一万二回目の完璧な死、踏切で彼は電車を受け、三音の名を返した
名前を知らない男に、なぜか、私は、断れない。――私の体の奥底、魂は、全部、知っていた。
書店の鈴が鳴ってから、三日が経っていた。
仕事帰り、携帯電話が鳴った。番号は知らない。判断する前に、指先が勝手に画面を押した。最近、そういうことが多い。朝の薄荷の痣の、呼ばれている感覚の延長のようなものだ。
「——明日の夕方、二時間、時間をくれないか」
彼の声だった。名乗らない。けれど、名乗らなくてもわかる声。
「どこに」
「海沿いの町の、古い駅。降りて、海の方へ歩いてくれれば、俺が見つける」
見つける、という言葉に、私は一瞬笑いそうになった。もう一度、見つけられている。それでも、彼はまた見つけると言う。
私は少しの沈黙の後で、「わかった」と答えた。断れなかった、と書くべきかもしれない。
* * *
翌日の夕方、海沿いの古い駅で、私は電車を降りた。
風には塩の匂いが混じっていた。電波と鉄路の世と言っても、この辺りまで来ると線路は古い。錆び色の単線が、海岸沿いに細く伸びている。
改札を抜けて、海の方へ数十歩歩く。
——彼は路地の角に立っていた。今日は薄い灰色の上着で、傘は差していない。曇天で、雨はまだ降っていない。
私を見つけた瞬間、彼の肩が僅かに下がる。駅のホームで見た、あの「やっと」の動作。二度目の、やっと。
「——来てくれた」
「来るつもりじゃなかった」
「知っている」
彼は微かに笑った。駅のホームで見せなかった笑い方。
私たちは海沿いの古い道を並んで歩いた。波の音が街灯の陰から湧いてくる。
彼は歩幅を私に合わせていた。そのことに気付けてしまう自分を、最近の私は少しずつ不思議に思い始めている。
「——お前を」
彼は正面を見たまま、話し始めた。
「お前を、ずっと前から知っていた。俺の方が、だ。お前は、俺のことを知らない。それは、今のままでいい」
私は足を止めない。止めたら、聞けなくなる気がした。
「お前の、左の鎖骨の下に、葉っぱの形の痣があるだろう。お前はそれを、生まれつきの痣として覚えているはずだ。——俺は、その痣の本当の名前を知っている」
薄荷の痣。そう呼ばれている、私の生まれつきの痣。
けれど彼が言う「本当の名前」とは別の言葉なのだと、私の体のどこかが先に知っていた。
「それを今日、教えに来たわけではない」
「……では」
「お前に返しに来た。——お前が昔、俺に預けていたものを」
何を預けたのか、私は知らない。
知らないのに、喉の奥が軽く締まった。預かりものを返される、という言葉が、なぜか私の泣き腺を触った。
彼はそれ以上、言わなかった。
私の歩幅に、足音を合わせ続けていた。
路地を一本入る。古い町の路地。
左手に、錆びた踏切が見えた。
単線の踏切。警報機のスピーカーは、塗装が剥げている。遮断機の棒は、白と黒の縞が半分消えかけている。線路の、湿った鉄の匂いが、風に乗って届く。
踏切の前に立ち止まった時、私はなぜか胸の奥で一度、王宮の大広間を思った。そんな場所、知りもしないのに。石畳の冷たい匂いを、なぜか懐かしいと思った。
気のせいだ。いつものように蓋をする。
警報機が鳴り始める。
軋んだ、鈍い音。遮断機がゆっくり下り始める。
私は渡り切れるはずだった。時間は十分にある。彼も、同じ判断をしたはずだ。
——けれど、踏切の中ほどに、小さな影があった。
三、四歳くらいの女の子。ピンクの傘を足元に転がし、警報機の下で両手で耳を押さえて動けない。母親らしき女性は路地の向こう端で立ち話をしていて気付かない。
遮断機がその子の頭上に下りかける。——泣きそうな目で立ち尽くしている。
私の足は、体のどこかに命令される前に動いていた。
傘を手から滑り落として、踏切の中へ駆け込む。
考えない。迷わない。手を伸ばす先は、その子の小さな肩だけだった。
警報機の音が加速する。
遠くから、単線の電車の軋みが近づく。
「——馬鹿が、二人とも」
彼の声が、すぐ後ろでした。
彼も踏切の中に踏み込んでいた。私より数歩早く、女の子の傍に辿り着いていた。
彼の右腕が女の子を抱え上げる。左手が私の背中を強く押した。
視界がひっくり返る。
私の体と、女の子の小さな体が、一つの束になって線路の外側の砂利の上に放り出される。女の子が、私の腕の中で一度、強く泣いた。
——彼の姿が、踏切の中に残っていた。
私たちを押し出した反動で、彼自身は身を引く間がなかった。
電車の先端が彼の左肩を掠める。
* * *
彼の体が線路の外側へ弾き飛ばされる。砂利の上を鈍く転がる。
警笛が鋭く鳴った。続けて緊急ブレーキの金属音が線路を削る。それでも電車は数十メートル先まで進んでから、ようやく止まった。
鉄の軋みが、世界の音量を一度、抜き取っていく。
私は女の子を歩道の縁石の陰に座らせた。駆けてくる母親の足音がする。その子は私の目を見て、小さく頷いた。
そして私は、彼の元へ這う。
