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一万二回目の邂逅、駅のホームで君は私を見つけた

今度は彼が覚えていた――記憶の側が逆転したことを、私は知らないまま見つけられた。

 朝、目が覚める。


 六時半のアラーム、窓の外の海鳥の声、どこか遠くで回っている洗濯機の音。日本海側の、北寄りの古い港町、築年数のあまり誇れないアパートの二階の端が、私の住処だ。家賃の安さだけが唯一の取り柄で、壁は薄く、台所の床は微かに傾いでいる。


 目を開けると、私はいつも、鎖骨の左側を手のひらで軽く覆う。生まれつきの痣が、そこにある。淡い銀色をした、葉脈のくっきりした、葉っぱの形のあざ。小さい頃、近所のおばさんに「薄荷はっかみたいな形ねえ」と言われて以来、私の中では、それは「薄荷の痣」と呼ばれている。医者にかかったことはないし、痛くも痒くもない。


 ただ、朝だけ——ほんの少し、呼ばれているような気がする。


 誰に呼ばれているのかはわからない。たぶん、私の体のどこかにいる、私自身ではない誰か。そんな他人事めいた、それでいて確かにある感覚が、二十年のあいだ、ずっと私の朝を薄く湿らせてきた。


 気のせいだと思っている。思うようにしている。


 顔を洗い、歯を磨き、髪を一つに結ぶ。朝ごはんは、昨日コンビニで買っておいた塩むすびと、冷たい麦茶。大学までは電車で三十分、駅までの道のりには、小さな稲荷社の鳥居が一つある。大学三年目のこの春休みは、三つ先の海沿いの町の、古書店で週に数日、アルバイトをしている。大学の先生の紹介で、春先から通っている。それが、私の日常。毎日、少しずつ同じ順番で、少しずつ違う呼吸で、繰り返している。




 外に出ると、薄い雨が降っていた。


 朝の雨は、街の音を柔らかくする。車の走行音、駅前のアナウンス、自分の靴底の水音。電波が湿気を含んで、普段より近く聞こえる——気のせいだろう。けれど最近、そういう「気のせい」が少しずつ多くなっている。夜に見る夢の、肝心なところがいつも欠け落ちる感覚とか、誰かに手を振られた覚えはないのに手を振り返した後みたいな、中途半端な赤面とか。


 二十歳の誕生日を過ぎたあたりから、特に。


 誰かが私の一日を、外側から、目次にして読んでいるような気配。目次があるのなら、私の知らない最終章も、きっと先に書かれている。——そう考えて、私はいつも、そこで考えるのをやめる。


 傘の柄を握り直し、駅へ向かう。


 古びた駅舎の改札を抜け、跨線橋を渡って、ホームに降りる。朝、人が増え始める少し前の時間帯。乗客はまだ疎ら。傘の先から、ぽたぽたと水が落ちている。ホーム端の小さなLED表示板に、次の電車の時刻と行き先が、ぽつりと点滅している。

 ホームの中ほど、いつも立つ位置、白線の、内側。


 雨の匂いと、鉄と、自動販売機のほんの少し甘い匂い。


 ——そのとき、視線を感じた。




 顔を上げると、ホームの向こう端、柱の陰に、男が立っていた。


 二十代後半、黒いコート、傘は差していない。肩がほんの少し濡れている。無駄のない立ち方、足の位置、体の軸の取り方——雨の中でただ立つということに、これほど熟練した人を、私は見たことがない。

 彼は、私を見ていた。


 まっすぐに、一点も逸らさずに。ホームには他にも七、八人いて、女性もいるし、同い年くらいの人もいる。それなのに彼の視線は、最初から、私以外を視野に入れていない。


 ——これは、ナンパではない。


 それくらいは、私にもわかる。それくらい異質な視線だ。喜びでも、欲望でもない。敵意でもない。もっと奥にある、何か。「ずっと探していた」ものをついに見つけた、という目。


