お前の気づかぬ間に、俺はとっくに堕ちていた――一万世以前、契約を交わす前のただ一度きりの生で、愛称を授けた瞬間から
今世は、俺が、設計者だ。――一万世、それだけの覚悟は、決めてきたつもりだった。
——一万世、探し続けてきた。
そう、あらかじめ覚悟は決めてきたつもりだった。
俺はベッドから起き上がる。
頭の芯が軽く冷たい。体の表面だけが、器のものとして他人のように動く。指を開き、閉じ、肩を回し、足の爪先まで信号を通す。関節の可動域、筋肉の張り、心拍の初期値——一万世、俺たちが(いや、彼女が、と言った方が正確だ)引き受けてきた、検収と呼ばれる工程。今世は、俺が代わりに引き受ける番だ。
鏡の前に立つ。黒い髪、二十代後半の輪郭、眼の奥の色が前世の俺のどれとも少し違う。器というのは、魂にとっては服のようなものだ——と、彼女はかつて言っていた。一万世、おそろいの服を着てきたわけではない、とも。記憶の中の彼女の声が、俺の中で一度、反響する。
——彼女の、声。
俺が一万世、聞き、忘れ、毎世、最期の一瞬にだけ思い出してきた声。
今世は忘れない。
今世は、最初から、全部、覚えている。
鎖骨の左側を手のひらで覆う。白銀の薄荷。葉脈の一筋まで、一万世、寸分違わない。俺の魂の識標。
——彼女の胸にも、同じ形が刻まれているはずだ。彼女はそれを生まれつきの痣として覚えているだけだろう。「薄荷の痣」とでも素朴に呼んでいるのかもしれない。彼女らしい呼び方だ、と思っただけで、喉の奥が一度、軽く締まる。
検収は、問題なく完了する。
——呼ばれる。
* * *
星の海のような虚無が、短く開く。狭間の空間。アズラエルの声だけが、無機質に響く。
「結線確認。今世の記憶側はお前、忘却側は彼女。復唱せよ」
「記憶側、俺。忘却側、彼女。承知している」
「結線の余裕は通常の半分。一万世分の観測履歴は、お前の魂側に繰り越し済み。自死の禁則は、今世も不変」
「確認した」
「今世、彼女の器は赤子から成長し、二十年。近隣住民との結線密度、普通。魂の残響、微弱に漏出。——薄荷の痣への朝の自覚が、それだ」
「気付いている」
「稼働許容は、七十二時間を超えても構わない。——ただし、純度が下がれば、結線を切る」
接続が切れる。感覚は逆の順で戻る。時間、温度、聴覚、視覚。
俺は再び、鏡の前に立っている。
一万世で初めて、俺の側の肩で息をした。
* * *
前世の最後の三十秒を、俺はまだ手放せない。
王宮の大広間、東側の柱の前。刃を受けた彼女。血の匂いと、石畳の冷たさと、戴冠式の鐘の五つ目。
彼女の笑顔を、俺は一万世で初めて見た。涙腺と頬の筋肉を別の用途に割り当てている、と彼女が昔言っていたことを、俺は記憶の裾で掴んでいた。その縛りを、彼女が最後にだけ解いた。
そして俺の口から、音がこぼれた。
音——というか、名前。最初の世で、契約を交わす前のただ一度きりの生で、俺自身が彼女の耳元に落とした、一つの愛称。
一万世、俺の記憶の中で眠り続けた、三音の、彼女の私的な呼び方。
彼女は笑って死んだ。
彼女の胸に俺の熾火が流れ込む——のではない。逆だ。彼女が俺の胸に、一万世分の熾火を一瞬で押し込んだ。
俺はそのとき初めて、自分が何を失ってきたかを理解した。
一万世、俺は何も知らないまま、毎世、この女に看取られていた。毎世、この女の設計図の上で、自分の死を祝われていた。
——今世、俺が設計図を引く側だ。
* * *
駅のホーム、雨の朝。
柱の陰から、俺は彼女を見た。
一万世分の観測履歴が、一斉に目の奥で照合される。歩幅、肩の位置、傘の握り方、白線の内側で立つ癖——彼女は忘却側なのに、魂の癖だけは、一万世前と寸分違わない。
俺は歩き出す。一度も迷わずに。
一度も迷わなかったことを、俺は後から帳簿に記録した。
——今世の俺は、彼女の前で迷う権利を、すでに捨てている。
予定では、小指は〇・三秒で離すはずだった。一万世分の基礎定数。俺は自分で引いてきた工程に従うはずだった。