立ち上がれない。立ち上がるという動作の作り方を、体が忘れていた。
残されたのは、私の荒い息と、警報機の余韻と、彼の浅い呼吸だけ。
彼の体を、私は抱きとめた。重い。けれど、私の腕はどこで覚えたのか、その角度を正しく知っていた。
外傷は、左の肩から胸にかけて。電車の先端が触れた箇所だけ。体の形は、守られていた。
彼の額に、私の額を寄せる。
鎖骨の薄荷の痣が熱い。焼けそうに熱い。
それなのに、涙は止まらない。
この泣き方を、私はやっぱり知らない。
知らないはずなのに、体が知っていた。
「——返しに、来た」
彼の唇が動く。私の耳のすぐそばで。
「一万世、俺が預かりすぎた。お前の、本当の、名前」
彼の唇が、三音を形にする。
短い、三音。名前の形。
私の脳は、それを意味として受け取れない。けれど、私の体の芯のあたり、内臓よりもっと奥——薄荷の痣の、その下——が、確かにその音を受け取る。
一万世、向こうから送り返されてきた、預かり物。
——受け取った。
そう、私の体の芯が、確かに返事をした。言葉ではなく、熱として。
鎖骨の薄荷から、何か光ではない光が、私の胸の奥へ流れ込んでくる。——それとも、流れ出していくのか、どちらか判別がつかない。ただ、それは熱くて、重くて、一万回分の距離を飛び越えた手触り、だった。
彼は私を見ている。
見ながら、笑っている。
そして、その笑顔のまま——
——呼吸の最後の一つを、吐ききった。
* * *
星の海のような虚無。狭間の空間。
俺はそこに立っている。器の重さから解放された、魂だけの俺。
「完了。今世の熾火回収、過去最高値を、更新」
アズラエルの声は、相変わらず無機質だった。
相変わらず、と俺が思えるほどには、俺の魂はこの空間を覚えていた。
「不純物、わずか。——今世、お前は設計者として、よく働いた。記録する」
「想定通り」
想定通り、と俺は答えた。
今世、俺は長期戦型を選べなかった。彼女を殺す設計図を引くことを、魂の方が拒んだ。ならば、俺が受ける——その結論を、踏切の前で確定した。幼い命を一つ拾う機会も、同じ場所に差し出された。悪くない閉じ方だ。
——警報機が鳴った瞬間、俺は一万世分の観測履歴を一度に照らした。彼女に刻める熾火の深さ、帳簿を渡す最短の形、次世への結線余裕——三つの最適点が、踏切の中の一点で交わっていた。反射ではない。俺は、その点を選んだ。
「想定外もある。彼女の魂の位相異常は、今世も収束しなかった。次世に繰り越す。——ただし」
「ただし」
「お前の魂の位相も、今世、規格外の振幅で揺れた。観測履歴に、同種の前例はない。次世の結線には、別の設計を推奨する」
俺は肩で息をした——狭間では、息はいらないはずなのに。
「長期戦型、か」
「選択肢の一つとして、記録しておく。短期決戦型の連続は、魂の摩耗を加速する。第三百二世、効率係数一・七——お前も帳簿で見ているはずだ」
「見ている」
「次世、海に囲まれた群島ではない別の舞台、時代はさらに遡る。記憶を保持するのは、再び、彼女。お前は、忘却側」
——反転。
一万世で、初めての、ではない。けれど、一万一世目から連続しての反転。
「承認」
「彼女はこの世で、あと何十年か生きる。お前の死を、彼女の器は最後まで理解しきらずに生き続ける。——契約の想定の内だ」
「……知っている」
俺は短く答えた。知っている、と答えた口の奥で、別の語がもう一度、立ち上がった——置いていかれたくない、ではなく、置いていきたくない、だった。今世の俺の、最後の、帳簿外の一行だ。
狭間が閉じていく。
* * *
踏切の警報機は、すでに鳴り止んでいた。
私は線路の外側に座り込んでいた。救急車のサイレンが近づいてくる。誰かが通報してくれたのだろう。母親の腕の中で、女の子が一度、私の方を振り返った。私は首を小さく横に振る。こっちは見なくていい、という意味のつもりだった。
彼の体は、もう冷たかった。それでも、私は離さなかった。
鎖骨の薄荷の痣が、まだ熱い。
私は、名前を知らない男を、名前を知らないまま失った。
ただ、私の体の芯が一つの音を受け取っていた。——意味がわからないまま、それは確かに、私の一番奥に仕舞われた。
いつか思い出すのだろうか。
思い出さないまま、あと何十年か、生きるのだろうか。
——薄荷の痣だけが、ずっと、熱いままだった。
熱は、引かなかった。引かないという事実を、私はもう、気のせい、の側へ押し戻せなかった。
——誰かが、この熱の残りを、私の知らないところで、数えている。
根拠のない確信だった。けれど、その感触だけは、確かに、痣の下に沈んで残った。いつか、この熱を数えていた側から、私のところに、請求書のようなものが来る気がする。——そう思った瞬間、私の中で一番古い何かが、小さく、警告のような音を立てた。
私は、名前を知らない男を、名前を知らないまま、失った。――薄荷の痣だけが、ずっと、熱いままだった。




