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一万三回目の朝、狭間でアズラエルは私の魂の残量を告げ、私は六十年型の死を引いた

 六十年の同居、老衰の看取り——一万回の設計図は、通用しない。

 私の魂は、今世、別の種類の死を、要求している。

 第一万三回目の朝、私は器の中で、一度だけ軋んだ。


 軋むという現象を魂の側で体感したのは、初めてだった。


 検収は寝台の硬い藁の感触から始まる。薄い麻の寝巻きの下で、指先、足の裏、喉の奥、最後に鎖骨の裏を確認する。白銀の薄荷。葉脈の一筋まで、一万三回寸分違わない。魂の識標。

 ただし今朝は、検収が終わってから、魂の側の整列が一拍遅れた。


 その一拍を、私は初めて軋みと呼んだ。


   *   *   *


 星の海のような虚無が短く開く。狭間の空間。アズラエルの声。


「結線確認。今世の記憶側はお前、忘却側は彼。復唱せよ」


「記憶側、私。忘却側、彼。承知している」


「承認。——今朝、一項目、宣告する」


 宣告、という語をアズラエルは今まで使わなかった。


「前世、第一万二世の回収熾火、純度〇・九三二。一万二回分の累積平均を僅かに下回る。——契約不履行の帳簿条項を今朝、改めて通告する。純度低下の連続は次世の器の供給を停止させうる」


 器の供給停止。次の肉体を持てなくなる。それはただの失敗ではなく、消滅だ。


「——併せて、お前の魂に残る熾火の残量を開示する。残、二十三万余。これを下回り続ければ魂は自然に解体される」


 二十三万。一万三回目の私の中に残っている、私自身の火の数。

 それが多いのか少ないのか、一万回分を一つずつ積み上げてきた私には判別がつかない。ただ帳簿に数字が書かれる感覚だけは、今朝初めて、体の内側で重さを持った。


「——承知した」


「短期決戦型の連続は魂摩耗を加速させる。勧告。——今世、長期戦型への切替を検討せよ」


「検討ではない。——今世、六十年型を引く」


 アズラエルの輪郭がほんの一度、揺らいだ。一万回の観測で二度目の揺らぎだった。


「承認。——今世は老衰までの同居を、設計図の基本線とする。覚悟はあるな」


「ない。——ただし、他に選ぶ筋がない」


 接続が切れる。


   *


 ——泉のほとりで、誰かが笑った。


 意識が戻る前の、一瞬の断片。女の、短い、三音の笑い声。私自身の声だったのかもしれない。


 気のせいだ、といつものように蓋をする。

 ただし今朝は、蓋をする動作が一拍遅れた。


 ——これも、軋みのうち、か。


   *   *   *


 寡婦として神に余生を捧げる——という名目で、私はこの女子修道院の一室を割り当てられていた。二十代後半の、夫を早くに亡くした女。器の履歴はその一行で十分だった。


 院長は私の手の動きを一度だけ見て、写字室勤務を許可した。指先の癖が前の持ち主の筆跡を流す。私はその癖を今世も癖ごと受け取る。検収の最終工程。


 共同写字室は、女子修道院と隣接する男子修道院が週に三日共同で使う場所だった。石壁の部屋、細い採光窓、羊皮紙と蝋燭と、乾いた羊の脂の匂い。暖炉は入口から遠く、奥の机は常に寒い。


 その奥の机に、彼がいた。



 若い修道士。二十代前半、薄い病の影が頬に残っている。肺を病んでいる——咳の拍で私の耳はすぐに聞き取った。一万回の記憶は、呼吸の質感を瞬時に診断する。

 黒髪、目の奥に光を溜めた若者。器は違う。けれど、その奥の光は一万回寸分違わない。


 ——見つけた。今世も。


 院長が私を彼の机の近くへ案内する。写本の下書きを私が引き、彼が清書する——連携の形。


 彼は立ち上がって、一度、礼をした。痩せた肩が小さく揺れた。立つという動作が、この若さですでに器に負担を与えている。


 ——記録。彼の器の残寿命、楽観的に見積もっても十年あるかないか。


 私は自分の設計図の前提に、初めて亀裂を感じた。

 六十年型は、器が保たなければ引けない。



 彼が羊皮紙を一枚、差し出した。

 受け取るために指を伸ばす。紙の端で、指先が触れた。


 ——小指。


 魂の指紋は今世も発動した。彼の瞳の奥で、既視感が一度、波紋を描く。彼は知らない。私が一万回、この瞳を、同じ瞳を観測してきたことを。

 彼の指先の温度、体表の平均を〇・一度上回っている。この世の彼も、規格通りに、私を覚えている魂を持っている。


 私の側の指先も、平均から〇・〇三度外れているのを計測した。

 書き込まない。今朝も保留する。


 ——軋みは、今朝だけのものではないのかもしれない。


「——はじめまして」


 彼の声は細かった。けれど低く、落ち着いていた。訓練された声。修道士の声。

 一万回、この抑揚を聴いてきた。


「……はじめまして」


 私も短く返した。



 彼の手は清書をする手だった。爪は短く切られ、インクの染みが指の付け根に薄く残っている。剣胼胝はない。今世の彼は、剣を握る器ではない。


 一万回の観測で、彼の器は毎世異なる職を担ってきた。この器は写字生として十年を生きないまま死ぬ器だ。


 六十年型を引けない。

 その結論は朝の検収でもう出ていた。


 ——ただし今世、私は別の選び方をひとつ持っている。


 長期戦型の基本線を、彼の器の寿命の限界まで引き延ばし、老衰ではなく病の進行で看取る設計。彼の肺の病は計算上、あと八年から十年持つ。その間に私は彼の魂に八年分の熾火を沈殿させ、最後の一息を私の腕の中で受ける。——これなら、引ける。


 六十年の代わりに、八年。

 今世、私は設計図の第一稿を、検収の朝に引き直す。


   *   *   *


 夕刻、写字室を出るとき、彼は私の後ろで軽く咳をした。石壁に反響する乾いた咳。一万回の観測で彼がこの咳の拍で死ぬのは、過去二回の世と今世。三度目の、肺の病。


 私は振り返らない。

 振り返れば器の残寿命を情動で短く見積もってしまう。設計者は、情動で歪んだ器寿命を帳簿に書かない。


 修道院の回廊を歩きながら、私は帳簿の外側にひとつ問いを書いた。


 ——私は、何故、この男のために、死に続けてきたのか。


 一万三回目にしてようやく、その問いを保留ではなく開いた。


 答えは今世のどこかにある。

 ただし六十年ではなく、八年でそれを見つけなければならない。


 ——軋みは、もう、一つでは止まらないだろう。

 一万三回目にして、私は初めて、帳簿の外側に、ひとつ問いを書いた。

 ——私は、何故、この男のために、死に続けてきたのか。


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