だが俺の小指は、〇・三秒を越えても、彼女の小指に絡んだまま、むしろ力を込め直した。
離さない方が正確だった、ではない。離せなかった、の方が正確だった。
——記録。接触継続の逸脱、基礎定数比、三倍。
——記録。俺は今世の最初の接触で、帳簿を一度、裏返した。
* * *
三日後。三つ先の町、彼女のバイト先、駅前の古書店。
俺は客として扉を押した。
小さな鈴が、ちりん、と鳴る。カウンターの奥で、彼女が顔を上げる。驚いた顔をしない程度に、俺は表情を調整してきた。一万世、彼女の目に測られてきた側の、せめてもの自制だ。
「いらっしゃいませ」
彼女の声は、駅で聞いた時とわずかに違っていた。客相手の声。一段、明るい。
俺は棚の間をゆっくり歩く。彼女の視線が、俺の背中に二度、触れた。時間差、六秒と、十一秒。——記録。彼女の方は、俺を警戒の対象として観察している。駅での接触がその警戒を呼び起こしている。当然の反応だ。むしろ正しい。
俺は革の表紙の古い旅行記を一冊選ぶ。彼女のカウンターに置く。
「カバー、おかけしますか」
「——頼む」
彼女は古書のカバーを折る。指先は少しぎこちない。いつもより慎重に折っているのがわかる。俺の視線が、彼女の指先の動きを狂わせている。
紙の折り目が一度、ずれる。彼女は短く「あ」と言って、折り直す。
——一万世で初めて、俺は彼女の失敗を見た。
俺の基礎定数に、また一つ逸脱が書き込まれる。
彼女が折り直したカバーを、俺に差し出す。受け取るとき、俺の指の先が、彼女の爪の先に触れそうで触れない距離で止まった。——止めたのは俺だ。今世の俺は、触れる手前で止まることを自分に命じた。一万世で、初めての自制。
触れたくないのに、触れたい。その二つが、一本の指先の中で同じ強さで引き合っている。
それがいかに脆いか、俺は知っている。
「……あの」
彼女が口を開く。
駅のホームで答えなかった質問を、彼女はもう一度言いかけて、やめる。
俺は微かに首を横に振る。今は、答えない。今は、お前が知るには早すぎる。
——そう思って首を振った、つもりだった。
しかし俺の喉は、既に彼女の三音の愛称を呼びかけていた。寸前で飲み込んだ。飲み込んだが、飲み込む動作を彼女に見られた。彼女の目が一度、大きくなる。
——呼びたかった。
今すぐ呼んで、一万世分の距離を、この一瞬で、埋めてしまいたかった。それが彼女をどれだけ怯えさせるか、俺の側は、もう計算できる頭を持っているのに。
——記録。二度目の、逸脱。
店の外に出ると、雨は止んでいた。
俺は革の旅行記を胸に抱えたまま、歩き出す。
指が震えている。
一万世、俺はこの女に追い立てられて死んできた。
一万世、俺はこの女の設計図の、一番優しい場所で息を引き取らせてもらってきた。
今世、俺が同じことを、この女にしてやらなければならない。
——お前の気づかぬ間に、俺の側はとっくに詰んでいた。
一万世の、最初の、契約の前から。最初の世の、ただ一度きりの生で、俺がお前の耳元に三音の愛称を落とした、その瞬間から。
今世は、もう遅い。
俺の観測は、もう、帳簿の外へ溢れ始めている。
——岐路。
今世の設計を、七十二時間の短期決戦で終わらせるか。
それとも、六十年、同居する長期戦型へ組み替えるか。
どちらを選んでも、彼女は最後には死ぬ。
愛のピークで死なせる設計を、俺は引かなければならない。
一万世、俺の死を丁寧に設計してきた彼女へ、今度は俺が、同じ丁寧さで死を設計する番だ。帳簿の署名欄が、逆になる。
——殺したくない。
四文字が、剥き身のまま、胸の奥で一度、立ち上がる。設計者が絶対に帳簿に書き込んではいけない語だ。書き込んではいけない語が、胸の内側を焦がしている。
それでも、俺は設計図を引く。引かなければ、契約そのものが、彼女を、もっと酷い形で、殺す。
指の震えが止まらない。
一万世で、初めての震えだ。
私は、名前を知らない男を、名前を知らないまま、失った。――薄荷の痣だけが、ずっと、熱いままだった。




