戴冠式で彼は私だけが知る名を呼び、熾火は最高値を記録した
これが一万一回目の完璧な死。私はずっと、このためだけに生きてきた――はずだった。
夜、野営地の炊事場の裏手。私は瞼を閉じる。器の眠気が、意識の片方を引き寄せる。
接続の手順は毎回同じだ。視覚、聴覚、皮膚の温度、最後に時間の感覚。全工程、一呼吸以内。私はそれに慣れている。
気がつくと、私は立っていた。床はない、壁もない。重力の方向だけが仮に下を示している。星の海のような虚無。狭間の空間。アズラエルの領分。
彼は、すでにそこにいた。輪郭を持った黒。無機質な外套の男の形。顔の造作は一定していない——輪郭だけが、私の視覚に合わせて仮に像を結んでいる。
「結線確認、今世の収支計測を継続する」
私は自分から、一つ、数値を申告する。
「観測対象の位相、不安定。魂の指紋発動時の遅延値、基礎定数比〇・〇三秒超過。視線深度、〇・一二超過。小指の温度応答、〇・一度超過、規格外。無意識運動の発現、前世観測例ゼロ。——今世の彼の魂は、いつもと違う」
もう一項目、観測者側の数値を、私は喉の奥に残す。指先の体表逸脱、〇・〇三度。申告するかどうかの判断自体を、今夜も、保留する。
アズラエルの輪郭が、ほんの一度、揺らいだ。揺らぐ、という現象を、私は狭間で初めて見た。
「確認している」
答えは、短かった。短すぎた。
「今世の観測値に、微かな異常が出ている。過去一万回の観測履歴に、同種のパターンは存在しない。今世の内で顕在化するか、次世に繰り越すか、現時点では断定できない」
「原因」
「詳細はまだ計測中。確定しているのは一点のみ。——『いつもとは違う位相で、彼の魂が震えている』。お前の申告した数値は、その裏付けの一部だ」
「参考までに。第三百二世、効率係数一・七。六十年同居・老衰間際の看取り回収。長期戦型の設計例として、記録に残している」
「覚えている。今世の七十二時間は、革命舞台の固有時間。選択肢は、毎世、変わる」
「ならば、工程表に変数を一つ追加する」
「勧告を記録する。以上、本日の交信を終了」
接続が、切れる。感覚は、逆の順で戻ってくる。時間、温度、聴覚、視覚。私は夜の野営地に、立ったまま戻っている。——残り、三十時間。
* * *
夜明け。東の空が白み始め、月は既に沈んでいた。七十二時間の工程表の、最終段が迫っている。
革命が、始まる。
王都東門が陥ちたのは、午後二時。反乱軍は予定通りに王宮へ雪崩れ込み、旧王は地下通路を辛うじて脱した。私の情報通り、伯爵家私兵の伏兵は地下聖堂で無力化された。市民の歓呼が、遠く、振動として伝わる。
王宮の回廊で、縄で繋がれた男と一瞬、視線が交差する。商人ゴルヴァス——痩せこけ、目の光が失せている。彼は私を見て、口を開きかけたが、声は出なかった。私は何も返さない。帳簿は、もう閉じている。
若き将軍は、血の匂いの残る軍装のまま、大広間へ足を踏み入れる。玉座は空のまま。大司教が聖冠を掲げ、彼の前に立つ。
戴冠式の鐘が鳴り始める。一つ、二つ、三つ——
私は東側の柱の陰に立っている。この位置、この角度。今世の偵察と、過去の革命型観測で、暗殺者の動線は計算し尽くしてある。旧体制の残党の一人が、王宮の北側の壁伝いに、刃を隠して近づいてくる。彼の標的は、新しく戴冠されようとする将軍の背中。
四つ目の鐘。
残留する警備兵の視線は、玉座周辺と大司教に集中している。新王の背後、北側の壁の陰は、一瞬、死角になる。設計図に書き込んである、死角だ。
暗殺者が動く。石畳を踏む音。刃の光。私はその動線に、自分の体を滑り込ませる。将軍の前、六歩の距離。私の足は、一度も迷わない。何千回と歩いた道だ。
鐘が、五つ目を鳴らす。
刃が、私の横腹を貫いた。
痛みは、遅れて来る。設計通り。致命までの三十秒、器の神経は、ショックで一時的に鈍る。私はその間に、必要なことを、する。
将軍の視線が、私に向けられる。驚きが、彼の瞳の奥で大きく揺れている。彼は剣を抜き、暗殺者の喉を一閃で断った。剣が石畳に落ちる音。大司教が聖冠を取り落としかけて、誰かが慌ててそれを支える。ざわめきが、広間の端から湧き上がる。
将軍は、聖冠を見ない。戴冠の儀式を忘れている。崩れかけた私の体を、両腕で抱き上げる。彼の軍装の、血に濡れていない部分はすでに無かった。
「——なぜ、お前が」
彼の声が、震えている。訓練された指揮官の自制が、崩れた瞬間だった。——一万回の観測で、彼の魂がこんな形で崩れたのは、初めてだった。
私は、笑う。一万回の設計で、私は一度も許さなかった表情。涙腺と頬の筋肉を別の用途に割り当てていた、その縛りを、今だけ、解く。