 でも、私は彼を知らない。


 目が、合う。合った瞬間、彼の肩が僅かに下がった。息を長く吐いたのがわかる。——「やっと」と言うみたいに。

 彼が歩いてくる。普通の速度で、しかし一度も迷わずに、私の前で立ち止まる。傘を差した私と、傘を差していない彼との、僅かな距離。


「——ここに、いたのか」


 最初に、彼はそう言った。


 低い声、落ち着いている。けれど、細い、張り詰めた糸のような緊張が、その声の芯を通っている。

 私は何も返せない。返せる言葉がない。

 彼は、私を知っているふうに話す。私は、彼を知らない。この非対称は、私の普通の語彙では処理できない。


「あの、」


 やっと、喉から音が出る。


「人違い、だと思うんですが」


 彼は笑わなかった。笑わないまま、ほんの少しだけ首を横に振る。自分の息を確認するみたいに、ゆっくりと。


「——いや。お前で、合っている」


 お前、という言葉の響きに、私の呼吸が一瞬、止まる。

 知らない人にそう呼ばれたことは、ない。それなのに、その響きは、私の体のどこかが先に知っていた。胸の奥、鎖骨の下、薄荷の痣の、そのすぐ下で。


 ——呼ばれている、と思った。


 毎朝感じていた、あの理由のない感覚。その声の主は、これだったのかもしれない。




 電光掲示板の電車の表示が、ひとつ進む。あと、二分。ホームのスピーカーが何かアナウンスをする。雨音に紛れて、半分しか聞き取れない。


 彼が手を伸ばした。乱暴な動きではなかった。私の手首を掴もうとする動きでもない。彼の指は慎重で、壊れやすいものに触れる前の、準備の動作だった。


 彼の右手の小指だけが——私の左手の小指に、絡んだ。


 絡んだ瞬間、鎖骨の薄荷が熱を持った。

 生まれつきの痣が熱い。そんなことは、これまで一度もなかった。

 私の体の芯のあたり——内臓よりもっと奥——で、何かが震えた。震える、という言葉は正しくないかもしれない。正確には、「思い出そうとして、思い出せなかった」という感覚に近い。見たはずの夢を、起きた瞬間に忘れた、あの空白の手触り。それが体じゅう、一斉に来た。


 傘の柄が手の中で滑る。落とす、と思った瞬間、彼の左手が私の傘の柄を下から支えていた。


 いつの間に。

 私は彼の動きを見ていなかった。見えない速度ではない。見えないように配慮された動きだ——と、なぜか私はそんなことを思った。根拠はない。


 彼の顔が近い。彼の唇が動く。私の耳のすぐそばで。


「——」


 一つの音が落とされる。短い、名前のような呼びかけ。私が聞いたことのない音なのに、私の体のどこかが知っている音。


 聞き取れない。いや、聞き取れた。けれど、私の脳は、それを名前として受け取ることを拒んだ。

 知らない。その音を私は知らない。知っているのは、私の体の芯のほうだけ。


 ——涙が、出た。


 理由がわからないのに、左の目尻からこぼれる。こういう泣き方を、私は知らない。




 ホームに電車が入ってくる。風が吹き、彼の黒いコートの裾が僅かに揺れる。ホームの人々がざわめきを取り戻し、世界がもう一度、動き出す。


 彼は私の小指を離さなかった。離せないのではない。離さない、のだ。それだけの重みを、彼の側に感じる。


 私は乗るはずだった電車を、一本、見送った。ドアが閉まり、電車がホームを去っていく。


 残されたのは——雨音と、灰色のホームと、黒いコートの男と、まだ熱い左鎖骨と、濡れた左目尻と、そして、絡まったままの、私の小指。


 私は彼に、小さく訊いた。


「あなたは、誰」


 彼は答えなかった。代わりに、私の小指に絡んだ彼の小指が、ほんの僅かに、力を込め直した。前より、確かに、強く。


 ——これは、ナンパでは、ない。

 そう、私はもう一度、自分に言い聞かせる。


 では、これは何なのだろう。


 答えは、私の側にはない。彼の側にある。

 そして彼は、次に私に会いに来る。そのことを、小指に残った彼の熱だけが、今から、私に告げている。


記憶を持つ側が変わったとき、『完璧な死』の設計者も変わる。――今度は、彼が私を攻略しに来る。


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