動の熾火とは別種の亀裂を加えていた。
*
——泉のほとりで、誰かが笑った。
夢の断片は一年目の冬から、輪郭を持ち始めた。女の、短い、三音の笑い声。そして笑い声の前に、男の低い、何か言葉のようなもの。何と言ったのかはまだ聞き取れない。
気のせいだ、と蓋をする動作が、今夜は二拍遅れた。
* * *
二年目の春、彼は戻ってきた。痩せた頬、薄くなった肩。写字室の奥の机に、再び彼が座る。
三年目の夏、私たちは中庭の泉のほとりで、写本の校正を並んで行った。
中庭の小さな泉は、水が冷たく澄んでいた。
私はその泉の縁に、初めて、一度だけ視線を落とした。
——ここで、誰かが笑った、ような気がする。
一万回の記憶のどこにも、こんな泉の記憶はない。それなのに、体の芯のどこかがこの水の冷たさを、懐かしいと言う。
蓋をする動作が、今日は三拍遅れた。
* * *
その夜、狭間。
「残量は予測範囲内。個別の数値は、節目でのみ、お前に返す」
アズラエルの声は相変わらず無機質だった。
「八年型の純度予測、現時点で〇・九七。——帳簿上、評価できる数値だ」
「そうか」
「ただし一項目、観測している。——お前の側の、蓋をする動作の遅延」
私は短く沈黙した。
「遅延は一年目の冬から累積している。——お前の魂の奥底で何かが蓋の内側を、押し始めている」
「……」
「帳簿の外側だ。私の管轄ではない。——ただし、純度予測の数値には影響しうる。記録する」
「記録してくれ」
接続が切れる。
* * *
五年目の秋、彼は初めて、私の薄荷の痣について尋ねた。
「——肩の、葉の形の、痣」
院長が私の肩を診察するために寝巻きを下ろす瞬間を、彼は回廊の向こうから一度、見た。見たことを、彼は私に詫びた。詫びる姿勢のまま、彼は続けた。
「——古い写本の端に、こう書かれていた。痣ある者が、死の際に——」
そこで彼の喉が、咳で中断された。乾いた、短い咳。彼は言い直そうとしたが、次の言葉は、もう出なかった。
「……」
私は彼の顔を見ない。見れば、観測データが情動で歪む。
——以前の世で、同じ一文を、読んだ気がする。
帳簿の外側の感覚。ただし、どの世の、どの写本だったのかは、まだ思い出せない。
——彼の魂が今世、私の識標に最も近づいた瞬間だった。
* * *
六年目の冬、彼の咳が一段深くなった。
石壁に反響する乾いた咳の反響の長さが、〇・二秒伸びた。
——一万回の記憶が、肺の空洞の拡大を計算する。あと一冬、もって二冬。
設計図の八年は、短縮を始めている。
七年目の春、最後の春だった。
あの泉の夢は、その春、もう一歩深まった。泉のほとりで、男の低い声が一つの音を、私の耳元に落とす。三つの音のうちの、最初の一つ。それに続けて、女の笑い声。——三音の名前。
名前の最初の音を、私は夢の中で受け取った。
目を覚ました瞬間、私は既にその音を忘れていた。帳簿の外側の記憶は、魂の表層には定着しない。
ただし器の奥のどこかの熱だけが、残った。
* * *
七年目の冬、彼は写字室で倒れた。
羊皮紙の上に、彼の体が一度沈む。私は走らない。走れば器の設計図を、情動で狂わせる。
私は歩幅を保ったまま、彼の机まで歩いた。
彼の額に、再び手を当てる。
——熱は一年目の冬より低い。ただし咳の拍に、鉄の匂いが混じっている。
院長が駆けつける。私は短く伝えた。
「最後の冬、になるかと」
院長の顔が凍る。
私はそのまま、彼の肩を支える。支える角度を私の腕は、どこで覚えたのか、正しく知っていた。
——一万三回目の設計図の最終工程が、始まる。
「最後の冬、になるかと」
——院長の前で私は初めて、自分の設計図の最終工程を口にした。