彼の腕の中で、私は彼の頬に手を伸ばす。温かい。血が彼の袖を濡らしていく。致命までの時間が、秒単位で削られていく。
残り二十秒。
彼の呼吸が、早い。肩が、小刻みに震えている。私を抱き上げる腕が、離すまいとする力と、軽く抱こうとする気遣いの間で、振動している。——こんな瞬間でも、設計者としての私は、観測を止めない。次世の工程表のために、彼の震えを、呼吸の間隔を、瞳の奥の色を、一秒単位で帳簿に書き込んでいる。この器が冷えるまで、最後のデータを取るのが、私の仕事だ。
残り十五秒。
彼の瞳の中に、私は映っている。今世の器の顔ではなく、もっと奥にいる誰か。彼自身も知らない、しかし確かに彼の魂が覚えている、一人の女の輪郭。
残り十秒。
彼の瞳の奥で、既視感が爆発した。波紋どころではない、津波だった。過去一万回分の震えが、一つの瞬間に収束して、彼の喉の奥から、言葉にならない音を引き上げる。
残り五秒。
彼の唇が、動いた。
「——」
彼が、呼んだ。
一万一回目にして初めて、彼の口から、正しい音が生まれた。最初の世で——私たちが契約を交わす前の、ただ一度きりの生で——彼自身が私に授けた、たった一つの愛称。一万回、記憶の外で眠っていた、私だけの名前。
私は、笑った。
情動の熾火が、最高値で、放出される。彼の胸の奥に、私の熾火が流れ込む——熱と、重さと、一万回の距離を飛び越えた記憶の一滴として。それが、次世への押し出しだ。私の心臓は、その瞬間、静かに止まる。
——ああ。
一万一回目の、完璧な死の設計図。
*
——ただし、なぜ一万回もこれを選び続けているのか。その問いを、毎世、胸の奥で握りつぶしてきた。
……最後の一行に、私は愛称の音を、書き留めた。ただし、その音は、帳簿の外。帳簿の外に記した音は、持ち越しの系には乗らない。次世の私は、設計図も観測記録も持ち越せる。けれど、この愛称に関してだけは、私は忘れる側だ。彼の口から聞かされる以外に、届く手段はない——一万回、変わらなかった法則だ。
* * *
星の海。狭間の空間。アズラエルが、そこにいる。
「完了。今世の熾火回収、過去最高値を更新。不純物は少ない。——私の帳簿が、ひさしぶりに震えた。次世でもこの精度を維持せよ。純度が下がれば、結線を切る」
「想定通り」
「想定外の部分もある。異常観測の結果、『彼の魂の位相異常』は今世では収束しなかった。次世に繰り越される」
「……ということは」
「彼の側に、過去一万回で蓄積された何かが、ついに決壊している。記憶を持たぬ彼の魂が、記憶を知っている。お前の存在の痕跡を、魂のどこかが計測し続けている。収束させるか、拡大させるかは、次世の設計次第」
——アズラエルの声に、初めて、奇妙な揺らぎを聞いた。観測者が肩入れしている。あるいは、契約そのものが、予定を外れ始めている。
一万回で蓄積された、私の痕跡。私の熾火が、毎世、彼の魂の底に一滴ずつ沈殿してきた。その総量が、ついに閾値を超えたのだ——と、私の中の設計者は、冷静に読み解く。
次世。
「次は海に囲まれた群島、電波と鉄路の世だ。少し急ぎすぎたようだが——君には時間が残っていない。今回、記憶を保持するのは彼。君は忘却側、赤子から産まれる。駅のホームで、覚えている側の彼に見つけられる——それが合図だ。ただし、今回の彼の魂は、将軍の時よりもさらに逸脱している。一万世、お前を探し続けていた者の、渇望の目で、お前を見るだろう」
「器の仕様は」
「外傷なき沈黙の範疇。ただし結線の余裕は、いつもの半分」
半分。通常より倍、精度が要求される。ただし、今世と違うのは——彼の魂の位相が、すでに、ずれていること。
吉と出るか、凶と出るか。
「続行」
「承認。次世へ、移行する。——ああ、ひとつ。今世の最終瞬間、お前は笑った。記録上、初めてだ。——作戦の一部か」
私は、少しだけ黙った。
「……作戦外の挙動だ。記録してくれ」
「勧告より、観測値として扱う。——では、次世で」
狭間が、再び閉じる。
次の私は、意識を繋げない側。一万二回目の私は、子として産まれ、二十年を普通に生き——駅のホームで、覚えている側の彼に、見つけられる。何も知らないまま。
何も知らないまま、という状態を、私は今まで、設計上の前提条件として処理してきた。ただし次世、その前提が初めて、私の側の損失として、帳簿に立ち上がりかける。
——一万世探し続けていたような視線で、彼はお前を見るだろう。過去最大の、逸脱者として。
記憶を持つ側が変わったとき、『完璧な死』の設計者も変わる。――今度は、彼が私を攻略しに来る。




